読むことは、いつか誰かに渡すこと
私は本を読むことが好きだ。
こう言うと昔からの読書家だと思われるかもしれないが、全くそんなことはない。
大きな転機となったのは大学院に入った4年ほど前のことだ。
詳細はまたの機会にするが、そこでの学びが私の読書習慣の出発点になった。
それまでは、興味はあっても本と真剣に向き合ったことはほとんどなかった。もっと学びたいという意欲から少しずつ専門書を読むようになると、自分が知らなかったことの多さに気づく。
それがきっかけで、恥ずかしながら、年齢を重ねてようやく本と向き合えたのだ。
いつしかそれが趣味となり、本を読むことに幸せを感じるようになった。
4月から始まった新しい生活では、その読書の時間がなかなか取れない。最近は少し読めるようになってきたが、十分とは言えない。
しかしせっかく出会った趣味。
いつか読めるようになったらと思って、本を買うことは続けている。
月に一度、テーマを決めたり、読みたい本をカートに入れておいて、「今月の本」として、数冊買うことが自分へのご褒美だ。
ジャンルは様々で、とてもバラエティーに富んだ本棚になっているから、妻からは、何を目指してるのと突っ込みが飛んでくる時もあった。
積ん読は増える一方だが、それはそれでいい。
しかし、ここ最近、不思議なことが起こった。
届いた本を並べてみると、数学と教育の本ばかりだったのだ。
教師を辞めるかもしれないと書いておきながら、どうしたことか。
心の底では、教えることへの思いがあって、この情熱はまだ消えていないということなのだろうか。
何にしても、本から得た知識をしっかりアウトプットできていないというのが、嘆いていることのひとつだ。
雑多な業務に追われ、気がつくと一日が終わっているのだから。
いつかはこの知識と経験を存分に出せる場所で、思いっきり発揮したい、と思う。
近い将来、どこか別の場所で。
「読書について書いたよ」
夫がそう言ったので、原稿をAirDropで受け取った。
最後の部分を読んだ時、私は漫画『チ。』のあるシーンを思い出した。
知識は、人の役に立つからこそ意味がある。
ならば実用的でないものを、なぜそこまで知りたがるのか。
そんな問いが投げかけられる場面がある。
それに対して、ただ本を読みたい、知りたいという純粋な欲求のある少年はこんな言葉を返す。
「でも、もし本当に素晴らしいものを見つけたら、それを自分だけのものにしておくなんてできない。 誰かに伝えたくなる。共有したくなるのは、自然なことじゃないですか?」
少しネタバレになるが、この少年はのちに、天文学者、数学者として大学で教鞭をとり、コペルニクスの師匠として描かれる。
学びたいという純粋な気持ちが、やがて誰かに伝える力になり、次の時代へつながっていく。
その流れに、私は感動を覚えた。
学べるということは、とても贅沢なのだ。
そんなことは、試験に追われていた学生時代には、到底思い至らなかったけれど。
手書きの文書をどこかの山奥に隠しておくような困難もなければ、見つかったら罰せられるわけでもない。
私たちは、どこまでも恵まれている。
読んできたこと。考えてきたこと。
積み重ねてきたこと。
「問うこと」「考えること」「追求すること」の価値について。
それを、どんな形で、誰のために伝えていくのか。
納得のいくまで考えて、試していきたい。
年齢を重ねるというのは素敵なことだよね。
白髪が増えたって、シワができたって、何も抗う必要はない。
ただ、内側にあるエネルギーは、失わずに生きていたいと思う。
好きなことや仕事に対する情熱は、若者にも負けるものか。
そんな気持ちで取り組んでいけば、自ずと次の道も拓けるかもしれない。
なんてことを考えたりしたので、自分への戒めも兼ねて、忘れないように書いておこう。
いつか誰かが見つけてくれたら嬉しい。
