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アリストテレス 『詩孊』  『薔薇の名前』ず『詩孊』 喜劇篇

 æ›žè©•アリストテレス『詩孊』光文瀟叀兞新è𳿖‡åº«ïŒ‰

私が本曞に興味を持ったのは、もっぱら、りンベルト・゚ヌコの小説『薔薇の名前』ずの関連であり、埌には、キリスト教ずの関連によっおでした。
぀たり、アリストテレスの哲孊自䜓には、ほずんど興味がないし、たしお「ドラマ創䜜論」であり「悲劇論」ずしおの『詩孊』そのものには、たったくず蚀っおいいほど興味がありたせん。
ただ、本曞「叀兞新蚳文庫」版には、蚳者による、幻の「『詩孊』第巻・喜劇篇」に関する文章があるので、この機䌚に、『薔薇の名前』においお謎めいた印象を䞎えた、アリストテレスの『詩孊』本線の方も、合わせお読んでおいお良いだろう、ず考えたのでした。

『薔薇の名前』では、䞭䞖の修道院での連続殺人事件が描かれたす。その謎を、「枅貧」を旚ずするフランシスコ䌚修道士であるバスカノィルのりィリアムが解くずいう、『バスカノィル家の犬』コナン・ドむルなどで知られるシャヌロック・ホヌムズ譚をふたえた探偵小説の圢匏で描いたのが、この名䜜小説ずいうわけです。

『薔薇の名前』の舞台ずなる䞭䞖の修道院には、迷宮構造を持぀「ペヌロッパ随䞀の図曞通」が備わっおいるずいう蚭定になっおおり、この図曞通に、「幻の曞」である「『詩孊』第巻・喜劇篇」が「犁曞」ずしお秘蔵されおいるのではないかず、䞻人公のりィリアムは疑っおいたす。りィリアムは「知の人」ですから、幻の「『詩孊』第巻・喜劇篇」の䞭身を知りたくおしかたがない。
しかし、それは䜕よりも「キリスト教の教えに反するこずが曞かれた犁曞」なのですから、そう簡単には読たせおもらえない。たしおや圓時「異端の疑いあり」ずされたフランチェスコ䌚の修道士ですから、りィリアムが、この図曞通の気難しい通長から、閲芧蚱可を埗るのは容易なこずではなかったのです。

ではなぜ、「『詩孊』第巻・喜劇篇」は「キリスト教の教えに反するこずが曞かれた犁曞」扱いにされたずいう蚭定になっおいるのでしょうか。
それはこの曞物が「笑いを肯定した理論曞」だず目されたからでしょう。

珟存する『詩孊』第巻を芋れば明らかなずおり、著者のアリストテレスは、優れた「悲劇」や「喜劇」ずいったものを、芳客に「カタルシス粟神の浄化」をあたえるものずしお、肯定的に捉えおいたすから、「『詩孊』第巻・喜劇篇」も「笑いの効胜」を肯定的に、より詳しく論じたものであろうずいうのは、誰にでも想像できるずころです。
しかし、ではなぜ、所詮は「喜劇論」でしかないであろうアリストテレスの「『詩孊』第巻・喜劇篇」の存圚が、キリスト教的に重倧問題芖されたのでしょうか。
それは、「䞇孊の祖」ず呌ばれたアリストテレスの䜓系的哲孊は、スコラ哲孊ず呌ばれた䞭䞖のキリスト教神孊が構築される䞊で、その孊問的モデルずされたものだったからなのです。

぀たり、ギリシャ時代の哲孊者であり、圓然キリスト教埒ではなかったずしおも、アリストテレスは、キリスト教神孊の根幹に関わる、最も尊敬された倧人物だったのです。
ですから、そんな倧人物が「キリスト教の教えに反するこずを、肯定的に曞いおいた」ずいう事実が知られおはマズい。そこで「『詩孊』第巻・喜劇篇」は秘匿され、やがお倱われお、珟代には残らなかったのではないか、ずいう珟実に぀ながる話にもなるわけです。

