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【余命を売る店】 ねこくん作 1章〜5章


【余命を売る店】

その店を見つけたのは、雨の降る水曜日だった。

学校からの帰り道、いつもの商店街を抜けて駅へ向かっていたはずなのに、その日はなぜか一本だけ知らない路地に入り込んでしまった。

自分でもどうしてそこへ入ったのか覚えていない。

ただ、気づいたときには古い木造の建物の前に立っていた。

看板には、黒い文字でこう書かれていた。

 **『余命買取店』**

最初は何かの冗談だと思った。

こんなところに店があること自体おかしいし、まして余命を買い取るなんて、どう考えてもまともじゃない。

けれど、店の奥から聞こえてきた声に足が止まった。

「君、自分の時間を売ってみないか」

扉は開いていなかった。

それなのにその声だけがはっきり聞こえた。

僕はしばらく立ち尽くしていたが結局その店に入った。

理由は今でも分からない。

たぶん、あの日の僕は自分が思っていたよりずっと疲れていたんだと思う。

店の中は思ったより普通だった。

古い時計が壁一面に並んでいて、奥にはカウンターがある。

その向こうにいたのは、白髪の老人だった。

「高校生か」

「……そうです」

「なら、まだ時間はたくさんあるな」

老人はそう言って笑った。

僕は看板を指差した。

「これ、本当にやってるんですか」

「もちろん」

「余命を買うって?」

「ああ」

老人は引き出しから一枚の紙を取り出した。

「君の寿命を一年買い取ろう」

「一年?」

「一年分の時間を私にくれれば、百万円払う」

思わず笑ってしまった。

「そんなの、ありえないでしょ」

「そう思うなら帰ればいい」

老人はそれ以上何も言わなかった。

店内にある時計の音だけが妙に大きく聞こえる。

僕は紙を見つめた。

一年で百万円。

高校生の僕にとっては、現実とは思えない金額だった。

だけど、そんなうまい話があるわけがない。

「……本当に一年減るんですか」

「そうだ」

「証明できます?」

「できるとも」

老人は僕の目を見た。

「君には明日、誕生日が来る」

「え?」

「十七歳になる」

僕は黙った。

誕生日を知っていることに驚いたわけじゃない。

学校帰りに制服を着ているんだから学生証でも見れば分かる。

問題はその次だった。

「君が一年を売れば、明日の誕生日は来ない」

意味が分からなかった。

「十七歳にならないってことですか?」

「いや」

老人は首を横に振った。

「十七歳にはなる。ただし、その一年間の記憶が消える」

僕は笑えなかった。

「一年分の記憶を売るんだよ」

その言葉を聞いた瞬間、店の時計が一斉に鳴った。

十二時を知らせる音だった。

老人は紙を僕の前に置く。

「どうする」

僕はペンを握った。

そして名前を書いた。

そのときの僕はまだ知らなかった。

僕が売った一年の中に、

**僕が一番忘れてはいけなかった人がいたことを。**

翌朝、目を覚ますと母親が泣いていた。

「どうしたの?」

「……なんでもない」

そう言いながら母親は僕を抱きしめた。

僕には理由が分からなかった。

今日は僕の誕生日。

なのに、家の中には妙な違和感があった。

机の上には見覚えのない写真が一枚置いてある。

僕と知らない女の子が写っていた。

同じ制服を着ている。

彼女は笑っている。

僕も笑っている。

裏返すと日付が書いてあった。

**8月10日**

その下には僕の字で一言だけ残されていた。

**「この子を絶対に忘れるな」**

僕は写真を握ったまましばらく動けなかった。

知らない。

この女の子のことを僕は何も知らない。

名前も。

声も。

どこで出会ったのかも。

何一つ思い出せない。

ただ一つだけ不思議なことがあった。

写真を見ているとなぜか涙が出てきた。

理由も分からないまま涙だけが止まらなかった。

その日の夜。

僕はもう一度あの路地を探した。

雨は降っていなかった。

けれど昨日と同じ場所に店はあった。

扉を開けた。

老人は僕を見るなりため息をついた。

「もう来たのか」

「この子は誰ですか」

写真を見せる。

老人の表情が変わった。

