天使の通り道の底で
昼間の暑さに比べてまだまだ朝晩は、と布団に包まる時期も過ぎ、先日の休みに毛布を抱えてコインランドリーへ行った。干すだけでもいいかなとちらっと頭をかすめたが、冬に吸った空気が重たく見えた。快晴の空も手伝って、「くま🐻」と呼んでいる茶色い毛布を洗いに行く。
コインランドリーでの待ち時間、こういう時間の読書はわたしにとって格別だ。否が応でも過ぎていくのを待たなければいけないけれど、確実に終わりが来るこういう時間の読書が。没頭しても「はい、終わり」と終了の合図がわかりやすく、いくらおもしろくてもそこでだらだらと本を読み続ける気にはなれない環境の読書が。残り時間がデジタルで示される洗濯機を前にすると、病院の待ち時間のような「まだかな、いつかな」という不確定要素がないし、「眠くなるまで読む」のような類の自分との戦いや迷いもない。きっちり切り取られたような時間の読書は、人生におけるかわいらしいエアポケットのよう。(エアポケットって、天使の通り道とも言うのだそう)
そういう至福を味わいながら本を読んでいるはずだった。平日の昼間、常連さんなのかな、と思わせる年配の女性がひとりぼんやり座っているだけの、穏やかさを絵に描いたような空間だった。洗濯機や乾燥機は何台か稼働しているから、洗濯物を預けてどこかで時間をつぶしている人もいるのだろう。コインランドリーの近くには、スーパーマーケットや定食屋などがある。
騒音と呼ぶほどでない機械音は、決して静かではないけれど、じゃぶんじゃぶんという水の音が一緒に聞こえているから心地いいくらいだった。電車の揺れが眠気を誘うみたいに、快と不快のあいだの、快寄りのちょっといいところ。
そういう穏やかさに包まれて本を読んでいるはずだったところに、ふと隙間風が差し込むみたいにわたしのなかに不安が芽生えるのだった。ああ、これはいつもの。わたしは思う。完全な平穏ほどおそろしいものはないだろ、と伝えたいのか、その不安はみるみるわたしを支配する。船板から水が漏れだすように、じわじわとわたしを侵食する。ああ、小舟ながらも穏やかに海をたゆたうために、しばらく足元を踏ん張っていたのに。背伸びしようとかかとを上げたら、待っていましたとばかりに船板は隙間をつくり、薄いしみを描きながら水が浸み込んでくる。水なのに煙みたい。想像のなかでわたしはさらに想像する。
どうしてこうなんだろう。自分のために時間をつくったり、ご機嫌を取るために心地よく過ごそうとしているとき、正体不明の煙のような、でも確実に存在を示す水のような不安が生まれる。この比喩はさきほどの文章に無理やりつなげたものだから、毎度このような感覚の不安というわけではないけれど。とにかく、自分をなだめるためだとか、平穏さを維持するためだとか、そういう「わかりやすく心地よくしているとき」に不安は訪れやすい。(もちろん、「明日の仕事大丈夫かな、この前はうまくいかなかったし…」というような、出所のはっきりしている種類の不安もある)
不安に引っ張られないようにと本の世界にどうにか留まりながら、ああ、これは休日にゆっくり料理をしているときにも味わった感覚と似ているなと思う。この春は、採りたての筍から時間をかけて煮物を作ったり、近所の八百屋で購入したわらびをあく抜きして湯がいたり、みそ汁もできるだけ出汁を引いて作ったり、わたしにとっては丁寧ふうな生活を意識した。そういう、ある種の理想みたいな時間を体験しているとき、ふっと、こんなものは長く続かない、と居心地が悪くなる。上昇気流に乗ってすいすい進んでいるかと思いきや、急に気流が乱れて降下するみたいに。ああ、だからやっぱり「エアポケット」なのか。
平穏慣れしていない人は、わたしだけではなく、世の中にきっと多くいるのだと思う。わざわざ口に出して言わないだけで、表情や行動で示さないだけで、湖上の白鳥よろしく足元を見せずに生きている人たちは。「わたしだけではないんだよね」そう、それは救いと絶望が表裏一体になったささやきに思える。わたしだけではないからわたしは孤独ではない、この感情を共有できる人はたくさんいるはずだ、という救いと、この名もなき不安や苦しみを誰にも見せずに生きている人が、わたし以外にもいるなんてという絶望のようなもの。
こころの中で思うのは自由だから、今夜のコインは「救い」の面が上になるように投げる。あなたもそうでしょ、という足の引っぱり合いにならないように。わたしもいるよ、という、わたしに対しての表明が、いつかのわたしや誰かの絶望を裏返せるように。毛布はたたんで、しばらくのあいだおやすみなさい。
