【短編】橙と紫のあいだで (第二回一枚の写真から文芸賞)
あのとき触れた感触と似ている。私は錆びた手摺りに指を何度も往復させた。繰り返し波飛沫を受け少しずつ力を抜いた鉄の隙間。水平線に消えようとしているあの色彩が、そこに長年かけて染み込んでしまったのだ。触れれば微かに崩れる儚いざらつき。海と鉄と、一日の終わりが、時をかけて紡ぎ上げた風化の美だ。
かつて世界一愛しい名で呼んだ女性は、蝉の声が止む前に私の前から姿を消してしまった。
『あなたに醜い感情を持ちたくない』
たった一文のメモ。最後の旅行で買ったポストカードの裏に書かれたそれは、乾いた洗濯機のなかに放り込まれていた。そのせいで、気づくまでに平日を全て使い果たしてしまった。居なくなって最初の週末。ハンガーから糊のきいたワイシャツが消えた頃、ようやく私は彼女からのメッセージを受け取った。隣に居たままだったら、きっと、ずっと見つけることはできなかった。その方がよかった。
お気に入りの紅茶の缶を探し、棚という棚を開けては閉め、扉に額をぶつけた。いつもならもう、カップを傾けその香りに目を閉じているのに。そう思ったとき、額に当てた指が、そこにあるまま心を撫でた。サボテンの棘のようでなく、月桂樹の葉のようでもなく、痛みのないざらつきがそこにあった。それは指の腹にたしかに引っかかるものの、触れられたはずの私の心の方には何も残さなかった。
手摺りをたよりに揺れる世界を押さえ込む。甲板という足場を失えば、私は簡単に地球に飲み込まれることとなる。そうして船に依存している私は、結局のところ地の上に立っていても同じだったのだろう。ならば水平線に合わせて重心を振り続ける今が良い。
指についた錆の欠片を見つめる私に、通りかかった船員は「毎年塗ってるんですけどね。いたちごっこです」と笑った。そうですかーーと言いかけて止めた。彼に同意するだけなのも、変に労うのも何か違うと感じた。ただ指をこすり続けた。
世界が染まる前に私は二等船室へと戻った。そこには、私のボストンバッグに右手を入れる男性の姿があった。駆け寄る前に声が出た。
「このコソ泥が!」
大勢の目があるからと場所取りのために置いていたのが迂闊だった。広い船室に響いた声。知らない顔がいくつも振り返る。それらは荷物を漁る男ではなく、高揚した私の顔に向けられていた。
「ちが……俺の方に転がってきたから」
男の手には歯ブラシのセットと携帯の充電器。取り出していたのか、入れようとしていたのかなど知るはずもない。私は大股でそこへ辿り着くと、無言で荷物をひったくった。男は呆然としていた。私が財布を取り出したとき、チャックを閉め忘れたのかもしれない。だが、それはもう私の中では些細な問題だった。彼女と同じ目をしていた。それだけで錆が生じる理由としては十分だった。
私はできるだけ毅然とした態度でバッグを抱え、二等船室を抜け出した。人々の視線が背中にまとわりつく。醜い心に直接指を触れられる感触があった。それは自分が一番よくわかっていた。それでも、誰かを罪人に仕立てないと惨めで生きてはいけなかった。ゴミ箱に袋がないことに腹を立て、寝坊した責任をなすりつけた行為と何ら変わりはなかった。その手に握りしめたポストカードがふたつに折れた。
水平線では太陽が最後の光を放ち、海と空のあいだで橙と紫とを混ぜている瞬間だった。この美しい光景を誰かに伝えることはない。私が言葉にした途端、それはとても醜いものになってしまうのだから。長い時間かけて生じた錆をこそぎ落とすこともしなかった。もちろん、塗り直すことも。
潮風は容赦なく私の心へ吹きつけて、何も奪うことなく通り過ぎてゆく。この船はポストカードの場所へは着かない。私はただ、これ以上夕陽が染み込むことのないよう、手摺りを強く握り続けることしかできなかった。
(了) 1567字
この作品は、花澤薫様の文学賞「第二回一枚の写真から文芸賞」に応募させていただいています。
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