夕凪に残る名前_01
第一話 夕方の風
その日は朝から夕方の風が吹いていた。
窓を閉めても、どこか湿った空気が部屋の奥へ入り込んでくる。
母の遺品を整理する手を止め、透子は薄く汗ばんだ指先を見つめた。
古い箪笥の引き出しからは、防虫剤の甘ったるい匂いと、乾いた紙の匂いが混ざって漂ってくる。
カサ、と音を立てて落ちた一枚の写真。
拾い上げた瞬間、透子の喉がひゅっと鳴った。
写っていたのは、自分だった。
いや――違う。
自分によく似た女が、夕焼けの中で笑っている。口元の形、眉の角度、耳の輪郭まで、鏡に映した自分を見ているようだった。だがその女の目には、透子が生涯持ったことのない何かが宿っていた。迷いのなさ、とでも言うべきか。あるいは、過去を持つ人間だけが持てる、静かな確信。
その隣には、見知らぬ男。
五十代半ばだろうか。白髪交じりの髪を撫でつけ、薄い唇をかすかに上げている。笑っているのか、困っているのか、判断のつかない表情だった。
写真の裏には、滲んだ文字でこう書かれていた。
『次は、あなたを忘れない』
その時だった。
チリン――
どこからか、風鈴の音が聞こえた。
透子は立ち上がり、窓の外を見た。軒先には何もない。隣家の庭も静かだ。風は確かに吹いているのに、音の出処がわからない。
錯覚だ、と自分に言い聞かせた。
疲れているのだ。休みを取らずに遺品整理に来て、三日目の夕方だ。そういう時に人は変なものを聞く。
透子は写真を箪笥の上に置き、作業を続けようとした。だがその夜、眠りに落ちた瞬間に夢を見た。
焼ける匂いがした。
木が燃える、あの独特のパチパチとした音と、空気の中に混じる煤の感触。喉が痛い。目が開けられない。
それから、鈴の音。
風鈴ではない。もっと小さな、細い音だ。チリ、チリ、と断続的に鳴る。
そして声がした。
女の声だった。
「今度こそ、忘れないで」
透子は目を覚ました。
時計は午前三時を指していた。胸の中に奇妙な感触が残っていた。悲しいわけではない。怖いわけでもない。ただ、何かを失ったような、喉の奥に引っかかるような、あの感覚。
翌朝。
透子は商店街を歩いた。母が生前よく使っていた魚屋で夕食の材料を買い、帰り道に曲がり角を間違えた。いや、間違えたのではないかもしれなかった。体が先に動いていた、というほうが正しい。
細い路地を入ったところに、小さな古書店があった。
軒先に均一棚。色褪せた文庫本が並んでいる。奥から黴と紙の混ざった匂いが流れてきた。
ガラス戸を開けると、男が振り向いた。
写真の男だった。
「いらっしゃい」
落ち着いた声だった。驚いていない。透子が入ってくることを、ずっと前から知っていたような顔をしていた。
透子は固まった。
「どうかしましたか」
男は微笑んだ。白髪交じりの髪。薄い唇。写真と同じ顔だ。年齢だけが、少し重なっている。
「あの」透子はかろうじて声を出した。「あなたは、篠宮美津子を知っていますか」
男はしばらく黙っていた。
「はい」とだけ言った。
「母が……亡くなりました。遺品を整理していたら、あなたと一緒に写った写真が出てきて」
男は棚の間から出てきて、透子の正面に立った。久我恒一、と後で名刺を見て知った。古書店主、五十六歳。
「お気の毒でした」と言った。それから少し間を置いて、「あなたは前にも、ここへ来た」と言った。
透子は眉をひそめた。「いいえ。この通りは初めてです」
「そうですね」久我は静かに笑った。「この通りは、初めてでしょう」
言葉の意味がわからなかった。だが透子は、その場で聞き返すことができなかった。なぜなら、男の顔を見た瞬間から、胸の中に奇妙な既視感が流れ込んでいたからだ。
会ったことはない。ない、はずだ。
なのに、なぜか、この人の背中を知っている。
夕暮れが射し込んで、古書店の床に橙色の影が伸びた。
チリン――
風鈴が鳴った。
今度は確かに聞こえた。店の奥の、暗い棚の向こうから。
