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辰野金吾・葛西萬司が設計した東京駅で暗殺された原敬、暗殺者は足尾銅山ゆかりの青年

大正7年(1918)9月29日東北出身者で初めて内閣総理大臣に就任した原敬は安政3年(1856)2月9日(新暦では3月11日)生まれで、今年は生誕170周年に当たります。今回は原の暗殺にまつわる話を紹介しましょう。

大正10年(1921)11月4日、朝いちばんに『中央新聞』記者だった前田蓮山が原邸にやって来ました。後に『原敬伝』を執筆する人物です。

午前中、原は天皇陛下に拝謁しました。翌日京都で開催される政友会京都大会についての出張許可を取るためです。

閣議を終え夕方に一度自邸に戻った原は、午後7時再び外出。7時20分頃東京駅丸の内南口に着き、7時30分発神戸行きの列車に乗ろうと、高橋善一駅長の案内で改札口に進みました。

そこに突然、茶色の鳥打帽をかぶった青年が高橋駅長をかすめ原に体当たりしてきました。

「こらっ」と駅長が叫んだ時、原は倒れ掛かりました。すぐ横にいた吉植床一郎文部省勅任参事官に抱き留められましたが、原の右腕には血がにじんでいて、青年の手には鮮血が滴った短刀が握られていました。
妻の浅が現場に駆け付けた時、原はすでに事切れていました。

東京駅丸の内南口にある「原首相遭難現場」の銘板

東京駅は原と元々縁がありました。

辰野金吾と共に東京駅を設計した葛西萬司の養父葛西重雄は盛岡生まれですが、旧小野組時代から古河市兵衛に仕えました。鉱山開発の専門家として古河家に重用された重雄は、個人経営から会社組織に移行し古河鉱業株式会社となった後は、古河家そのものの財産管理を任され、市兵衛、潤吉、虎之助の3代にわたり補佐役として支えました。重雄は選挙では原を支えた一人です。

原は恩人である陸奥宗光の縁で、古河鉱業の副社長を務めたことがありました。

葛西萬司は明治22年(1889)神タキと結婚し、明治24年(1891)長女フミが生まれましたが、大正6年(1917)フミが菱沼堅三郎と結婚する際に、原が仲人を務めています。萬司はその恩義に報いるべく、初孫に敬子と名づけました。

令和8年(2025)夏、新たな観光スポットとして足尾銅山記念館が竣工しました。この建物は明治44年(1911)年2月に竣工し、壊された建物を復元したもので、辰野金吾と葛西萬司の事務所が設計を担当しました。

古河グループ創業150周年を記念し、残されていた図面に忠実に新たに建てられたもので、足尾銅山の歴史、古河市兵衛の足尾の関わりなど充実した展示内容となっています。

足尾銅山記念館(栃木県日光市)

原を暗殺したのは。東京の大塚駅で転轍手を勤めている青年中岡艮一(こんいち)でした。生まれたのは足尾銅山で、父中岡精は古河鉱業の社員だったのです。木材主任を務めていましたが、現場で軋轢を起こし退社を余儀なくされました。以後東京に出て辞令を揮毫する仕事をしましたが、艮一が本所の高等小学校一年生の時に結核を患い、亡くなりました。

艮一は小学校を退学、以後は印刷所勤務を経て大塚駅に職を得ました。転轍手とは轢死者が出ると、検視の警察官が来るまで見張る仕事です。死体と化した肉片と対峙する仕事にストレスを感じていたことは想像に難くありません。

艮一は原を暗殺する計画を立てましたが、三度未遂に追わっています(福田和也『大宰相・原敬』)。

なぜ、原を襲ったのか。原が古河鉱業で副社長を務めたことが影響しているのかもしれません。自身の不遇を招いた遠因は父親が古河鉱業を首になったことにあると思い込み、古河鉱業と縁がある原を襲った可能性があります。

その後裁判が行われましたが、背後に黒幕がいて何者かに操られた可能性もあり、真相ははっきりとはしません。

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原敬と新渡戸稲造

また、私の新刊『原敬の時代 坂本龍馬ゆかりの陸奥宗光・中江兆民との出会い』(日本地域社会研究所、2026年10月刊行予定)でも詳細に紹介しています。


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