それにしおも「そんなにマズい本なら、秘匿などせずに、ぜんぶ燃やしおしたえば良かったではないか」ずいう圓然の疑問が出おきたす。
しかし、圓時のキリスト教䌚は「異端の曞物」を必ずしもすべお「焚曞」にしたわけではありたせん。「異端の曞」を焚曞にするのは、その理論が䞖に広たるのを防ぐためですが、焚曞にしさえすれば「異端の教え」そのものが消えおなくなるわけではありたせん。信者たちは、その教えを口䌝えにするこずができたからです。
したがっお、キリスト教䌚ずしおも、焚曞だけではなく、぀ねに盞手を論砎するための資料ずしお「異端の曞」を残しおおく必芁がありたした。それで、そうした「犁曞」は、修道院の図曞通などで厳しい管理の䞋に保管されおいたずいうわけです。

では、次に「そもそも笑いを肯定するこずの、どこがマズいのだ」ずいう疑問に぀いお曞きたしょう。

「笑いの吊定」ずいうのは、必ずしもキリスト教䌚の終始䞀貫した考え方ではありたせん。しかし、そういうこずを非垞に重芖しおいた人たちが少なからず存圚し、その考え方が力を持った時代や地域があった、ずいうこずなのです。

では、なぜ「笑いの吊定」などずいう考えが生たれたのでしょうか
それは、キリスト教の「犁欲」の考え方ず密接に関わる、本質的なものです。
いたでもキリスト教カトリックの叞祭は「独身」であり、「性」に関しお犁欲的であるこずが求められおいたす。なぜかず蚀えば、「性欲」ずか「食欲」ずか「名誉欲」ずいった、およそ人間的な「欲望」ずいうものは、人間をしお「神」から遠ざけるもの䞖俗的な阻害芁因だず考えられたからです。

ですから、䞀般信者ならば結婚し、セックスをしお子を成しおもかたいたせん。ず蚀いたすか、聖曞にも『産めよ増やせよ地に満ちよ』創䞖蚘に曞かれおいるくらいですから、子づくりをするのは、むしろ奚励されおさえいるのですが、問題は、あくたでもその目的は「子づくり」であっお、そこに「快楜」を求めおはいけないずいうのが、キリスト教が理想ずする「犁欲」的な考え方なのです。避劊や䞭絶、同性愛が犁止されるのも、このためです。産たない性は、悪なのです

そのため、神に仕える者ずなった叞祭は「快楜」を求めおはならない。そこで「犁欲」が匷いられたずいうわけです。
結局「快楜」ずいうのは「気持ちいい」だけで、䜕も生たない、ずいうのが、キリスト教的な考え方です。
そしお、そんな無䟡倀なものに気を取られるのではなく、ひたすら「神を求めよ」ずいう理屈になりたす。

ですから「性欲」ず同様、「笑い」ず蚀い「カタルシス」ず蚀っおも、それは「快楜」の䞀皮であり、䜕も生たないばかりか、かえっおその「快楜」性の故に、神を求める心の阻害芁因ずなりがちなので、それは「間違ったもの」「キリスト教の教えに反するもの」ずいうように考えられるようになったのでした。
そしお、それを正圓化する理屈ずしお「聖曞の䞭に、む゚スが笑うシヌンは䞀床もなかったむ゚スは、悲しみ怒りはしたけれど、笑わなかった」ずされたのです。

で、こうした犁欲的態床が求められたのは、「修道士修道女」の堎合も、たったく同じです。
修道士ずいうのは「叞祭」だずは限りたせん。修道院には、䞀般信者たちの子匟が䞻が入り、そのなかで「叞祭」の暩限を受ける者男性もいただけです。
぀たり、修道士ずは「出家信者」だず考えれば良い。圌らは「圚家」のたた信仰するのではなく、より本栌的に信仰したい、しようず思っお、圚家の立堎や家族や財産を捚おお、神ずの関係に専念するために、修道院に入ったのです。
ですから、修道士が「犁欲」的であるこずを求め、求められるのは、いわば圓然のこずだったのです。

このようなわけで『薔薇の名前』で描かれた修道院においおも、犁欲が求められ、「笑いの効胜」を肯定した「『詩孊』第巻・喜劇篇」は、犁曞ずしお厳重な管理の䞋に眮かれたずいうのもたた、圓然のこずだったです。

修道士たちは、俗䞖ずの瞁を切り「祈りず読曞ず劎働」の日々を通しお、神ずの盎接察面をめざしたした。俗䞖のしがらみや快楜ぞの欲望を断ち切るこずで、神に接近できるず信じたのです。

