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䞭川右介 『萩尟望郜 ず 竹宮惠子 倧泉サロンの 少女マンガ革呜 』  倧泉サロンの 〈楜園喪倱〉

曞評䞭川右介『萩尟望郜ず竹宮惠子 倧泉サロンの少女マンガ革呜 』幻冬舎新曞

※ 本皿は、2020幎月19日に「Amazon」のカスタマヌレビュヌずしお投皿され、それ以来、本日2021幎10月13日珟圚たでの玄幎半の間に、実に88回の削陀をされ、そのたびに再アップしたものです。Amazonの方では、削陀の蚘録を末尟に远加しお残しお、参照可胜の状態ですので、こちらではカットいたしたした

————以䞋、レビュヌ本文————

 〈倧泉サロンの楜園喪倱〉

拙レビュヌに先行する、本曞に぀いおレビュヌ本は、「星぀」が人、「星぀」が人ず、きわめお厳しい評䟡を䞋すものずなっおいるが、本曞は決しおそんな評䟡を受けるようなものではない。
そう断蚀しお、以䞋にその論蚌を詊みよう。

前蚘人のレビュアヌの「吊定的評䟡」ずは、本曞が「資料を䞊べたものでしかない」ずか「オリゞナリティに欠ける」ずいった趣旚のものだが、この批刀は、およそ本曞の「意図」ず「成果」を正しく理解し埗ないずころに発した、的倖れな評䟡でしかない。

たず「資料を䞊べたものでしかない」ずいう批刀だが、これはたぶん、批刀的レビュアヌたちが、萩尟望郜や竹宮惠子のファンであり、たいがいの呚蟺情報は知っおいるための、「そんなの知っおるよ」ずいう類いの䞍満であろう。

しかし、著者のねらいは、そういう「コアなファンマニア的なファン・信者的なファン」を喜ばせるずころにはなく、萩尟望郜ず竹宮惠子を䞭心ずした「倧泉サロン」が、日本のマンガ史においお果たした革呜的な意味を、広く玹介するこずで、日本のマンガ史にしっかりず䜍眮づけようずするものであり、決しお「マニアによるカルト的囲い蟌み」に安䜏するものではなかった。
だからこそ、本曞では「倧泉サロン」にいたるたでの日本のマンガ史倧泉サロン前史が、手塚治虫による戊埌のマンガ革呜を基点ずしお、「トキワ荘」に集ったポスト手塚䞖代のマンガ家たち、䞭でも竹宮惠子に倚倧な圱響を䞎えた石ノ森章倪郎、あるいは『ガロ』ず『COM』ずいった重芁マンガ誌の意味などを、時系列に沿っお䞁寧に説き起こすこずで、玹介されおいるのだ。
芁は、「倧泉サロン」は、そうした「歎史」のなかで生たれおきたものであっお、そこ倧泉サロンだけが独立した問題なのではない、ずいうこずなのだ。だからこそ、おのずず「歎史」を語らざるを埗なかったのである。

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しかし、そのあたりの「呚蟺情報」は、マニアには「垞識」に類するこずだし、オタクはそもそもそのような「呚蟺情報」に興味が薄い興味は、察象そのものにだけ向いお、ゞャンルや歎史自䜓には興味がない。
その結果、本曞の「䞁寧に歎史を蟿る」蚘述が、「資料」呌ばわりされるこずなったのである。

「オリゞナリティヌに欠ける」ずいう評䟡もたた、こうした「マニアあるいはオタク的な心性」に発するものだず蚀えよう。芁は、圌圌女らは、萩尟や竹宮に関する「新情報」による、新たな「感動」だけがほしかったのだ。

こうした「カルト的囲い蟌み」をしたがるマニアが欲するものずは、自分たちの「萩尟望郜像」なり「竹宮惠子像」なりを远認した䞊で、それを匷化するかたちで「感動」させおくれるようなものでしかなく、そこには発展的な「瀟䌚性」が倧きく欠劂しおいるために、「歎史的䜍眮づけ」などずいうものぞの興味はきわめお薄い、ずいうこずになる。結局、圌らにずっおの萩尟や竹宮は、自分個人の「感動消費ための具」でしかないのである。
だからこそ、本質的に、本曞著者のような「批評」的な曞き方が理解できないのだ。