「……そうか」

「知ってるんですか」

「ああ」

老人はしばらく黙ってからゆっくり口を開いた。

「その子は、君が売った一年の中で」

そこで老人は言葉を止めた。

「一番長く君を待っていた子だよ」

僕は写真を見つめた。

胸の奥が痛かった。

会ったこともないはずなのに。

知らないはずなのに。

どうしてこんなに悲しいのか。

老人は僕に一枚の紙を渡した。

そこには昨日の契約書とは別の文字が書かれていた。

**『買い戻し可能』**

その下に金額がある。

僕は数字を見て息を呑んだ。

百万円で売った一年を取り戻すために必要な金額は、

**一億円だった。**

そして老人は最後にこう言った。

「ただし、金を払わなくても取り戻す方法はある」

「何ですか」

「君がもう一度、その一年を生きることだ」

「そんなことできるんですか」

「できる」

老人は時計を見た。

「ただし、その一年を取り戻した瞬間、今の君が失うものもある」

僕は黙った。

「何を失うんですか」

老人は答えなかった。

代わりに、店の奥にある一番古い時計を指差した。

その針は、僕が店に入ってから一度も動いていなかった。

「それを動かすことができたら、教えてやる」

僕は時計の前に立った。

針に触れた瞬間頭の中に知らない記憶が流れ込んできた。

夏の海。

夕暮れの駅。

誰かの笑い声。

そして最後に、

僕の手を握る女の子の声。

やっと思い出してくれた。

僕はその声を聞いた瞬間、

初めて彼女の名前を思い出した。

**「……美月」**

その瞬間店の時計が動き始めた。

第二章 忘れていた名前

時計が動いた。

それだけだった。

けれど、その音を聞いた瞬間から頭の中に知らない景色が次々と浮かんできた。

海沿いの道を歩いている。

隣には美月がいる。

白いシャツの袖をまくって暑そうに髪を結んでいる。

「ねえ」

記憶の中の美月が僕を見る。

「もし明日、私のこと忘れたらどうする?」

「そんなことあるわけないだろ」

「じゃあ約束して」

「何を?」

「私の名前を忘れないこと」

そこで映像が途切れた。

僕は時計から手を離した。

「今の……」

「記憶の一部だ」

老人が後ろから言った。

「君が売った一年の中に残っていたものだよ」

「じゃあ、僕と美月は……」

「友達だった」

老人は少し考えてから続けた。

「いや、友達という言い方では足りないかもしれないな」

「どういう意味ですか」

「それは君自身が思い出すことだ」

僕は写真を見た。

そこに写っている美月は、さっき見た記憶の中と同じ顔をしていた。

でも、僕には何も分からない。

名前を思い出しただけ。

それ以外は全部霧の向こう側にある。

「一年を取り戻したら、全部思い出せるんですか」

「全部ではない」

「じゃあ何が戻るんですか」

「君が本当に大切だと思っていた記憶だけだ」

その言葉が妙に引っかかった。

「どういうこと?」

「記憶というのは不思議なものでね。忘れたからといって、完全になくなるわけじゃない」

老人は店の壁に並んだ時計を見た。

「心のどこかに残っている。だから君は、その子の写真を見て泣いた」

僕は何も言えなかった。

確かにそうだった。

知らない女の子の写真を見ただけなのに涙が出た。

名前を思い出しただけで胸が苦しくなった。

きっと僕は、何か大切なものを忘れている。

「一年を取り戻すには、どうすればいいんですか」

老人は答える前にカウンターの下から古いノートを取り出した。

表紙には何も書かれていない。

中を開く。

そこにはたくさんの名前が並んでいた。

日付と数字。

そして、その人が売った時間。

「この店で時間を売った人たちの記録だ」

「そんなにいるんですか」

「昔からある店だからな」

ページをめくっていく。

十年。

三年。

一ヶ月。

人によって売った時間は違っていた。

中には、一日だけ売った人もいる。

「一年を買い戻した人は?」

僕が聞くと老人の手が止まった。

「いない」

「一人も?」

「一人もだ」

嫌な予感がした。

「じゃあ、買い戻す方法なんて……」

「ある」

老人はノートを閉じた。

「ただし、誰も成功していない」

「なんで?」

「一年を取り戻すためには、その一年をもう一度生きなければならないからだ」

