054 アマチュアにとっての写真
写真を撮る層には、プロとアマチュアがいる。高校生の時、私はプロになりたいと思っていた時期があった。写真を撮ることと文章を書くことの二つが好きであり、人と関わることがとても苦手な高校生だった(今でもそれは根本的な部分では変わっていない)。しかし、周囲にそれを告げても誰一人賛成する者はいなかった。それならばプロに聞いてみるのがいいだろう、と思って尊敬していたあるスナップ写真家に手紙を書いて聞いてみた。今では考えられないが、当時は写真家の住所が載っている本があったのだ。その写真家は丁寧に返事をしてくれた。そこには「やめておきなさい」の文字が書かれていた。「生活できない」。
高校生の私にとっては衝撃であった。優れたスナップ写真をたくさん発表している写真家だったし、雑誌などの媒体にも時々出ている人だったから、「生活」は大丈夫なのだろう、と思っていたのだった。篠山紀信のような有名な広告写真家は余裕のある生活をしているということを聞いていたし、すばらしいスナップ写真やシリアスなドキュメンタリー写真を撮る人たちはきっとそれが認められてある程度の生活ができているのだろう、と高をくくっていたのだ。しかし、そうではないことを現実として知ることになった。私は、大学で写真を学ぶことを高校2年生の時に諦めた。それが果たして良いことだったのかどうかは私にはわからない。人生は、最良と思って行った選択が必ずしも最良になるとは限らないのである。
以来、私はアマチュアとして写真を撮り続けている。そして、プロフィールの所にも書いているが、「写真とは何か」がわからないままでもう40年ほどが経ってしまった。しかし、このアマチュアという「身分」が私の写真に対する発想を豊かにしてくれているようにも思えてくる。アマチュアの撮った写真には対価が支払われない分、責任がない。対価と責任がつきまとうと、それは写真の範囲を狭めることになるのではないか。
学生の時、結婚式の写真をアルバイトで撮影したことがある。結構な額のアルバイト代が提示されたのでこれはいいと思って引き受けたのだが、当時は今と違ってフィルムによる撮影である。今ならば写っているかどうか確認しながら撮り進められるが、フィルムでの撮影は失敗が許されない。手持ちの機材で写真を撮るということだったが、私の持っている機材で結婚式に使えそうな機材はニコンFAしかない。レンズは全てMFである。ビデオのクルーも入っているし、照明は複雑だし、暗いし、で撮影しながら引き受けるのではなかった、と後悔を始めた。撮影に失敗したから結婚式をもう一度やり直してくれ、というわけにはいかないのである。当時の私は森山大道氏のようなブレ・ボケの写真をよく撮っていたが、結婚式の写真でブレ・ボケの写真を連発すると、依頼者は怒るだろう。丁寧にピントを合わせ、フラッシュを使い、と何とか10本程度のフィルムを撮影して、現像に出し、取りに行くとある程度渡せる写真が写っていたのでかなり安心した。ちょっとしたプロの仕事を経験したのだが、そこには対価を得ことと引き替えに、責任が大きくのしかかってくるのだと痛感した。
要するに、プロとして写真という行為に携わろうとすると、それは資本主義という社会の大きな流れの中に飲み込まれてしまうことになるのである。資本主義の行き詰まりを言う論攷は現在、数多く提示されているが、どのような産業に携わっているとしても、多かれ少なかれ、この資本主義の影響は避けられない。私は自分自身が仕事に携わる時、社会に閉塞感を感じ、息苦しさを感じることが結構な頻度で存在する。そのような閉塞感や息苦しさから開放してくれるのは写真であったり、釣りであったり、農作業であったりするのだ。それは以前に書いた「趣味」の領域であるが、そのような現在、資本主義社会に大きく依存する対価を得る生業以外の、小さな世界を持つことによって自分が普段属さなければならない社会から自由でいられるような気がする。そのような世界は私一人だけでも成立させることができるし、場合によっては複数の少人数の人たちでも成立させることもできる。アマチュアにとっての写真という行為は、私たちが労働力という資源を売って対価を得るところとは少し外れた世界にあるのである。
写真の世界を見てみると、そこではいつもプロが主、アマチュアが従という立場であり続ける。各種のコンテストにおいてその審査員は必ずプロと呼ばれる人たちが務めるし、写真雑誌の解説記事を書くのはその道のプロである。私たちはプロの意見に耳を傾け、その意見に影響を受ける。カメラメーカーはプロに作例やレビューを依頼し、最近ではインフルエンサーと呼ばれる人たちもそのような場に登場することも多くなった。このように写真にもどうしても資本主義的な要素が入ってくる。現在のカメラやレンズ、それを処理するパソコンやプリンターが工業製品である限り、資本主義の論理から外れることはできない。しかし、その道具を使って写真を撮るという行為は、アマチュアの私たちにとっては資本主義的な行為ではないのである。私は実家の畑で野菜を育ててもいるが、野菜を売るために育てているのではない。子どもの頃に畑で採ってその場で食べたトマトの旨さが今でも忘れられないのだ。月並みな言い方だが、お金で買えないある種特異な感情や感覚を資本主義から外れた所にある世界では得られることがあるのである。
プロの写真家は苦しいと思うことも多いのではないか。勿論、プロでなければ味わうことのできない世界はあるに違いないし、苦しいと思うことと引き替えの幸福感は何者にも代え難い部分もあるだろう。それは私の生業とする仕事でも同じである。さらに、最近ではアマチュアを指導するプロという構図も見えるが、写真という行為を自由に捉えるアマチュアに対してそこにアドバイスを送るということは根源的に無理なのではないかと思われる。アマチュアの写真愛好家がプロの助言によって「写真を撮れない/撮りたくない」と思うようになったとするならば、プロが自分の感覚をアマチュアに押しつけているだけになってしまっているのではないか。アマチュアは写真という行為に対して自分に無責任でいるべきなのであり、やがてプロになりたいと思っているアマチュアは別として、プロの意見は自分の世界とは外れた所にあるということをアマチュアも自覚すべきなのではないかと思われる。
資本主義には、限界が来つつあるように私も感じる。しかし、資本主義に毒されない世界を持っておくことは私にとって自分の人生を豊かにする一つの方法なのだとも思う。高校生の時に、プロの世界に意を決して飛び込むことができなかった自分に対しての言い訳になってしまうのかもしれないが、その時の選択が最良の選択ではなかったにしても、その選択を最良のものにしようとすることが人生の中で本当は大切なことなのではないかとも思うのである。