しかしながら、本曞は「資料的研究のための資料的研究」に終わるものではないし、その意味においお「批評的オリゞナリティ」も持っおいる。
それは、レビュアヌの「カトカ゚ル」氏が『たあ、解釈は人の数だけあるので自由ですが、健圚の䜜家に察する劄想劄蚀は控えた方がよろしいかずいう感を抱きたした。』ず曞いおいる点にも明らかだろう。

本曞著者は、あきらかに前䟋を越えお、萩尟や竹宮の「内面」に螏み蟌んでいる。圓然、そこが本曞の「オリゞナリティ」ずなるわけだが、それが「カルト的囲い蟌み」をしたがるマニアには嫌がられた、ずいうこずである。

内心でそれぞれに「ナンバヌワン読者」を自認するマニアたちは、圌ら「信者」にずっおの「神䜜家」を、勝手に「解釈」しおもらっおは困るのだ。
解釈暩は、誰よりも「神」に埓順な「信者」たる者にしかない。「批評家」が勝手な「読み」を瀺すこずは、䞀皮の「門倖挢による神聖冒瀆」だ、ず感じられたのである。
しかし、「批評」ずいうものは、そういう「信者的思い蟌み」を打ち砕くためにもある、ずいうのは蚀うたでもない。

「カトカ゚ル」氏は『健圚の䜜家に察する劄想劄蚀は控えた方がよろしい』ず蚀うが、これは裏を返せば「死んだ䜜家に぀いおなら、どんな評䟡を語ろうず、どうぞご自由に」ずいうこずになるのだが、蚀うたでもなく「批評」ずいうのは、生者にも死者にも「公平」になされるものであっお、「生者だから、解釈を瀺しおはいけない遠慮しなければならない、忖床されるべきである」ずいうようなこずでは、圓然ない。

では、なぜ『健圚の䜜家に察する劄想劄蚀は控えた方がよろしい』などず「的倖れ」なこず蚀ったのかずいえば、それは「ひずたず、よそ者が、私の神に口出しをするな」ずいうこずでしかない、ずいうこずだ。
だが、さすがにそんな「わがたた」が䞖間では通らないこずくらいはわかっおいるので、「生者のプラむバシヌ」ずいうこずを持ち出しお、それで自身の本音ケチな了芋を糊塗しようずしたのであろう。

しかし、批評家が䜜家の内面を「䜜品などを通しお、創造的に解釈をし、それを語る」ずいうのは、圓たり前に認められた行為であり、批評家が、誰かの「神」を「仏」だず評䟡しようが「人間」だず評䟡しようが、それこそ文句を蚀われる筋合いの話ではないのである。
「解釈をされたくない」「語られたくない」ずいうのは、汚職政治家がマスコミを嫌うのず同様の、「利暩独占」的な心理に発する、所詮は「筋違いの難癖」でしかない。

では、本曞の著者が語った、「カトカ゚ル」氏蚀うずころの『健圚の䜜家に察する劄想劄蚀』、぀たり、萩尟望郜や竹宮惠子に぀いおの「オリゞナルな批評的内面解釈」ずは、いったいどのようなものなのか。

それは、萩尟望郜、竹宮惠子、増山法恵ずいう䞉人の内面に秘められた「倢ず友情ず愛情の盞剋」の「物語」である。

぀たり、著者は、たず竹宮の䜜品から、ある時期の竹宮の増山に察する「匷い執着」を剔抉し、そしお本曞のラストでは、それたで「冷静で知的」ずいうむメヌゞの先行しおいた萩尟もたた持っおいた「匷い執着」感情を、その䜜品の解釈を通じお瀺し、䞉人の「矎しい楜園喪倱」を描いおみせたのである。

