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筑後川の水をもう一度飲める水へ     名誉教授から、私への未来へ繋ぐ物語

初めまして、この記事をご一読していただき
ありがとうございます。
少しこの話の紹介をさせて下さい。

僕は、福岡県久留米市に暮らす、ある一般人です。
日々活気を失っていく地元の風景に、
どこか寂しさと危機感を抱いていたある日。

ある紹介がきっかけで、河川再生プロジェクト
発案者である名誉教授と出会いました。

教授が語ってくださったのは、
「もう一度、綺麗で安全な水が飲める川を
取り戻し、次の世代へ繋いでいかなければ
いけない」
という、とても素敵で
熱い思いの詰まったお話しでした。

僕は、専門的な知識は殆ど無いですが、
この未来への架け橋となるプロセスを、
教授のすぐそばで見つめ、地域社会の方々へ、
気持ちで届ける「メッセンジャー」
になりたいと思い、この投稿を始めました。

今後この場所で、プロジェクトが動き出す
ワクワク感や、一歩ずつ進んでいく物語を、
身近な言葉や、教授が過去経験された
エピソードを元に、インタビュー形式で
日々発信を行なっていきます。

ひとつの物語をめくるように、この地域での
挑戦の歩みを見守っていただけましたら幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。


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プロジェクトMCD発案者エピソード

第1章 : 原点と動機 エピソード『過去編 1/8』

なぜこのプロジェクトにおいてのテーマを
日本三大河川の「筑後川」に選んだのか?
また筑後川という川は、教授の人生において
どんな存在でしたか?

私は元々大阪生まれで、26歳の時に仕事の関係で
初めて久留米市に来ました。

当初は、筑後川について特に意識することも
ありませんでしたし、この町に来てから
しばらくの間は、この川とは深い関わりを
持たずに、暮らしていました。

筑後川が人生の中で大きな存在になったのは、
地域を研究テーマにしていく過程でのことでした。
私の元々の専門は、理論経済学でした。

その時期は数字と論理の世界で、
地域研究とは異なる分野で研究を進めていました。

転機が来たのは1980年代後半に訪れました。
久留米大学産業経済研究所(現:経済社会研究所)
の所長に赴任させていただいた際、
当時の学部長から
「地域研究に力を入れていただきたい」との
ご提案をいただいたのです。

その一言が、その後の研究人生を大きく変えること
になりました。

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当時、第3次全国統合計画(1977年)や
第5次全国統合計画(1990年)では、
国土交通省のグランドデザインに、
地域連携の改訂が提示されました。

そこから研究のテーマを「筑後川流域連携」
定めることになりました。

更に1997年頃 河川法が改正され、それまでの
「治水」と「利水」に加えて、新たに
「河川環境の改善」が求められるように
なったのです。

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この重要な転換により、民間の研究機関の
参加が初めて、社会的に必要とされるように
なりました。

またNPO法人制定の流れも相まって、
民間の河川活動が活発化していき、
当時の大学生と地域活動(筑後川フェスティバル)の
皆さん、青年会議所の有志の方々に
ご協力いただき、設立の先駆けとなる、
九州文化技術研究所(通称:キック)を作り、
活動を行うことになりました。

その後、こうした社会的背景と、
個人の研究関心や活動などが交差する中で、
「NPO法人 筑後川流域連携俱楽部」
設立へと至り、実際に地域と筑後川流域に
関わることになりました。


この投稿は、
筑後川入道九仙坊【久留米大学名誉教授】
参照の元、記事投稿を行わさせて
いただいております。


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