自由になった夏休みが、一番忙しかった。
0時45分。
最後にトルクレンチを置いて、ようやく息をついた。
昨日の夜まで向き合っていたのは、新しいロードバイクだった。
チェーンの動きを確かめ、変速を何度も調整し、ブレーキを握っては微調整を繰り返す。
「よし。」
その一言で作業を終え、そのまま眠るようにベッドへ倒れ込んだ。
翌朝。
7時半のアラームが鳴る。
正直、まだ眠い。
体は「もう少し寝よう」と訴えてくる。
それでも布団から起き上がり、朝食を口へ運ぶ。
今日は、このロードバイクで初めて走る日だった。

駅までペダルを回し、輪行袋へ自転車を収める。
初めて持ち上げたその瞬間、小さく驚いた。
軽い。
今まで乗っていたELVES Vanyarも十分軽いフレームだった。

それでも、この一台はさらに軽かった。
肩へ担いだときの重さが、はっきり違う。
まだ走ってもいないのに、少しだけ期待が膨らんだ。
大学へ着くと、いつものように部室の前へ。
「お、新しいやつ?」
自転車に詳しい先輩や友達が集まってくる。
順番に眺めたり、少し乗ってみたり。
その中で、一人の先輩がニコニコして言った。
「かずまが乗ったら、速そうな自転車だね。」
その何気ない一言が、少しだけうれしかった。
入鹿池まで向かう道は、いつもと変わらない。
でも、自転車だけが違う。
ペダルを踏むたびに、するすると前へ出ていく。
決して脚が急に強くなったわけではない。
それでも、自転車が一歩先へ引っ張ってくれているような感覚があった。
一周目。
二周目。
三周目。
苦しくないわけではない。
でも、心地いい。
風を切る音と、タイヤが路面をなぞる音だけが耳に残る。
「ああ、走るって楽しいな。」
そんなことを考えられるくらいには、余裕があった。
その空気が変わったのは、四周目だった。
一人の先輩が、信号の立ち上がりで突然踏み込む。
その背中を、また一人が追う。
さらにもう一人。
一瞬で集団が細長く伸びた。
「行くしかない。」
反射的にダンシングへ切り替え、前を追う。
息が上がる。
心臓が速く打つ。
坂へ入る。
そこでまた驚いた。
軽い。
脚に残っている力はもう少ないはずなのに、自転車だけが前へ前へと進んでいく。
まるで、ギアが一枚軽くなったようだった。
気づけば必死にハンドルを握り、無我夢中で踏み続けていた。
ゴールへ戻るころには、脚はすっかり空っぽだった。
「明日のVO₂max、大丈夫かな。」
そんな不安が頭をよぎる。
でも、その直後には、
「まあ、そのとき頑張ればいいか。」
と、もう次のことを考えている自分がいた。
友達と大学へ戻り、昼ご飯を食べながら他愛もない話をする。
笑いながら時間は過ぎていき、午後になると机へ向かった。
簿記三級。
明後日はいよいよ本番だ。
問題集を開きながら、ふとスマホの予定表を眺める。
明日はVO₂maxの実験と資格の勉強、夜は初めての路上教習。
明後日は簿記の試験を受けて、そのまま美容院へ。
その次はオープンキャンパスの動画撮影。
さらに琵琶湖で三日間の合宿。
帰ってきたらまたVO₂maxの測定と教習所。
そして数日後にはタイ研修へ出発する。
予定表は、ほとんど隙間がなかった。
夏休みなのに、全然休んでいない。
でも、不思議と苦しくはない。
むしろ、このくらい予定が詰まっているほうが、自分は動ける。
一つ終われば、その勢いのまま次へ向かう。
部活の余韻を残したまま勉強を始める。
勉強が終われば、そのまま教習所へ向かう。
エンジンをかけ直す必要がない。
逆に、一日何も予定がない日のほうが難しい。
朝ゆっくり起きて、気づけばスマホを眺め、何となく時間だけが過ぎていく。
高校生の頃、夏休みは時間だけはたくさんあった。
でも、今より自由ではなかった。
大学生になって、自由は増えた。
行きたい場所へ行ける。
挑戦したいことを選べる。
会いたい人に会える。
その代わり、一つだけ足りなくなったものがある。
時間だ。
自由になれば暇になると思っていた。
でも実際は、その逆だった。
自由になったからこそ、やりたいことが次々と見つかる。
そして、そのどれも手放したくなくなる。
だから、自由になった夏休みが、一番忙しい。
今日、新しいロードバイクは、軽やかに坂を登っていった。
あの軽さは、フレームだけの話ではなかったのかもしれない。
やりたいことを一つずつ選びながら、慌ただしく毎日を走っている今の自分も、少しずつ前へ進んでいる。
そんな気がした一日だった。