『䞀九䞃〇幎。孊生運動が終焉ぞず向かうなか、少女マンガの倉革を目指した女性たちが東京緎銬区の二軒長屋にいた。䞭心は萩尟望郜ず竹宮惠子。埌に「倧泉サロン」ず呌ばれ、マンガ家のタマゎたちが集ったこの堎所で、二人は互いに刺激を受け合い、これたでタブヌずされた少幎愛やSFずいった分野で先鋭的な䜜品を次々生み出し、少女に熱く支持される。だがその軌跡は決しお平坊ではなかった――。『ポヌの䞀族』『颚ず朚の詩』等、名䜜誕生のプロセスを远いながら、二人の苊悩ず友情、瓊解のドラマを描く意欲䜜。』本曞カバヌ背面の玹介文

問題は、この『二人の苊悩ず友情、瓊解のドラマを描く』ずいう郚分だ。

「神解釈」を独占したい「信者」たちにずっおは、「よそ者」が「神」の内面に螏み蟌む行為は、蚱しがたいものず感じられた。だから圌らは、本曞の著者を「異端者正統ではない神理解を語る者」ずしお、口をきわめお断眪し、「焚刑」に凊そうずしたのである。
だがそれは、本圓の意味での「神ぞの愛」ではない。それは単なる「゚ゎむズム利己䞻矩」でしかないのだ。

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著者は、竹宮が「倧泉サロンの解散」を決める時期の䜜品である「ホットミルクはいかが」から、次のような「隠されたメッセヌゞ」を読み蟌んでみせる。

『 ベルミヌナを増山法恵、マヌティンを竹宮惠子に眮き換えれば、圓時の竹宮の眮かれおいる状況ず䌌おいるこずが分かる。り゜を぀けず、ずけずけず批刀する増山。その蟛蟣で的確な評に、竹宮は䜕床も泣かされた。それでも竹宮には増山が必芁だった。圌女の賛蟞が欲しい。
 増山は、もずもず萩尟望郜の友だちだ。萩尟に玹介され、竹宮ず増山の亀流は始たった。萩尟にずっおも増山は倧事な友だちだった。しかし、倧泉サロン解散埌、増山は竹宮ず暮らす。萩尟が身を匕いたのか 侀侀 萩尟が描いた䜜品なら、そう解釈できる。しかし、描いたのは竹宮だ。竹宮は、萩尟がこれを読むこずを分かっおいる。増山ず萩尟に察し、自分には増山が必芁なのだず䌝えたかったのではないか。』P270

ここで玹介されおいるずおり、増山法恵は「少女マンガ革呜」を起こすべく、新たな「トキワ荘」たる「倧泉サロン」を蚭立しお、そこに竹宮ず萩尟を呌び寄せ、䞉人の共闘が始たった。
しかし、新人マンガ家ずしおは萩尟に䞀歩リヌドしおいたはずの竹宮は、やがお萩尟のマむペヌスを厩さない掻躍に焊りを感じはじめ、長いスランプに陥る。そしお、このたたではいらない萩尟のそばにはいられないず「倧泉サロン」の解散を決意し、それを萩尟に䌝え、萩尟はそれを黙っお受け入れるのだが、その時に、竹宮の望んだ「暗黙の付垯条件」が、䞊蚘の「増山を譲っおくれ」ずいう思いだったのではないかず、本曞著者は解釈した。

その埌、萩尟は、新時代を画する独創的な人気䜜家ずしお着実に地歩を固め、それに遅れお竹宮惠子も「䜕でも描ける噚甚な売れっ子䜜家」から「少幎愛の䞖界を切り開いた独創的䜜家」ぞず倉貌を遂げお、倧家ずなる。
萩尟ず竹宮の二人は、増山の望んだずおりの「少女マンガ革呜」を成し遂げ、日本のマンガ界に新しい時代を切り開いたのだ。

だが、「倧泉サロン」を去った埌、竹宮ず䞀定の距離を眮いおいたず芋える萩尟望郜の内面ずは、どういったものだったのだろうか。
知的で冷静沈着な萩尟は、はたしお竹宮の「距離をおきたい」ずいう申し出ず、増山の独占に぀いお、どのような思いを抱いおいたのか。
その点を、著者は本曞の゚ピロヌグで、萩尟の䜜品「十幎目の鞠絵」を読み解くこずにより、次のように瀺しおみせた。

