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Netflix『浅草キッド』が描いたのは芸人の成功ではない。「受け継ぐ」ということの痛みだった

『浅草キッド』を観終えて最初に浮かんだのは、
これは芸人の青春譚でも
昭和芸能史の再現でもなく、
自分を作った人への感謝と痛みをめぐる、
もっと個人的で普遍的な物語だということだった。

舞台となる浅草フランス座、
くじらや、
ストリップ小屋、
キャバレー回りといった場所は、
単なる下積み時代の背景装置ではない。

劇団ひとりはそこを、たけしという人格そのものが生まれる胎内として描いている。

埃っぽい匂い、
湿った階段、
薄暗い楽屋、 
安い酒の匂いまで含めて、
下積みを美化するのではなく、
下積みの現実をそのまま映し出す。

汚れたものを汚れたまま、
しかし愛情を持って描くという離れ業を、
この映画は静かにやってのけている。
フランス座の舞台袖に積まれた小道具、
色褪せた幕、踊り子たちが行き交う狭い通路、
そうした空間の一つ一つが、
たけしという人間の
輪郭を形作っていく過程として撮られている。

師匠・深見を演じる大泉洋の芸が、
この映画の背骨になっている。
深見の教える芸は時代遅れで効率も悪く、
現代の合理主義から見れば非合理の極みだ。
それでも映画はその古い型の中にしか宿らない
情念や矜持を丁寧に描き出す。

深見がたけしに叩き込む芸の姿勢は、
「芸は盗むもの」という昭和芸能の精神を思わせる。
浅草の芸人たちが培ってきた型の芸、
立ち姿や歩き方、目線や手の角度といった所作の美学を、深見という人物は背負っている。
たけしが深見の背中を見て同じ所作を真似し、
同じように悔しがり、同じように笑おうとする姿は、師弟関係というより父と息子の関係に近い。

芸を教えるという行為の重さがこれほど痛みを
伴って描かれる作品は珍しい。
芸を渡す側は、渡すことで自分の中の何かを削られていき、受け取る側は、
受け取ることでいずれその人を追い越していく。
この不可逆の関係を、映画は感傷に流れすぎる
ことなく、淡々とした所作の積み重ねで見せていく。

舞台上の芸だけでなく、芸人としての立ち居振る舞いまで、深見はたけしに叩き込んでいく。 
そこには言葉での説明がほとんどなく、
見て盗めという一点だけが貫かれている。
効率で考えれば無駄の多いやり方だが、
この無駄の中にこそ、芸人としての矜持や覚悟が染み込んでいくのだと映画は語っているように見える。

たけしが後年見せる
独特の間や毒のある笑いを思えば、
このフランス座での日々が、
その根の一つになっていたのだと思えてくる。

芸を仕込む深見の手つきは荒っぽく、
時に理不尽にすら映る。
それでもたけしが
その理不尽さから逃げずに残り続けたのは、
そこにしか自分の居場所がなかったからだろう。

教える側と教わる側という関係の中に、
実は互いを必要とし合う対等な結びつきが
隠れている。
深見にとっても、たけしという弟子の存在が、
自分の芸を意味のあるものにしていた部分が
あったのではないか。

もうひとつ強く残るのは、
時代が変わる瞬間の痛みだ。

映画の中盤、
テレビが芸人の新たな活躍の場になり、
浅草の劇場が客を減らしていくと、
深見の芸は古いと言われるようになる。

ここで描かれるのは単なる時代の変化ではなく、自分の価値が時代から見放されていく瞬間の孤独である。
映画の背景には、
浅草の芸をそのまま守る者と、
それをテレビという
新しい舞台に持ち込んで変化させていく者、
その両方の道が見えてくる。
深見は自分の芸を変えることができないまま時代に取り残されていく一方、
たけしはそこで受け取ったものを抱えたまま
新しい世界へ踏み出していく。

古いものが消えるのではなく、
古いものを抱えたまま
新しい世界へ踏み出す者だけが時代を越えていく。
継承と変化が同居するこの姿勢こそが、
映画の最大の美しさだと思う。

舞台の上でしか通用しなかった芸が、
テレビというまったく違う文法を持つ場所で
どう変換されていくのか、その過程で何が捨てられ何が残されるのか、
映画はそこを急がずに見せていく。

深見とたけしが酒を酌み交わしながら
ボケ倒す場面についても触れておきたい。

この場面は、
この映画の感情の核になっている。
この映画が描く昭和芸能の世界には、
舞台だけでなく酒席や日常の会話の中にも芸がある。
ボケ倒し、
ツッコミを返し、
くだらない話をしてどうでもいいことで笑う。
その笑いの裏には、貧しさや家族の苦労、
芸人としての孤独を笑いに変換してきた、
昭和芸人の系譜が流れている。
深見のボケは、
たけしを笑わせるためであると同時に、
自分の芸が時代に取り残されていく
痛みを隠すためのものでもあったのだ。

