「燃やさなかった月」第一部 第二十一章 老爺との対話
夕暮れの境内は、誰もいないようでいて、
誰かに見られている気配があった。
石段の下に、一人の老人が立っている。
代々氏子を続けてきた家の当主。
明が幼い頃、祭りの太鼓を教えてくれた人だ。
この地域の子供を誰でも我が子
我が孫として育ててきた名士である。
白髪は増え、背はわずかに曲がっている。
だが、目だけは昔のままだ。
鋭い。
明は一礼する。
「ご無沙汰しております。」
老人はすぐには頷かない。
ゆっくりと、神殿を見上げる。
「……荒れたな。」
責めるでもない。
嘆くでもない。
事実だけが落ちる。
明は答えない。
言い訳をすれば軽くなる。
謝罪をすれば逃げになる。
老人が続ける。
「わしの父も、そのまた父も、ここで頭を下げてきた。
倅も孫たちもここを拠り所としてきた。」
沈黙。
「だがな、信心は血では続かん。」
その言葉は、刃のようだった。
我が子も地域の子も分け隔てなくかわいがる
大きな大人の鋭さがあった。
明は顔を上げる。
老人の目は、怒っていない。
測っている。
「お前は、何として立つ。」
跡取りか。
学者か。
父の息子か。
それとも——
明は深く息を吸う。
「……まだ名乗れる身ではありません。」
老人の眉がわずかに動く。
「だが、逃げません。」
風が吹く。
荒れた幟がはためく。
「学んできました。神道を、歴史を、ここが何であったかを。
そのうえで、戻りました。」
老人は黙る。
長い沈黙。
やがて、静かに言う。
「戻った、では足りん。」
明の胸がわずかに締まる。
「取り戻せ。」
その言葉は重い。
建物ではない。
氏子でもない。
「ここに集うものは皆」
信を。
老人は背を向ける。
石段を下りながら、最後にだけ振り返る。
「侍なら、背中で示せ。」
それだけ。
明は深く頭を下げる。
上げたとき、老人はいない。
昨年の夏
地方の小さな神社に学んだ
老神職の教えと重なり
再び深い感慨を覚えた
「神様はな、立派な社におるんじゃない。
掃く人の背中におる。」
残っているのは、
荒れた神殿と、
自分の未熟さだけ。
だがその未熟さを、彼は初めて誇らしく感じる。
逃げなかったからだ。
まず最初にこの長老と交わしたほんの僅かな時間
これから次々に対峙していかねばならない
氏子たちとも、ひとりひとり
しっかり止まって考えよう。
それが再建への第一歩であると確信した
大きな瞬間であった。
あとがき(第二十章)
大学を卒業して戻ってすぐの
難関との対面に堂々と
渡り合えたようにも感じるが
構えは正眼であったのか
もしくは下段で引き気味だったのか
己でもそれを確認する余裕すらなかった。
しかし、はっきりと言葉は交わした
「逃げませんん。」と。
信を問うことに定石やセオリーはない。
ましてや神道には経本や聖書はない。
神道を学んできたとはいえ、それを
人との繋がりの中で体現していくには
祝詞を唱えることでもなく
ただひたすら祈ることでもない。
次章。
長老からグサリと言われた
「お前は、何として立つ。」
この言葉への自問自答でもがき
しかし自分で答えを見つけ出そうとする
若き侍はどのように立つのか。