僕は意味が分からなかった。

「過去に戻るってこと?」

「ああ」

「そんなの無理でしょ」

「普通ならな」

老人は僕を見る。

「だが、この店で売った時間なら話は別だ」

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。

「僕は……過去に戻れる?」

「戻れる」

「どうやって?」

「明日の夜、もう一度ここへ来なさい」

老人はそれだけ言った。

「そのとき、君に選んでもらう」

「何を?」

「一年を取り戻すか」

老人は少し間を置いた。

「それとも、今の人生をそのまま生きるか」

僕は答えられなかった。

店を出る。

外はすっかり暗くなっていた。

駅へ向かう道を歩きながら、僕は何度も写真を見た。

美月は笑っている。

僕も笑っている。

どうしてこんな写真を撮ったのかさえ思い出せない。

けれど、写真の端に小さな文字があることに気づいた。

昨日までは気づかなかった。

拡大してみる。

そこには、美月の字でこう書かれていた。

**「この写真を見つけたら、駅の時計を見て」**

駅に着く。

改札の上にある大きな時計を見る。

午後八時十三分。

普通の時間だった。

僕は意味が分からないまま写真をもう一度見た。

すると、写真の背景にある駅の時計が目に入った。

僕は息を止めた。

写真の中の時計は、

**午後八時十三分。**

今と同じだった。

偶然だと思った。

でも、写真の日付は八月十日。

今日は八月十日。

そして、写真の中には僕と美月がいる。

僕は周りを見た。

人の流れ。

電車の音。

いつもの駅。

何も変わっていない。

そのときだった。

「……佐伯くん?」

後ろから声がした。

振り返る。

そこにいたのは、美月だった。

写真の中と同じ顔。

同じ制服。

同じ笑い方。

ただ一つ違ったのは、

彼女が僕を見るなり、泣きそうな顔をしたことだった。

「やっと会えた」

僕は何も言えなかった。

美月は僕の顔を見つめながら、小さな声で言った。

「……今の君は、私のことを覚えてる?」

答えようとした。

けれど、その瞬間。

駅の時計が八時十四分を指した。

美月の姿が消えた。

まるで最初からそこにいなかったみたいに。

僕だけが駅の真ん中に立っていた。

手の中には、さっきまでなかった一枚の紙がある。

震える手で開く。

そこには僕自身の字で、

 **「美月を見つけても、絶対に話しかけるな」**

と書かれていた。

第三章 話しかけてはいけない人

駅のホームに立ったまま、僕はしばらく動けなかった。さっきまで確かにそこにいた美月が、まるで最初から存在しなかったみたいに消えてしまったからだ。

周りには何人もの人がいるのに、誰も彼女のことを気にしていない。僕だけが取り残されたような気がした。

手の中にある紙をもう一度開く。

『美月を見つけても、絶対に話しかけるな』

僕の字だった。

どうして自分がこんなものを書いたのか、それが一番分からなかった。

僕は写真を取り出した。

そこには美月と僕が並んで写っている。

さっき会った彼女と同じ顔だった。

写真の日付は八月十日。

そして今日は八月十日。

偶然にしては出来すぎている。

スマホを見ると、時刻は八時十五分になっていた。

たった二分前まで美月がいたのに、もう何も残っていない。

僕は駅員に聞こうか迷った。

でも、もし聞いたとしても「そんな女の子は見ていない」と言われるだけの気がした。

結局その日は家に帰った。

布団に入っても眠れなかった。

頭の中には美月の顔と老人の言葉が何度も浮かんでくる。

一年を取り戻すか、それとも今の人生をそのまま生きるか。

僕はスマホを手に取った。

検索欄に「美月」と入力する。

でも、名字が分からない。

学校の生徒名簿を思い出そうとしても、なぜか彼女の名前だけが出てこなかった。

そこで気づいた。

僕は美月のことを何も知らない。

名前以外、何一つ。

翌朝、学校へ行くと教室はいつも通りだった。

友達とくだらない話をして、先生の授業を聞いて、昼休みにはコンビニのパンを食べた。

昨日のことさえなければ、ただの普通の一日だった。

だからこそ、僕は耐えられなかった。

