見出し画像

【短編】完全犯罪の正しい契約方法

 その夜、アスファルトは濡れた黒いビニール袋のような質感を帯びていた。

 街灯の光が水たまりに反射し、まるで不吉な眼球が地面にいくつも転がっているように見える。俺は、自分の心臓が肋骨の裏側で不規則にドラムを叩いているのを感じていた。

 目の前には、一人の男が転がっている。つい数分前まで、酒の臭いを振りまきながら俺の肩にぶつかり、汚らしい言葉を吐いていた存在だ。もみ合い、突き飛ばし、彼が後頭部を電柱の角に打ち付けた瞬間、乾いた音がした。それは、熟れすぎた果実がコンクリートに落ちた時の音によく似ていた。

 死体、という概念が、現実として俺の視界に居座っている。

 俺は狼狽していた。指先が冷たくなり、思考が霧に包まれる。警察。刑務所。人生の終わり。そんな単語が脳内でぐるぐると回転し、出口を見つけられずに衝突を繰り返している。

 ふと、目の前の電柱に貼られた一枚のチラシが目に入った。

『完全犯罪お手伝いします――㈱サイレントムーン』

 あまりにも直球すぎて、普段なら鼻で笑って通り過ぎるような代物だ。しかし今の俺には、それが泥沼に差し伸べられた黄金の蜘蛛の糸に見えた。俺は震える手でスマートフォンを取り出し、そこに記された番号をタップした。

 事務所は、雑居ビルの三階にあった。

 換気扇の回る音がやけに大きく響く廊下を抜け、重い鉄の扉を開ける。中にいたのは、どこにでもいそうで、どこにもいなさそうな、輪郭の曖昧なスーツの男だった。彼は俺の顔を見るなり、すべてを理解したような薄い笑みを浮かべた。

「殺人、ですね。状況から見て、突発的な事故。死体は路地裏。……承りました」

 男は事務的な手つきで、一枚の契約書をデスクに置いた。

「費用は五百万円です。即金で。そうすれば、我々はあなたの『完全犯罪』を成立させます。契約内容はシンプルです。あなたは『絶対に逮捕されない』」

 五百万。俺の貯金のほとんどすべてだ。だが、自由と天秤にかければ、それはただの数字の羅列に過ぎなかった。俺は震える指でネットバンキングを操作し、指定された口座に金を振り込んだ。

 確認が取れると、男は満足そうに頷き、契約書を丁寧に畳んで懐にしまった。

「これで契約成立です。おめでとうございます。あなたはもう、警察の手が及ぶことはありません。法の名の下に裁かれることも、鉄格子の中で過ごすことも、未来永劫ありません」

 男の言葉には、奇妙な説得力があった。肩の荷が下りるとは、まさにこのことだ。俺は深く息を吐き、椅子から立ち上がった。全身を支配していた硬直が解け、血管に温かい血が戻ってくる。

「……ありがとうございます。死体の方は、よろしくお願いします」

 俺は軽く会釈し、出口のドアに向かった。
 背後で、男がゆっくりと立ち上がる気配がした。

 ふと、ある疑問が脳裏をよぎった。どうやって、死体を消すのか。警察の捜査を、どうやって攪乱するのか。

 だが、その答えを聞く必要はなかった。

 男が背後から近づいてくる。靴音が、耳元でやけに鮮明に響く。

 そうか、と俺は思った。
 死人に口なし。死んだ人間に、逮捕状は届かない。

 男の影が、俺の視界をゆっくりと、確実に塗りつぶしていく。
 外ではまた、雨が降り始めたようだった。

 窓ガラスを叩く規則正しい音だけが、静かに響いていた。

(了)


いいなと思ったら応援しよう!