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『北斗の拳』こんな時代だからこそ、改めて読む


愛と自己犠牲、その継承について



『北斗の拳』は、私が小学生の頃、常に好きな漫画の上位に君臨していた作品だった。

当時はもちろん、北斗神拳の圧倒的な強さに興奮した。「お前はもう死んでいる」という決め台詞、北斗百裂拳、北斗神拳究極奥義 無双転生、秘孔を突かれた悪党たちが断末魔とともに吹き飛ぶ描写。子どもの目には、とにかく強烈で格好よかった。

しかし不思議なことに、私が特に惹かれた人物を今になって並べてみると、ある共通点があることに気づく。

トキ、シュウ、ジュウザ、そしてシュウの息子シバ。

彼らに共通しているのは、「自己犠牲」である。

中でも、幼い私に

強烈な印象を残したのがシバ

だった。

ケンシロウを逃がすため、自らの命を犠牲にする。

その死を知った父シュウは、

涙を流しながら息子を責めるのではなく、

その覚悟を受け止める。

「よくやった」と。

子どもながらに衝撃だった。

あの場面が突きつけてくる問いは重い。

人間には、自分の命より大切なものが存在するのか。

『北斗の拳』は、子ども向けの漫画でありながら、そんな問いを容赦なく投げかけてきた作品だった。

文明が消滅したとき、人間には何が残るのか



『北斗の拳』の世界では、核戦争によって文明社会が崩壊している。

秩序もない。
法律もない。
警察もない。
司法もない。

自由や人権という言葉を掲げたところで、それを保障する社会そのものが存在しない。

そこにあるのは、むき出しの力である。

だから悪党たちは言う。

力がある者が奪えばいい。


弱い者は従えばいい。

逆を言えば生きるためにはその選択肢が優先される。

だがケンシロウたちは、同じ「力」にまったく逆の意味を与える。

力があるからこそ、弱い者を守る。



ここに『北斗の拳』という作品の根本があるように思う。

文明という外側の装置をすべて取り払ったとき、それでも人間を人間たらしめるものは何なのか。

法律があるから人を殺さないのか。

罰せられるから奪わないのか。

それとも、誰にも見られていなくても、自分の命に変えてでも自分より弱い者を守るべきものを守ろうとするのか。

『北斗の拳』の世界では、その問いへの答えが一人ひとりの生き方として描かれている。

悪人にもまた、愛がある



そして私がこの作品を好きなもう一つの理由が、敵を単純な「悪」として描かなかったことである。

ラオウ、シン、サウザー。

彼らの行ったことだけを見れば、間違いなく悪である。

しかし、その人物の過去を知り、その人間が何を愛し、何を失い、なぜその道を歩いたのかを知ると、不思議なことに完全には憎めなくなる。

シンはユリアを愛した。



だが彼は愛を「共に生きること」ではなく、「自分のものにすること」へ変えてしまった。

サウザーもまた、愛を知らなかった男ではない。



むしろ師オウガイを心の底から愛していた。

だからこそ、その愛する人を自らの手で殺さなければならなかった経験によって、彼は愛そのものを否定する。

「こんなに苦しいのなら、愛などいらぬ」と。

これは悪人の言葉というより、愛によって深く傷ついた人間の叫びである。

ラオウも単純ではない。



幼い頃の彼は弟トキを守る防波堤だった。

彼の原点には「守る」という感情が確かに存在している。

しかしそれが、

守るためには強くなければならない。

誰よりも強くなければならない。

ならば自分がすべてを支配すればいい。

という覇道へ変わっていく。

恐ろしいのは、「守りたい」という愛はしだいに「支配しなければならない」に変わっていった、言わば紙一重だということである。

だから『北斗の拳』は面白い。



悪人の過去を描くことは、悪行を正当化することではない。

ただ、

「なぜ、この人間はこうなったのか」を描くのである。

同じ家で育っても、同じ人間にはならない

そう考えると、ラオウ、トキ、ケンシロウという三人の兄弟は非常に興味深い。

彼らは同じ師のもとで北斗神拳を学んだ。

しかし、まったく違う道を歩く。

ラオウは「力」を選んだ。

トキは「慈悲」を選んだ。

ケンシロウは、その二人の背中を見ながら育った。

ラオウから強さを見る。

トキから慈悲を見る。

そしてユリアとの出会いによって、愛するということを選ぶ。

だからケンシロウという人間は、ラオウにもトキにもならなかった。

ラオウの強さと、トキの慈悲を、ユリアから知った愛によって一つにした。

そう考えると、北斗三兄弟そのものが、人間という存在についての一つの思考実験のようにも思えてくる。

私は、人間には幼少期の環境や出会いによって、聖人にもなれば、悪魔と契約する側にもなり得るような、危うい瀬戸際があると思う。

もちろん環境だけですべてが決まるわけではない。

同じものを見ても、人によって受け取り方は違う。

だからこそ、出会い、喪失、そしてその後の「選択」が重要なのだろう。

バットという、ごく普通の少年



その意味で、実に巧みであり重要な人物がバットである。

物語序盤のバットは、決して聖人ではない。

ずる賢く、損得で動き、生きるためなら盗みも小細工もする。

しかし、あの荒廃した世界なら、それはむしろ当然なのかもしれない。

もしバットがケンシロウではなく悪党に拾われていたら。

もしリンと出会っていなかったら。

彼は小悪党として生きていた可能性すらある。

バットはそのくらい、ある意味そこらにいる人間なのだと思う。

北斗神拳も使えない。

特別な宿命もない。

救世主でもない。

ただの少年である。

しかし彼はケンシロウと旅をする。

弱者を守るために力を使う姿を見る。

ラオウを見る。