休み時間にクラスの名簿を見た。

端から順番に名前を追っていく。

いない。

美月という名前が、どこにもない。

昨日の写真には確かに僕と一緒に写っていたのに、学校には存在していない。

「何見てんの?」

後ろから友達に声をかけられた。

「いや、ちょっと人探してて」

「誰?」

「美月っていう……」

そこまで言ったところでなぜか言葉が止まった。

友達が首をかしげる。

「美月?」

「……なんでもない」

自分でもおかしいと思った。

その日の放課後、僕は一人で駅へ向かった。昨日のことを確かめたかった。

八時十三分。

駅の時計を見る。

何も起きない。

八時十四分。

やっぱり何も起きない。

八時十五分になったところで、僕は諦めて帰ろうとした。

そのとき、背後から声がした。

「昨日の紙、見た?」

振り返る。

そこにいたのは美月だった。

昨日と同じ制服を着て、少し困ったような顔で立っている。

「……どうして」

「それはこっちが聞きたいよ」

美月は僕の隣まで歩いてきた。

「なんで私のこと忘れてるの?」

「俺だって分からない」

「本当に?」

その言い方が少し怖かった。

「本当に知らないんだ。君の名前しか思い出せない」

美月は黙った。

しばらくして小さく笑った。

「そっか。じゃあ、やっぱり成功したんだ」

「何が?」

「君が私を忘れること」

その言葉の意味が分からなかった。

「待って。君は何を知ってるの?」

「全部は知らないよ。でも、君が一年を売ったことは知ってる」

僕は黙った。

「どうして知ってるの?」

「私もそこにいたから」

美月は駅の時計を見上げた。

「一年前、君と一緒にあの店へ行ったの」

その瞬間、頭の奥が痛くなった。

何かを思い出しそうだった。

雨の匂い。

古い木の扉。

美月の手。

そして、老人の声。

二人分の時間を買うことはできない。

僕は頭を押さえた。

「今の、何?」

美月は答えなかった。

ただ、僕を見て言った。

「佐伯くん。あの店に一人で行っちゃだめだよ」

「なんで?」

「次に会ったとき、今度は私が君のことを忘れるから」

その瞬間、駅の時計が八時十三分に戻った。

針が逆向きに動いている。

美月の顔から笑顔が消えた。

「もう時間がない」

「何の?」

「私が君を覚えていられる時間」

美月は僕に何かを渡そうとした。

けれどその手が途中で止まった。

次の瞬間、彼女の姿がまた消えた。

僕の手の中に残ったのは一枚の古い切符だけだった。

表には駅名が書かれている。

僕が知らない駅だった。

裏返すと、美月の字で短い言葉が残されていた。

**『この駅で、私たちは一度死んだ』**

 第四章 存在しない駅

その切符を握ったまま僕は駅のベンチに座っていた。

紙の切符なんて、今どきほとんど見ることがない。

しかも印刷されている駅名は何度見ても知らない名前だった。

**月ヶ丘駅。**

スマホで検索してみる。

何も出てこない。

地図にもない。

乗り換え案内にもない。

検索結果に出てくるのは似た名前の駅ばかりだった。

存在しない駅。

そう考えるのが一番自然だった。

でも、切符は僕の手の中にある。

翌日の放課後、僕は学校の図書室へ向かった。

古い地図なら何か分かるかもしれないと思ったからだ。

司書の先生に聞いて、昔の地図が置いてある棚を探す。

何冊もめくっているうちに、昭和の頃の地図が出てきた。

月ヶ丘駅。

あった。

僕は思わずページを二度見した。

今は住宅街になっている場所に、確かにその駅が載っている。

ただ、その横には赤い文字で小さく「廃駅」と書かれていた。

さらに調べていくと、駅がなくなったのは三十年前だと分かった。

そんな昔の駅なら美月が知っているはずがない。

僕はそこで初めて、本当に怖くなった。

それでも気になって仕方がなかった。

帰り道、僕は図書室で見つけた古い新聞記事のコピーを持っていた。

月ヶ丘駅についての記事だった。

そこには三十年前に起きた事故について書かれていた。

事故の詳細を読んでいくうちに、僕の手が止まった。

事故で亡くなった人の中に、美月という名前があった。

僕はしばらく画面を見つめた。

年齢は十七歳。

名前は、

**水野美月。**

昨日まで知らなかった名字だった。