だからこそたけしがそのボケに乗る瞬間、
二人は芸人としてではなく、同じ痛みを共有する父と息子として存在している。
このシーンだけを何度も見返したくなるほど、
映画全体の感情がここに凝縮されている。
二人が交わす言葉の中身よりも、
その間合いや呼吸のほうが雄弁で、
台本を超えたところで二人の関係そのものが
立ち上がってくるように見える。

渥美清が寅さんの奥に抱えていた孤独にも重なって見える。
たけしが売れ始めた頃、
深見が見せる嬉しさと寂しさの混ざった笑顔には、売れていく者を見送る側の喜びと同時に、
自分が置いていかれることへの微かな諦めが滲んでいる。
この映画は、
その一瞬の表情のためだけに全体が組み立てられているのではないかと思わせるほど、
その笑顔の描写に力を注いでいる。

大泉洋という俳優は、
コメディでも人情劇でも観客を惹きつけてきた
人だが、この深見という役では、笑わせる技術
そのものよりも、笑わせることでしか生きられなかった人間の不器用さを見せることに徹している。
声を張り上げて笑いを取る場面よりも、
誰も見ていない場所でふと表情を落とす一瞬のほうが、この俳優の凄みを物語っていた。
派手な立ち回りやコミカルな動きの多い前半に
比べ、後半になるほど深見の台詞は少なくなっていく。
それでも画面から目が離せなくなるのは、
大泉洋が沈黙の中に感情を溜め込む芝居を選んでいるからだろう。

昔から言われる「喜劇は悲劇よりも悲しい」と
いう言葉について考えさせられもした。

深見の芸は笑わせるための芸ではなく、
自分の人生の悲しみを笑いに変換するための芸だった。
そしてたけしは、その悲しみを受け継ぎ、
テレビという新しい舞台で別の形に変換していく。
客を笑わせることに全力を注ぐ深見の姿は、
どこか祈りにも似ている。
だからこそ、
客の少ない小屋で芸を続けることの寂しさと、
テレビという新しい舞台へ移っていくことで
生まれる距離感の両方が、この映画では丁寧に
対比されている。

浅草の劇場からテレビへ、
そしてテレビから配信へ。

舞台は変わっても、誰かから誰かへ芸が受け渡されていく構造だけは変わらない。
深見はたけしに芸を渡し、
たけしはそれをテレビという別の文法に変えて
時代へ持ち込んだ。
劇団ひとりは、
そのたけしの記憶を掘り起こし、
映画という形に変えた。
そして今、Netflixという配信を通じて、
その映画が観客である自分のもとへ
渡ってきている。

深見からたけしへ、
たけしから劇団ひとりへ、
劇団ひとりから観客へ。
この映画をNetflixで観ていること自体が、
その連鎖のさらに先の一コマになっているように思えてくる。

最後に触れておきたいのが、
結末で流れる桑田佳祐の歌声についてだ。
エンディングで、たけしと過去に映画をめぐる
接点を持つ桑田が歌うという構造は、
単なる選曲を超えている。
これは、映画という表現を通じて、
たけしと桑田の過去の接点を時代を越えて
結び直してみせるような演出にも見える。
浅草の芸を背負った深見から、
その芸を新しい舞台へ持ち込んだたけしへ。
そして、そのたけしを映画という形で描き直した劇団ひとりへ。
三人の表現者をつなぐ連鎖が、
この一曲に象徴されている。

浅草という古い芸の世界と、
現代のポップカルチャーをつなぐ演出として、
これ以上ないラストだったと思う。
深見からたけしへ渡されたものは、
突き詰めれば
芸そのものではなかったのかもしれない。
型や技術であれば、
時代に合わなくなれば古びて消えていく。
渡されたのはむしろ、笑いに人生を賭けるという生き方そのものであり、だからこそそれはテレビという違う舞台に移っても壊れずに残り続けた。

『浅草キッド』の歌詞にある
「夢は捨てたと言わないで」
「他に道なき二人だから」という二行に、
映画の全てが回収される。
深見の芸は時代に合わなかった。
たけしはテレビで成功した。
それでも二人は他に道なき二人だった。
この歌が流れた瞬間、映画は昭和芸能史でも伝記映画でもなく、誰かに育てられたすべての人間の物語になる。
観終えたあとに残るのは、
派手な事件や大きな転機の記憶ではなく、
日々の立ち居振る舞いの積み重ねといった
些細な記憶のほうだった。

『浅草キッド』は、
浅草という芸の胎内から生まれた一人の芸人の
物語であると同時に、
自分を形づくった誰かの影を、
時代が変わってもなお
抱えて生きていくすべての人間への、
静かな返歌なのだと思う。

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nao46222 チップをありがとうございます。 そのまま宝にしておきます。^_^