見出し画像

【戦国時代と法】文書から辿る徳川家と中央政権との関係性

※この記事は法制史の専門家が書いたものではなく、歴史好きの法学部生によって書かれたものです。多少の誤りがあるかもしれませんが、あたたかい目で読んでください。いい勉強になりますので、誤りについてはご指摘いただければうれしいです。


 桶狭間の戦いの後、西三河は織田氏勢力との境界となり、今川氏と織田氏の対立が激化しました。今川氏は関東方面への対応にも追われ、西三河における家康への十分な軍事的支援を行うことが困難になっていました。こうした状況のなか、家康は今川氏の統制・従属関係を見直し、織田氏との和睦を成立させました。
 ①この頃の家康と中央政権との関係を示す文書として、1561年3月28日付の足利義輝御内書があります。

[➀足利義輝御内書]
今度早道馬事、内々所望由申候処、対松平蔵人佐(元康)被申遣馬一疋嵐鹿毛即差上段悦喜此事候、殊更無比類働驚目候、尾州織田三介(信長)かたへ雖所望候于今無到来候処、如此儀別而神妙候、此由可被申越事肝要候、尚松阿可申也、
(永禄四年)三月廿八日          (花押)(足利義輝)
        誓願寺泰翁(慶岳)

 この文書では、将軍・足利義輝が求めた早馬について、家康が織田信長よりも早く応じ、嵐鹿毛の馬一匹を献上したことを賞賛しています。当時の義輝は、1558年に三好長慶との和睦を成立させて帰京した後、「天下静謐」の実現を掲げ、戦国大名や国衆に停戦を命じるなど、将軍としての政治的権威を積極的に行使していました。早馬の献上要求も、こうした将軍権力の活動の一環と考えられます。
 家康は、この要求に迅速に応じることによって、将軍との直接的な関係を構築するとともに、その存在を周囲に示すことができました。このことは、家康が今川氏の被官としてのみならず、将軍と直接結び付く政治主体としての立場を形成していく契機の一つであったと考えられます。
 1565年には、三好氏の勢力によって将軍・足利義輝が殺害される永禄の変が起こりました。その後、義輝の弟である足利義昭を擁立し、将軍権力を再興する動きが各地で進められます。そのなかで、②1565年11月20日付の松平家康書状が発給されました。

[②松平家康書状]
如仰今度 公儀之御様躰無是非次第候、就其 一条院殿(足利義昭)様御入洛之故、近国出勢之事被仰出之旨、当国之儀不可存疎意候、此等御意得専要候、猶重而可得御意候条、不備候、恐々謹言、
(永禄八年)十一月廿日     (松平)家康(花押)
      和田伊賀守(惟政)殿
                御返報

 この書状では、義昭の入洛に際して近国の出勢を求める呼び掛けに対し、家康が「疎意」なく応じる意思を示しています。将軍との直接的な関係を築きつつあった家康にとって、義昭による「天下再興」は、自らの政治的立場を強化するうえでも重要なものであったと考えられます。
 その後、織田信長は徳川・武田両氏との関係を利用しながら義昭の上洛を実現し、1568年、義昭は室町幕府第15代将軍となりました。他方、同年には武田信玄が今川領国への侵攻を開始し、信長と家康にも協力を求めました。この時期の徳川・織田両家の軍事的協力関係を示す文書が、③1569年2月4日付の織田信長朱印状です。

[③織田信長朱印状]
先度芳礼、殊改年之為祝儀鯉如書中到来珍重候、之仍遠州就可有御出張、舟之儀相意得候、然者人数等之儀、不被御心置承、不可有疎意候、委曲佐久間右衛門尉(信盛)可申候、恐々謹言、
(永禄十二年)二月四日    (織田)信長(朱印)
       徳川参河神(家康)殿
                 御報

 この文書からは、遠江への出陣を予定する家康が信長に船や軍勢の援助を求め、信長がこれに応じていたことが分かります。ここから、徳川・織田両家が軍事協力を伴う同盟関係を形成していたことが確認できます。
 さらに、④1570年9月14日付の足利義昭御内書からは、家康と将軍・信長との関係がより明確に読み取れます。

[④足利義昭御内書]
至中嶋表令進発、既(織田)信長励戦功、近日可討果分候、雖畿内其外諸卒数万騎馳集、外聞候間、此説(徳川)家康遂参陣、抽軍忠者可悦喜候、織田弾正忠無用通申由候へ共、先々任役諾旨、不移時日着陣頼思召候、委曲(一色)藤長可申候也、
(元亀元年)九月十四日  (足利義昭)(花押)
         松平蔵人殿(徳川家康)

 1570年、義昭は信長とともに三好三人衆らと戦うため出陣しており、この御内書はその最中に発給されたものです。義昭は、信長の戦功によって戦況が好転していることを伝えたうえで、「外聞」のため家康に参陣を求めています。また、信長が家康の出陣を必要ないと考えていたにもかかわらず、以前の約束に基づいて義昭自身が参陣を求めていることが示されています。このことから、この時期の家康は信長との同盟関係を維持しながら、将軍義昭とも直接的な政治関係を有していたことが分かります。
 この関係は、⑤1571年11月19日付の徳川家康書状にも表れています。武田信玄による徳川領国への侵攻に際し、家康は義昭から御内書を得るとともに、信長からも援軍を受けています。ここから、義昭による将軍権威と、信長による軍事力という二つの政治的資源を利用して、家康が武田氏への対抗を図っていたことが確認できます。

[⑤徳川家康書状]
対当国、武田光禄(信玄)手出候、就其被成下 御内書、寔外聞忝奉存候、此州之儀、手置涯分弓断無之候、其上自岐阜も出勢候間、示合数度敵陣追々と雖相動、一円不及戦体候、時宜可御心易候、猶委曲期幸音候、恐々謹言、
(元亀三年)十一月十九日     (徳川)家康(花押)
      朽木弥十郎(輝孝)殿

 しかし、1573年に信長が義昭を追放すると、室町幕府による政治秩序は大きく変化しました。その後、信長は朝廷との関係を強化し、将軍不在のなかで天下人としての地位を形成していきます。この変化のなかで、⑥1574年閏11月9日付の徳川家康書状では、家康が信長に対してより厚い書礼を用いていることが注目されます。信長の意向や行為に「御」を付し、宛名を上位に置くなど、従来よりも敬意を強く示す形式となっています。

[⑥徳川家康書状]
吉良表御鷹野可被成御越儀、尤以本望至極令存候、然者当年一段鶴・雁多相見候之由令申、必奉待外無御座候、為其重以大六(小栗重常)申上候、恐惶謹言、
(天正二年)閏十一月九日     (徳川)家康(花押)
    岐阜殿(織田信長)
        人々御中


 これは、対武田戦争において信長から政治的・軍事的保護を受ける必要が高まったことに加え、信長自身が将軍に代わる天下人として政治的地位を高めていたことと関係すると考えられます。
 以上の文書からは、徳川家と中央政権との関係が、①足利将軍との直接的関係、②将軍義昭との連携と織田氏との軍事同盟、③義昭追放後の信長への依存・従属へと段階的に変化していったことが読み取れます。すなわち、徳川・織田両家の関係は、当初の対等な軍事協力を基盤とする同盟関係から、次第に信長の政治的・軍事的優位のもとで徳川家が位置付けられる関係へと変化していったと考えられます。

参考文献
<論文>
・柴裕之「室町幕府・織田政権との政治関係」黒田基樹篇『徳川家康とその時代』(戎光祥出版、2023年)222-249頁。

いいなと思ったら応援しよう!