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杉村陽太郎と新渡戸稲造、原敬 外交官を輩出した盛岡藩

戊辰戦争の際、盛岡藩は薩摩藩・長州藩を中心とする新政府軍に敗れ、賊藩とされました。そのため、明治政府での活躍は限定されたものになりましたが、外交の分野では比較的活躍の余地が残されていました。徳川幕府の長い鎖国政策によって外交に長けた人材が不足していて、新政府は旧幕臣や賊藩からも人材を登用せざるを得なかったのです。

盛岡藩は外交の分野に、多くの人材を輩出しました。今回は代表的な存在である杉村陽太郎を中心に、そのことを紹介しましょう。

2021年夏、東京オリンピックが57年ぶりに開催されましたが、幻に終わった1940年東京オリンピック誘致に尽力したのが、岩手ゆかりの外交官杉村陽太郎です。明治17(1884)年9月28日、盛岡生まれの外交官・杉村濬(ふかし)の長男として東京四谷区須賀町に生まれました。

濬は幕末に盛岡藩士の子どもとして生まれ、外交官になって朝鮮とブラジルに赴任しました。ブラジル公使として、日本人の移民政策に貢献したことで知られています。

また、濬が朝鮮の公使館で働いていた際に、天津総領事を務めていたのが原敬でした。大正7年(1918)、東北出身者として初めての内閣総理大臣に就任する原ですが、若い頃は外交官として活躍していたのです。

さて、陽太郎に話を戻します。陽太郎は東京高等師範附属中学校に進学します。当時濬は妻とともに朝鮮に勤務していて、陽太郎は嘉納治五郎の塾に預けられました。講道館柔道の創始者である嘉納との出会いが陽太郎の人生を決定づけました。柔道一筋の生活を送ることになるのです。

「講道館柔道発祥の地」の碑(稲荷町・永昌寺境内)

第一高等学校を経て東京帝国大学を卒業した陽太郎は明治41(1908)年父の後を継いで外務省に入省しました。フランス大使館勤務などを経て、昭和2(1927)年には同郷の新渡戸稲造の後を受け、国際連盟事務次長に就任しています。

陽太郎が東京帝国大学に在学中、新渡戸が第一高等学校の校長をしていて、二人にはその頃から交流がありました。

次第に窮屈な時代となり、日本はやがて国際連盟を脱退します。国際連盟事務次長としての立場と、それと相反する日本国の立場の板ばさみに苦しんだ陽太郎は、「事ここに至ったことを私は日本として残念に思います」と語っています。

恩師の嘉納治五郎は日本で最初の国際オリンピック委員会(IОC)委員でした。陽太郎も嘉納の推薦で昭和8(1933)年に委員に就任しています。

1940年東京オリンピック招致に奔走しましたが、昭和12(1937)年の日中戦争勃発により、オリンピックは中止となりました。昭和14(1939)年3月24日、陽太郎は東京で亡くなりました。54歳の若さでした。

平和のために尽力しながらも、戦争を止められなかった陽太郎は、自身を「平和戦の落武者」と語っていたといいます。無念の生涯でした。

私は『国際外交の舞台で活躍した岩手の男たち 杉村陽太郎と新渡戸稲造』(日本地域社会研究所)を出版しています。関心のある方は、どうぞお読みください。

Amazon.co.jp: 国際外交の舞台で活躍した岩手の男たち: 杉村陽太郎と新渡戸稲造 (コミュニティ・ブックス) : 佐藤 竜一: 本

本書は朝日新聞で大きく紹介されました。

盛岡ゆかりの外交官杉村陽太郎を知って 一関の佐藤竜一さん本を出版 [岩手県]:朝日新聞

また、『サンデー毎日』でも川本三郎さんが大きく紹介してくださいました。

SUNDAY LIBRARY:川本 三郎・評『国際外交の舞台で活躍した岩手の男たち 杉村陽太郎と新渡戸稲造』佐藤竜一・著 | 毎日新聞

盛岡での川本三郎さんとのツーショット。とてもあたたかい方でした

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