そして、その名前を見た瞬間また頭の中に記憶が流れ込んできた。

駅のホーム。

夕暮れ。

隣にいる美月。

「佐伯くん、もし私がいなくなったらどうする?」

「またそれ?」

「大事な話だよ」

「じゃあ探す」

「どうやって?」

「見つかるまで探す」

美月が笑う。

その笑顔を見た瞬間、僕の胸が苦しくなった。

記憶が途切れる。

気づけば、僕は図書室の机に突っ伏していた。

手元には新聞記事。

そして、その横に一枚の写真がある。

いつの間に置いたのか分からない。

写真には、月ヶ丘駅のホームが写っていた。

そのホームに、僕と美月が立っている。

僕は震える手で写真を裏返した。

日付が書かれている。

**去年の八月十日。**

事故が起きたのは三十年前なのに。

僕は写真を持って、あの店へ向かった。

路地に入る。

昨日と同じ場所に店はあった。

扉を開けると老人が顔を上げた。

「来ると思っていた」

「これ、どういうことですか」

写真と新聞記事をカウンターに置く。

老人は写真を見るなり深いため息をついた。

「とうとう思い出し始めたか」

「美月は三十年前に死んでる」

「ああ」

「なのに、どうして僕と一緒にいるんですか」

老人はしばらく黙っていた。

「君はまだ、時間を一年しか売っていないと思っているだろう」

「違うんですか」

「君が売ったのは一年じゃない」

老人は僕の目を見た。

「君が売ったのは、去年の八月十日そのものだ」

意味が分からなかった。

「一日を売った?」

「そうだ」

「でも契約書には一年って……」

「一年分の時間を渡す代わりに、君はその一日を失った」

僕は言葉を失った。

老人は棚から古い時計を取り出した。

「君が美月と過ごした最後の日だ」

時計の針は八時十三分を指していた。

「君はその日を忘れた。そして、その日が存在しなかったことになった」

「じゃあ美月は?」

老人は答えなかった。

僕はもう一度聞いた。

「美月は今どこにいるんですか」

「去年の八月十日にいる」

「……どういう意味?」

「君がその日を取り戻さない限り、彼女はずっとそこから出られない」

僕は時計を見た。

八時十三分。

昨日、美月が消えた時間と同じだった。

老人が言った。

「君が一年を取り戻すためには、もう一度あの日へ行く必要がある」

「行けば、美月に会える?」

「ああ」

「じゃあ行きます」

即答だった。

老人は少しだけ笑った。

「そう言うと思ったよ」

そして、カウンターの下から一枚の紙を取り出した。

そこには、昨日までなかった新しい契約が書かれていた。

**『過去へ戻るための代償 一つ』**

「一つって何ですか」

「君が一番大切にしているものだ」

僕は黙った。

「それを失えば、君は去年の八月十日に戻れる」

「何を失うんですか」

老人は答えなかった。

ただ、契約書の一番下を指差した。

そこには小さな文字でこう書かれていた。

**『代償は、過去へ戻ったあとに決まる』**

僕はその意味を考えながらペンを握った。

そして名前を書こうとした瞬間、店の奥から声がした。

「やめて」

聞き覚えのある声だった。

振り返る。

そこに美月が立っていた。

泣きそうな顔で僕を見ている。

「それに名前を書いたら、今度こそ本当に私を忘れるよ」

第五章 最後の一日

「それに名前を書いたら、今度こそ本当に私を忘れるよ」

美月の声が店の中に響いた。 

僕はペンを持ったまま動けなかった。

目の前にいる美月は昨日と同じように見えるのに、今日はなぜか少しだけ透けて見える。

後ろの時計が薄く見えるくらいだった。

「どういうことだよ」

「その契約は過去に戻るためのものじゃない」

「じゃあ何なんだ」

「君から私を消すための契約」

老人は何も言わなかった。

否定しないということは、美月の言っていることが本当なのだろう。

僕は契約書を机の上に置いた。

「じゃあ、どうすればいい」

「何もしなくていいよ」

「そんなわけにいかないだろ」

「いいの」

美月は少し笑った。

でも、その笑顔はどこか寂しかった。

「私はもう死んでるから」

その言葉を聞いて胸の奥が重くなった。

分かっていたはずなのに、本人から聞くと全然違った。

「三十年前に死んだんだろ」

