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盛岡藩が輩出した原敬と新渡戸稲造

盛岡市には先人記念館という博物館があるのですが、盛岡が原敬や新渡戸稲造など多くの逸材を輩出したことに驚きます。今回はその背景について紹介しましょう。

江戸時代末期。1868年1月3日に起こった鳥羽・伏見の戦いを発端に戊辰戦争が始まりましたが、盛岡藩は仙台藩・会津藩などとともにその戦いに敗れ、賊藩とされました。原敬が12歳の時でした。

その後、明治新政府の運営は戊辰戦争で勝利した薩摩藩(現鹿児島県)・長州藩(現山口県)などの出身者主導で行われ、新政府の下では賊藩出身者には活躍の舞台がほとんど与えられませんでした。

そうした逆境にありながらも、盛岡藩出身の原敬は大正7年(1918)9月29日東北出身者としては初めての内閣総理大臣にまで昇りつめ、見事に賊藩の汚名を晴らすことに成功しました。

「原敬日記」は原敬をめぐる当時の政治情勢を知ることができる第一級の資料です。原敬は明治8年4月14日、19歳の時から日記をつけはじめ、大正10年10月25日まで書き続けました。9日後の11月4日、65歳の時に原は東京駅で中岡艮一という青年に暗殺されるのですが、まさにその直前までの動静が日記から読み取れます。

盛岡市大慈寺にある原敬の墓

「原敬日記」には、挫折を繰り返しながらも何度も挑戦を続け、ついには藩閥政府を倒し権力の中枢にまで至った原敬の不屈の精神と人間性が生き生きと描かれているのです。

同時代には新渡戸稲造、佐藤昌介などの岩手県人が活躍していますが、背後には原敬の存在がありました。

たとえば、新渡戸稲造は文久2年(1862)生まれと原より6歳年下ですが、大正9年(1920)国際連盟事務次長として活躍し、「国際連盟の良心」とたたえられました。新渡戸が活躍したのは原敬が内閣総理大臣の時代です。原が背後にいなかったら、国際人としての活躍はかなり、制限されたものになっていたかもしれません。

また、新渡戸と親しかった佐藤昌介は北海道帝国大学初代総長に就任しますが、これは原敬が学校教育を重視し新制大学を多く誕生させたことと連関しています。原は盛岡藩政時代、藩校の作人館で佐藤昌介と共に学んだ間柄でした。

盛岡藩は多くの逸材を世に送り出しましたが、そのリーダーが原敬でした。同郷の才能ある人々に活躍する場を提供したのが原敬だったのです。

もちろん、原敬の総理大臣としての仕事は決して郷里にのみ向けられたわけではありません。全国に鉄道網を張り巡らすなどの交通網の整備、産業及び通商貿易の振興、皇太子(後の昭和天皇)の外遊など、従来の藩閥政治家がなし得なかった功績が原にはあります。

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原敬と新渡戸稲造

河北新報社「東北の本棚」で紹介されました。

<東北の本棚>岩手の傑物互いを意識 | レビュー | Book Bang -ブックバン-


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