その理解の解像度、「ふり」になっているかも。
「これ、わかった?」
「はい、大丈夫です!」
そう言った部下の成果物を見て、頭を抱えたことがある。
表面的には間違っていない。
言われたことも、それなりになぞっている。
でも、どこか浅い。
そして、しばらくすると同じところでつまずく。
同じ手戻りが起きる。
「わからないことは、わからないと言っていい」
「わからないまま進めないほうがいい」
そう伝えても、なかなか変わらない。
なぜか。
本人は、わかった「ふり」をしているつもりがないからだ。
本当に「わかった」と思っている。
ここが、やっかいだ。
人によって、「わかった」の基準は違う。
単語を知っている。
一度説明を聞いた。
仕事の流れを見た。
それだけで「わかった」と判断する人もいる。
一方で、背景や理由を理解し、自分で再現でき、例外が起きたときにも対応できて、初めて「わかった」と考える人もいる。
つまり、理解には「深さ」がある。
ところが、自分の理解がどこまで深いのかは、自分では案外わからない。
だから、10%しか理解していないのに、100%理解したと思ってしまう。
これが、無自覚な「ふり」だ。
だから「もっと深く考えて」と言っても意味がない。
「わかった?」と聞けば、「わかりました」と返ってくる。
ならば、聞き方を変える。
「明日から、どういう手順で進める?」
「自分の言葉で説明してみて」
「まず10分で考えたことをメモにして見せて」
そうすると、本人が自分の理解の粗さに気づく瞬間がある。
「あれ、思っていたよりわかっていないな」
この気づきが大事だ。
気づけば、
調べる。
聞く。
考え直す。
そこから、ようやく理解の解像度が上がっていく。
だから、育てる側がやるべきことは、「ふりをするな」と叱ることではない。
自分の「わかった」を疑うきっかけをつくることだ。
そして、これは部下だけの話ではない。
「なぜ、こいつはわからないんだ」
そう思った瞬間、指導する側もまた、自分の解像度を疑ったほうがいい。
自分は相手が「何をわかっていないのか」を、本当にわかっているのか。
理解とは、知識の量だけではない。
「わかった」と思ったときに、一度立ち止まれること。
そこから、解像度は上がっていく。
あなたのその「わかった」。
本当に理解していますか。
それとも――
その理解の解像度、「ふり」になっているかも。