「うん」

「じゃあ、去年の八月十日にいたっていうのはどういうことなんだ」

美月は答えるまで少し時間をかけた。

「君が私を呼んだから」

「俺が?」

「そう」

美月は店の奥にある時計を見た。

「一年前の今日、君はここに来たの。今と同じようにね」

僕は息を止めた。

「でも俺は今日初めて来た」

「そう思ってるだけ」

美月が一歩近づいてくる。

「君は去年の今日、私を助けるために一年を売った」

頭の中が真っ白になった。

「何から助けるんだよ」

「私から」

「意味が分からない」

「私を助けたら、君が死ぬから」

その言葉だけは、妙にはっきり聞こえた。

老人が初めて口を開いた。

「去年の契約では、君は自分の一年と引き換えに彼女をこの世に戻した」

「戻した?」

「一日だけな」

僕は美月を見る。

彼女は静かにうなずいた。

「だから去年の八月十日、私は君と一日だけ過ごせた」

「じゃあ、あの日の写真は……」

「その日に撮ったもの」

少しずつ記憶が戻ってきた。

海沿いの道を歩いたこと。

駅でアイスを食べたこと。

夕方になっても帰りたくなくて、二人でくだらない話をしていたこと。

そして夜になって、美月が突然泣き出したこと。

「どうして泣いてたんだ」

「君が全部思い出したら話すつもりだった」

「今話してくれよ」

美月は首を横に振った。

「まだだめ」

「なんで」

「君が知ったら、また同じことをするから」

僕は何も言えなかった。

美月は僕の前に立ち、ポケットから古い鍵を取り出した。

「これを持ってて」

「何の鍵?」

「月ヶ丘駅のロッカー」

「駅はもうないだろ」

「今はね」

鍵を受け取る。

小さな金属の札がついていて、そこには数字が一つだけ刻まれていた。

**317**

「このロッカーを開ければ、君が去年何をしたのか全部分かる」

「じゃあ一緒に行こう」

そう言うと、美月は困ったように笑った。

「それはできない」

「どうして」

「私は八時十三分までしかここにいられないから」

時計を見る。

八時十二分だった。

「待ってくれ」

僕は美月の腕をつかもうとした。

でも指は彼女の腕をすり抜けた。

「もう時間なんだ」

美月の姿が少しずつ薄くなっていく。

「また明日会えるよな」

「分からない」

「じゃあ、どうすればいい」

美月は少しだけ笑った。

「明日になったら、君は全部思い出すよ」

「何を?」

「私がどうして君に一年を売らせたのか」

時計が八時十三分を指した。

美月の姿が消える。

静かになった店の中で、僕は一人立っていた。

老人は何も言わず、カウンターの上に封筒を置いた。

「それは?」

「去年の君から預かったものだ」

封筒には僕の名前が書かれていた。

裏には日付がある。

去年の八月十日。

僕は震える手で封を開けた。

中には一枚の写真と短い手紙が入っていた。

写真には、去年の僕と美月が写っている。

そして手紙には、僕自身の字でこう書かれていた。

**『これを読んでいる俺へ。美月を助けようとするな。もし助けたら、今度はお前が死ぬ』**

その下には、もう一行だけ続いていた。

 **『それでも助けたいと思ったなら、月ヶ丘駅の317番ロッカーを開けろ』**

僕は手紙を握りしめた。

どうして去年の僕は、こんなものを残したのだろう。

そして何より分からなかった。

美月を助けたら僕が死ぬというのなら、なぜ去年の僕は一年を売ってまで彼女を助けたのか。

その答えを知るために、僕は翌日もう一度あの店へ向かうことにした。

ただ、そのときの僕はまだ知らなかった。

317番ロッカーの中に入っているものが、僕の記憶だけじゃなく、この町そのものを変えてしまうことを。


最後まで読んでいただきありがとうございます!続きは私のアイコンをタップしていただいて、ホームから余命を売る店を探してもらうか、本当はリンクを貼りたいんですけど、この記事が重くなっていまして、リンク貼れない状況にあります。一応貼っておきます。
https://note.com/nekokun_314/n/n33b320a3471e?sub_rt=share_b

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