お寺のお坊さんが、Z世代の生死観を批判していたので、ひねくれた記事を書いてみた。
先日、父の一周忌をしました。檀家家系であるため、寺にて法要を行いました。
供養が終わると、お坊さんの説法が。このお坊さんは、毎回説法が長く、お話好きの人。今回も長かったです。
こんな話をしていました。ちょっと、矛盾などを感じたので、書いていきたいと思います。
説法
Z世代は、死後の世界を信じていない人が多い。死んだら、骨は海や山に巻いてくれればいいという考え方のようだ。
お墓が欲しいという人は、本当に少ない。
死後の魂がない。
次の世界があると思っていない。
つまり、今を生きているだけ。
本当にそれでいいのでしょうか?
今はAIに質問をすれば、それなりの答えが返ってきます。
迷いの答えはすぐ手に入り、それなりに暮らしていけます。
でも、それは人じゃない。
心がないロボットです。
人との交わりがなくて、それでいいのでしょうか?
人と人との交流が大切なのであって、それを疎かにしていていいのでしょうか?
今、こうやって寺に集まっていただいた皆さんは、少なくとも、天界を信じ、ご供養しに来られた方々です…。
最後、なんと言って締めたのか…忘れてしまいましたが、とにかく、宗教離れを嘆く内容でした。
勧誘に力を注いでいる印象
シンプルに、「勧誘行為だな」と思いました。この寺では、親族の四十九日には、経本をわざわざ配り、一緒にお題目を唱えてくださいと要求されました。
まぁ、こんなことも滅多にないので、お経をあげましたが、全ては「勧誘」につながっているなと感じている次第です。
大乗仏教なのに、天界を信じない人を否定する
「私は海に撒いて欲しい」と家族に頼んでいる身ですから、説法を聞いていて、ちょっと苦笑いでした。
本来、大乗仏教というのは、「南無妙法蓮華経」を唱えるだけで、広く人々が救われるという教えだったはず。
「法華経への信仰と唱題を重視し、すべての人の成仏可能性を説く大乗仏教」
自分の立場を守るために、他の信念を否定する。
なんじゃこりゃ。
隠れキリシタンの踏み絵をさせられている気分。
文化として受け入れているだけじゃ、救ってくれないのか?
信仰してないから、救ってくれないのか?
なんか、矛盾を感じます。
やっぱり、宗教もビジネスですから、稼がないと潰れてしまうわけで。遠回しに、やんわり脅されているような感触が残りました。
アップデートしない宗教が苦手
私が宗教が苦手なのは、アップデートしないところです。
こうやって考え方が多様性に向かわない。
時代時代で芽生える、欠乏や悩み、曖昧さを埋める支え方を、臨機応変に支えない。
THE固執かよ。
仏教の役割は、文化として根付いてはいるけれど、本当に信じなくてもいいのではないかな。
信仰してもいいし、しなくてもいい。
墓は持ってもいいし、持たなくてもいい。
でも寺はそれでは困るのでしょう。
運営が構造的に成り立たなくなる。
信者を増やしたい、引き留めたい。
そういう思いから、違う考えの人たちを否定する。
それってどうなのか。
AIを利用したって、人と人との付き合い方って時代と共に変わりゆくもので、無くなるものではないと思います。
もちろん法事がなければ親族も顔を合わせることは少なくなりましたが、血縁に頼らないと生きていけないような時代ではなくなったということの表れであり、集まりたい人は集まって縁を繋いでいるのです。
卵が先か、鶏が先かではないけれど、陰謀論などを通しても思うことだけれど、時代とは、人々の選択の集積が社会の形として現れたものでしかありませんから。
これからの経営に危機感を感じているのは理解できるのですが、今回の説法は、ひねくれて聞くこととなりました。
寺の役割は時代と共にだいぶ変化している
寺の役割は、移ろいでいます。
信仰は先細り、学問や教育は別機関に移行し、地域コミュニティとしての役割も、今はたくさん代替えがあります。
次は何が来るのか?
私の時代の感覚では、文化の遺産であり、アイデンティティではあるけれども、心の拠り所ではなくなってきた印象です。
日本人として失礼かもしれませんが、信仰心がないと、世界観を味わう意図でのエンターテイメント性を感じたりするものです。まさにインバウンドで日本観光しにきた外国人のような感覚です。
信仰はしないけど、日本の文化として愛したい。それはわがままなのでしょうか。
さいごに
万人成仏!!
ではなかった説法。
「どうかと思う」という否定と保身。
まぁ、個人的には「はやく墓じまいしたい。」という気持ちが助長した出来事でした。
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理解による癒しが、一人でも多くの人に届きますように。