エッセイ 人間は自然が好きではない? 《3》
本日は、園芸品種と雑草の両者が歩み寄れる道はないのか、私なりの妄想を交えて語ってみたいと思います。
実は雑草は、短く刈り込むだけでかなり美しく見えます。

春になれば、たんぽぽやシロツメクサも咲き乱れます。
芝生のように完璧に整っているわけではない。
でも、草丈さえある程度そろっていれば、それだけで「荒れ地」ではなく「野原」に見えてくるのです。
ここが面白いところです。
同じ雑草なのに、腰の高さまで伸びれば「荒地」。
短く刈れば「自然豊かな広場」。
……人間の評価とは、ずいぶん勝手なものです。
しかも、わざわざ高級な芝を植える必要もありません。
生えてきた草を適度に刈る。
たんぽぽやシロツメクサが咲いたら、そのまま楽しむ。
私はこのくらいの「半分自然、半分人間」の景色が、いちばん気持ちいいのではないかと思っています。
そして、ここから私の妄想は街全体へと広がっていきます。
人口が減り続ける日本では、これから空き家がますます増えていくでしょう。
そこで私は、空き家に関する法律そのものをかなり強引に変えてしまったらどうだろう、と考えました。
例えば、誰も住んでおらず、固定資産税も長期間納められていない空き家。
所有者に何度通知しても反応がなく、管理もされていない。
そうした物件は、一定期間が経過したら行政が取得できるようにするのです。
何年も税金を払わず、誰も住まず、誰も管理しない家まで、永遠に個人の所有物として放置しておく必要があるのでしょうか?
行政が取得した空き家は、原則として解体します。
そして、そこに新しい建物を建てるのではありません。
整地して草を生やすのです。
たんぽぽ。
シロツメクサ。
名前も知らない雑草。
それらを定期的に短く刈り、誰でも入れる小さな緑地にします。
空き家が一軒なくなるたびに、小さな野原が一つ増える。
さらに隣の家も空き家になれば、二つの野原をつなげる。
それを十年、二十年、三十年と続けていけば、家と家の間に緑地が点在する、不思議な街ができあがるかもしれません。
私はこれを勝手に「広場逆開発」と呼ぶことにします。
新しい建物を次々と建てて地域を活性化するのではなく、不要になった建物を少しずつ消していく。
人口が減るたびに廃墟が増えるのではなく、緑が増えていく。
うまくいけば、そのうち街そのものが巨大な公園のようになるかもしれません。
管理が大変だと思われる方も多いでしょう。
草刈りは、AIを搭載した無人草刈機に任せます。
定期的に街中の緑地を巡回し、雑草を一定の高さに刈りそろえる。
人間がやるのは、たまに木を剪定したり、ゴミを拾ったりするくらい。
こうして、ほとんど手間をかけずに「管理された広場」を維持していくのです。
そして、広場がどんどん増えていけば、その一部を花畑や牧場、焚き火のできる公園などに変えていくこともできます。
少子高齢化で疲弊した街が、建物を増やすのではなく、自然と共に少しずつ美しく生まれ変わっていくのです。
もちろん、広場が増えて街が美しくなっただけでは、自治体の税収は増えません。
そこで次に期待したいのが、この景観そのものに価値を感じる人たちの移住です。
広い緑地があり、静かで、毎日のように気持ちよく散歩できる。
そんな環境を求めて、比較的所得や資産に余裕のある人たちが家を建てたり、マンションを購入したりするようになれば、街にも新しい税収や消費が生まれます。
広場がいっぱいあるので、子育て世代にも魅力的に映ることも間違いないでしょう。
ただし、そこで欲を出して乱開発してはいけません。
そもそも人を呼んだのは、建物ではなく緑なのです。
では、仮にこの「広場逆開発」がうまくいかなかったらどうなるのでしょうか。
残るのは、巨大な箱物でも廃墟でもありません。
広大な広場です。
もし将来、その広場を管理することすら難しくなったら、そのまま自然に返してしまってもいいでしょう。
草が伸び、木が育ち、長い時間をかけて自然林に近い姿へ戻っていく。
かつて空き家や廃墟だった場所が、少しずつ地球へ帰っていくイメージです。
成功するか、失敗するか。
私は、そこまで重要ではないと思っています。
役目を終えた土地は、自然に戻して地球にお返しする。
それが、私の考える「広場逆開発」です。
私は共産主義者ではありませんが、そもそも土地なんて海と同じで誰のものでもないはずです。
これから日本の人口は減り続けていきますが、「みんなが使える緑」が徐々に増えていけば未来も案外悪くないかもしれません。