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『 この女性「たりえ」を「たすやたのりえ」に重ねるず、この䜜品は男二人ず女䞀人の物語に芋せかけお、倧泉サロン解䜓ぞの萩尟の心情を吐露したものだず思えおくる。
 物語を続ければ 侀侀 接川ず鞠絵は最初はうたくいっおいたが、接川はスランプに陥り絵が描けなくなっおしたう。そんな圌に鞠絵は献身的に尜くすのだが、それゆえに倫婊関係はうたくいかず、別れ話たで出おいた。そしお圌女は死んでしたった。
 そんな話を聞いお島田は「おたえたちは盞思盞愛で結婚したんじゃないか!」ず涙を流す。二人が消えた時はびっくりしたが、忘れようずしおいたのに、ず。
 接川は打ち明けた。突然、二人が消えたのは「おたえがこわかったんだ」ず。鞠絵が島田ず結婚したら十倍も充実した人生を歩むだろうず思ったから、圌女をさらっお逃げたのだず。島田は、すべおにおいお接川のほうが自分より勝っおいるず思っおいたが、接川はそう思っおいなかった。
 垰路、島田は思う。鞠絵が自分ず結婚しおいたら、自分たちは少しは幞犏になっおいただろうか、ず。そうなったら接川はどうしただろう。島田は接川のもずぞ匕き返した。
 そしお「こんど個展開くんだ。」「芋にきおくれナ。」ず䌝え、こう投げかける。「どうしお䞉人でいられなかったんだろう。オレはずっず䞉人でいたかったよ。もう二床ずあんな時期はないよな。」
 接川は静かに蚀う。「オレたち、若かったよな  あれぐらい察等だった時期はないよな  」
 倧倚数の読者は、『十幎目の鞠絵』を切ない青春物語ずしお読むだろう。それでいいし、そういう物語ずしお、完璧だ。だが、萩尟は少なくずも山本※ 良き理解者だった線集者の山本順也には自分の思いを䌝えたかったのではないだろうか。
 最埌のペヌゞ 侀侀 若き日の接川ず島田が、鞠絵をはさんで楜しそうにしおいるむメヌゞシヌンに、モノロヌグがかぶさる。
「あらゆる可胜性あらゆる奇跡手を握り合い完党な円を構成しおいた
 そしおその円は倖宇宙に向かっお無限に広がっおいた」

 倧泉の叀い二軒長屋を䞭心ずしお、無限に広がるはずの円は厩れた。
 しかし 侀侀 円ではなくなったが、二人がそれぞれの道を歩んだこずで、少女マンガ革呜は戊線が拡倧し、倉化は加速し、増山法恵が二十幎かかるず思っおいた革呜を、二人は十幎もかけずに達成した 侀侀 そう思いたい。』P339341

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この芋事な「ラストシヌン」を、なぜ萩尟や竹宮の「信者」たちは、認められなかったのか。この「解釈」の存圚自䜓を、なぜ憎んだのだろう。

それは、本曞の著者が『倧倚数の読者は、『十幎目の鞠絵』を切ない青春物語ずしお読むだろう。それでいい』ず曞いおいるずおり、自分たちが、本曞著者を含む「四人」から「眮去りにされた」ず感じたからだ。
自分たちの倧切な萩尟や竹宮を、暪から「かっさらわれた」ず感じ、本曞著者に「嫉劬」したのである。

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無論、本曞における著者のこの「解釈」が、正しいかどうかなど、誰にもわからない。
深局心理分析の結果が正しいか吊かを、患者自身も正しく刀断ができないのず同様に、本曞著者のこの「解釈」の正しさは、竹宮惠子や萩尟望郜自身にも「客芳的に正しく」評䟡するこずはできないだろう。たしおや「いちファン」においおをや、である。

ただし、たしかに蚀えるこずは、この「解釈」は、萩尟や竹宮の熱心な読者に「嫉劬心」を起こさせるほどの「説埗力を持っおいた」ずいうこずだ。
その意味で本曞は、「倧泉サロンの少女マンガ革呜」の歎史的䜍眮づけずいう倧テヌマを掲げながらも、やはり優れた「䜜家論」ずなっおいたのである。

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初出2020幎月19日「Amazonレビュヌ」
  2021幎10月15日、管理者により削陀

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