【短編】あの箱に、君がいてくれたら
かびた匂いさえしそうな古い校舎の三階。吸い込む息にさえ夏を感じた高校二年の教室。まだ何もできないのに、何でもできる気がしていた。クラスという箱で区切られた同い年の集団は、その箱の縁が世界の境界線だと信じて疑わず、僕らにとって九メートル四方の世界がすべてだった。
部活であったり、習い事であったり、別の箱を持っている奴らも多かったが、軸足はいつもその世界においていた。僕も、そうだった。
社会人になったいま、あの箱の奇跡がよくわかる。親友も、好きな人も、全て手の届く範囲にいることなんて、それ以降の人生で一度もなかった。
二年四組という舞台では、一人ひとりが誰かの物語の登場人物だった。それは絶対的なものではなく、主人公によって変わる物語だ。僕から見た慶太郎は「親友」だったが、別の奴の物語ではそうではなかった。だが、「好きな人」という役だけは、小野静香が独占していた。
「起立ーー」
小野の薄い唇から漏れた細い、しかしよく通る声で皆が席を立つ。机に添えられた白い指先に、細い腰回りで揺れるセーラー服の裾に、目を奪われない者は一人もいなかった。教師が話し始めるまで、教室の空気は彼女を中心に回っていた。
「なあ、帰りにマック寄ってこうぜ」
休み時間に、上半身を捻り話しかけてくる慶太郎。僕は「いいね」と頷きながら、慶太郎の肩越しに見える小野から目を離せない。席順が逆じゃなくてよかった。もし、慶太郎が斜め前の席じゃなかったら、僕はその席の奴に親友の配役を与えただろうか。
いや……。
小野静香を、好きになっていただろうか。
◇
金曜日の夕方。僕は片付き始めた仕事から手を離し、一本分の安堵を吐きに喫煙所へ向かった。いつもなら最後まで片付けて、そのまま定時にビルを飛び出している。ポケットの中で二度震えたスマホ。メールだろうと思った。それを確認するためだった。
『小野の一周忌、来る?』
呼吸が止まった。
胸の奥へ押し込めた記憶が、音もなく溢れ出した。あの、苦いものが胃から込み上げてくる感覚。吐き出したいのに吐き出せず、飲み込めず、いつまでも喉に引っ掛かっている。去年の暮れからずっと。
『正月は帰省する?』
彼女でもない、親友でもない小野。そんな彼女からメールをもらった日だった。僕の返信は届いたのかわからない。ただ、次のメールは来なかった。忘年会帰りのサラリーマンが、酒を飲んだままハンドルを握ったらしい。彼女は、美しいままで止まってしまった。
葬儀には行けなかった。年末の仕事を言い訳にした。厳かな部屋で彼女の顔を直視する自信がなかった。
僕らの世界が、あの箱だけじゃなくなっても。どこかで生きていてくれたら、それでよかった。あの日のメールを追いかけるように、『もう一度会いたい』とだけ送信した。
慶太郎の短いメールは、責めるでもなく、許すでもなく、ただそこにあった。僕はそれに『行くつもり』とだけ返信した。
ああ。僕の方から何か送ればよかった。
目を閉じると、瞼の裏に焼き付いているのは、やはり彼女の制服の後ろ姿だった。
◇
五年ぶりの故郷は、不思議なくらい変わっていなかった。学生から社会人へ姿を変えた僕らと違って、街はその間にひと呼吸しかしていないかのようだった。いまそこに制服姿の慶太郎が立っていても、何も違和感はない気がした。そのまま、あの頃のように話せる気がした。
冬休みの校舎は、温度と色彩をどこかに忘れてきてしまったようだった。廊下も階段も、薄っぺらいスリッパ越しに足の裏を刺してくる。リノリウムを擦る音さえ、静まり返った校舎に吸い込まれていった。
三階の奥から二番目。そこはまだ、僕らの箱と同じ名のプレートをぶら下げていた。引き戸を開ければ、きっと僕らがいたに違いない。まだ何もできないのに、何でもできると信じていた僕や慶太郎が。
そして――小野静香が。
たった一枚の引き戸。その向こうには、まだ彼女がいる気がしてならなかった。その可能性だけは、どうしても手放せなかった。
僕は、箱を開けることができなかった。
校舎を出た僕は、斎場ではなく駅へと足を向けた。もし途中で慶太郎に会えたなら、僕はようやく彼女に別れを告げられる気がした。誰にも会えずに駅まで辿り着いてしまったら……。
僕はまだ答えを持っていない。
(了)