トキを見る。

レイを見る。

シュウを見る。

多くの人間の生き様と死を見る。

そしてリンを見る。

力などなくても、人を信じ続ける少女を見る。

ケンシロウはバットに「正しい人間になれ」と説教したことはない。

ただ、生き方を、背中を、見せ続けた。

そして、あの小ずるかった少年は、やがて自分より大切な誰かのために命を張れる男へと成長する。

ここに私は、『北斗の拳』という作品の希望を見る。

人間は環境によって悪にもなり得る。

しかし、出会いによって善にもなり得る。

そして人から人へ受け継がれるものは、血だけではない。

生き方もまた、受け継がれていく。

愛の象徴としてのユリア



そして、この壮大な物語の中心にいるのがユリアである。

彼女は南斗の頂点に立つ南斗最後の将、

宿命を背負いながら、

北斗神拳伝承者であるケンシロウと愛し合う。

しかし二人が望んでいた幸せは、おそらくある意味驚くほど小さなものだった。

世界を支配したいわけでもない。

歴史に名を残したいわけでもない。

ただ二人で静かに暮らしたかった。

ところが宿命は、二人をまったく逆の方向へ連れていく。

そしてユリアを知った男たちは、次々と彼女に惹かれていく。

シン。

ラオウ。

トキ。

ジュウザ。

そしてケンシロウ。

だがユリアは、単なる「皆から愛される美女」として描かれているのではない。

彼女自身が、愛というものの象徴なのだ。



ユリアに触れることで、その人間が愛とどう向き合うのかが露わになる。

シンは愛を欲しさゆえに所有しようとする。

ラオウは力によって愛を掴もうとする。

ジュウザは愛する者のために命を懸ける。

トキは慈しむ。

そしてケンシロウは、愛する者の悲しみまで背負う。

だからユリア自身が拳を振るわなくても、
物語の中心にいられる。

彼女は男たちを変えるのではない。

その男の中に最初から存在していたものを、表へ引き出してしまう。

だからこそ「慈母」なのだろう。

愛は、人を善人にするとは限らない。これが愛の難しいところなのか。

ここまで考えると、『北斗の拳』が描いた愛は決して甘いものではない。

愛すれば幸せになる、という物語ではない。

むしろ愛するから苦しむ。

愛するから失うことが怖くなる。

愛するから狂うことさえある。

サウザーは愛する人を失い、愛を否定した。

シンは愛する人を失うことを恐れ、所有しようとした。

ラオウは愛のため力を追い求め、やがて支配へ向かった。

愛のためにトキは慈悲を選んだ。

シュウは愛のために自己犠牲を選んだ。

シバは愛のために未来を選んだ。

そしてケンシロウは、悲しみを背負いながら、それでも愛することをやめなかった。

ここに、この作品の大きなテーマがあるように思う。

愛があるか、ないかではない。
その愛を、どう生きるのか。

人は誰かを愛する。

そしていつか失う。

傷つく。

そこで人生は分岐する。

愛を閉ざすのか。

愛する者を所有しようとするのか。

力ですべてを支配しようとするのか。

それとも、その悲しみさえ引き受けて、次の誰かを守るのか。

愛をとりもどせ

こうして大人になって改めて『北斗の拳』を考えてみると、あの作品は「誰が一番強いのか」を描いた漫画ではなかった。

核戦争によって文明が崩壊した世界。

法律も制度も秩序も消えた世界。

そこで最後に残ったものは、人と人との間にあるものだった。

シバがケンシロウを守る。

シュウがその死を受け止める。

ケンシロウがその思いを背負って歩く。

そのケンシロウの背中を見ながら、バットやリンが育つ。

そして、かつて生きるために盗みを働いていた少年が、今度は誰かを守る側へ回っていく。

受け取ったものを、次の人間へ渡していく。

そこに血のつながりは必ずしも必要ない。

愛も、慈悲も、覚悟も、生き様も、人間から人間へ受け継ぐことができる。

思えば『北斗の拳』の主題歌は、「愛をとりもどせ!!」だった。

子どもの頃には、ただ猛烈に熱い曲だと思っていた。

しかし今になってみると、この言葉ほど作品全体を象徴しているものはないように思える。

文明を取り戻せ、ではない。

秩序を取り戻せ、でもない。

力を取り戻せ、でもない。

自分を取り戻せ、でもない。

愛をとりもどせ。

力だけが価値になった世界で、それでも弱い者を守る。

愛する者を失っても、愛することをやめない。

受けた愛を、自分だけのものにせず、次の誰かへ渡していく。

それこそが、荒廃した世界の中で人間が人間であり続けるための最後の砦だったのかもしれない。

個人が何より優先され、人と人との関係が希薄になり、ともすれば「自分さえよければ」という価値観へ傾きやすい今の時代。

そんな時代だからこそ、私は改めて『北斗の拳』を読み返したくなる。

筋肉隆々の男たちが拳を交え、血飛沫が舞う世紀末の物語。

その中心にあったものは、意外なほど静かで、温かいものだった。

人は何のために強くなるのか。
人は誰のために生きるのか。
そして、自分が受け取った愛を、誰へ渡していくのか。

小学生だった私は、そんな難しいことまで考えてはいなかった。

ただ、トキが好きだった。

シュウが好きだった。

ジュウザが好きだった。

そして命を懸けてケンシロウを守ったシバの姿が、どうしても忘れられなかった。

あれから何十年も経った今になって、ようやく少し分かったような気がする。

私が彼らに惹かれていたのは、彼らが強かったからではない。

彼らには、自分より大切なものがあったからだ。

そしておそらく『北斗の拳』は、世紀末という極限の世界を借りながら、ずっと私たちに問いかけていたのだ。

お前のそこに愛はあるのか、と。


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