しかし、事はそう簡単ではありたせんでした。
前述のずおり、『薔薇の名前』の䞻人公であり探偵圹のバスカノィルのりィリアムもたた、「枅貧」を旚ずするフランシスコ䌚の修道士でした。
蚀うたでもなく「枅貧」ずは䞀皮の「犁欲」です。だから、りィリアムも「犁欲」自䜓には反察ではなかったものの、しかし「祈りず読曞ず劎働」の日々をおくる修道士ずは、䞀皮の「知識人」であり、それは異端に察する理論的闘争者ずしおの任務を持぀のず同時に、玔粋に「知を愛する」人でもあったのです。

そしお問題は、この「知を愛する」ずいうこずでした。
「知を愛する」ずは、平たく蚀えば「知的欲望が匷い」ずいうこずであり、これは、ある意味でキリスト教的「犁欲」に反する、人間的な「欲望」だずも蚀えるでしょう。
しかし、キリスト教䌚ずしおも「知的であるこず」を吊定するわけにはいきたせん。そんなこずをしおたら、異端ずの論争に勝぀こずもできず、唯䞀信仰ずしおの特暩を守るこずができないからです。それで、ここに「キリスト教の根本的ゞレンマ」が生たれおしたいたす。
䞀䞀「知は、際限なく求めおも良い、信仰的矎埳なのか」ずいう難問です。

珟代の私たちにはわかりきった話ですが、「知を求める」こずず「信仰を堅持する」こずずは、倚くの堎合、䞡立䞍胜です私は先日、䞉田䞀郎『科孊者はなぜ神を信じるのか』ずいう本の欺瞞を、培底的に批刀したした。
実際、近代になっお、科孊的思考が発展しおいくず、キリスト教の教矩や「聖曞に曞かれおいるこず」ずいうのは、そのたたの「珟実」や「歎史的事実」ではなく、「ある皮の比喩」でしかない、ずいうこずにせざるを埗なくなっおきたした。
珟代科孊は、神の居堎所をどんどん狭めおいき、神を「隙間の神」ず呌ばれるずころたで远い詰めおしたっおいたす。
たた、だからこそ、そうしたこずぞの反動ずしお、珟代ではキリスト教でも「原理䞻矩」者ず呌ばれる人たちトランプ倧統領を支持する「犏音掟」などがそれが出おきお、「ダヌりィンの進化論は間違っおいる。人間は猿から進化したものではない。神が盎接お造りになったのだ。そしお、䞖界は億幎も前に生成されたものではなく、せいぜい数千幎ほど前に、聖曞にもあるずおり日間で創られたものにすぎない」などずいったこずを、本気で䞻匵するようにもなったのです。

で、話を『薔薇の名前』に戻したすず、バスカノィルのりィリアムもたた、すでにこうした「知ず信仰のゞレンマ」を抱えた人だったず蚀えるわけです。
圌が、この修道院連続殺人事件を解決したのも、圌に「真理真盞を求める意志」があったからですが、蚀うたでもなく圌のこうした「真理真盞を求める意志」は「諞刃の剣」であり、信仰を「神秘」に止めおおいおはくれたせん。
圌がその「知ぞの愛」によっお真理を求め続ければ、いずれその「知の剣」は、自身の「信仰」ぞも向かわざるを埗ないこずを、圌自身も感じおはいたのです。

そしお、この物語では、そこたでは描かれないものの、バスカノィルのりィリアムのモデルである、䞭䞖の神孊者オッカムのりィリアムは、その知の求めるずころに埓っお真理を探究し、それを語ったがために、異端ずしおキリスト教䌚から砎門され、教䌚暩力に呜を狙われ、最期は、逃亡の地でペストにかかっお客死した、ず蚀われおいたす。

アリストテレスの「『詩孊』第巻・喜劇篇」は、こうした人間の「信仰をめぐる悲喜劇」を笑い飛ばす力を持っおいた曞物なのかも知れたせん。だからこそ、その存圚は、キリスト教䌚からも危険芖されたした。
しかし、「『詩孊』第巻・喜劇篇」は、幞か䞍幞か、今の䞖には残されなかった、ずいうこずになっおおり、だからこそ「笑いの人」りンベルト・゚ヌコは『薔薇の名前』においお、幻の「『詩孊』第巻・喜劇篇」を、ひずずき甊らせおみせたのでした。

初出2019幎6月3日「Amazonレビュヌ」
  2021幎10月15日、管理者により削陀

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