ジョジョ第二部は“未完成の完成形”だった──読むたびに深くなる、生命と実験の物語
ジャンプで連載されていた当時からジョジョは面白かったし単行本も買っていたが、何度も読み返すたびに新しい発見がある作品だと気づいたのはもっと後になってからで、特に第二部は読むたびに深さが増す稀有な漫画だと思う。
石仮面は古代文明の生贄の道具で柱の男は神そのものであり、人間は貢ぎ物として扱われる存在だったが、波紋という“生命の光”を手に入れたことで初めて神に抗う力を得た。
スピードワゴン財団の人工太陽光線が効かず波紋だけが柱の男に通じたのは、光の物理的な模倣ではなく生命そのもののエネルギーだけが彼らを打ち倒せたからで、生命エネルギーは人工的には作れないという事実が物語の根底に流れている。
カーズが究極生命体となり太陽を克服した瞬間、彼は“神を超えた存在”になったが同時に地球という舞台から外れてしまい、生物でも鉱物でもない中間の存在へと変わり永遠の孤独の中で「考えるのをやめた」。死ねないことは死ぬことより辛いという残酷な真理を第二部は静かに描いている。
この“神話構造”は突然生まれたものではなく、荒木飛呂彦はバオー来訪者で生命エネルギーの概念を描き、魔少年ビーティーでトリックと罠の構造を描き、ゴージャス☆アイリンで精神エネルギーの萌芽を描いてきた。第二部はそれら過去作の要素を抽出し組み替え進化させた結果として生まれた作品であり、物語の奥に“抽出された神話”のような深さがある。
主人公のジョセフも当時のジャンプでは異質で、一部のジョナサンが真面目な王道ヒーローだったのに対し、ジョセフは調子乗りでふざけていて逃げるし罠を仕掛けるが、最後は必ず勇気を出して立ち向かう。ビーティーの仕掛けやトリックの精神がそのまま受け継がれ、“強さが完全ではない主人公”が怪物に挑む物語になっている。北斗の拳や男塾、キン肉マンのように“完全な強さ”が主流だった時代に、ジョセフの“不完全さ”は逆に新鮮だった。
第二部の絵にも後年のジョジョにはもう存在しない“手探りの勢い”があり、初期の劇画調の重さと後期のスマートで洗練されたスタイルのちょうど中間で、線はまだ荒々しく影の入れ方は実験的で肉体の迫力が強い。当時のジャンプは筋肉キャラだらけだったが、ジョジョの“がたい”は同じ太さでも見え方が違い、重さではなく動きのための筋肉で、ひねりやしなりや流れがあってキャラが生きている。
ワムウの風の流法のシーンでは筋肉が風を受けて動くように描かれ、第二部の画風のダイナミズムが最もよく表れている。
シーザーが最期にシャボンランチャーを放つ場面では、線が震え影が荒れ背景がざらつき、後年の荒木には描けない“未完成の情感”がそのまま紙に焼き付いている。
ジョセフの「次にお前は○○と言う!」の先読みシーンは単なるギャグではなく、“知恵で神に挑む主人公”という第二部のテーマそのものを象徴している。
カーズが究極生命体となるシーンでは、太陽を克服し全生物の能力を得て進化の頂点に立った瞬間に、彼は生命ではなくなり、波紋=生命の光とカーズ=生命を超えた存在という対比が物語を鮮やかに締めくくる。
後年のジョジョはスマートで洗練された人物造形が主流になるが、自分が好きなのは第二部の“途中の作風”で、劇画の重さとスタイリッシュ化の狭間で手探りの線が生きていて、実験しながら描いているような勢いがあり、あの時期だけの未完成の爆発力が作品を一番ダイナミックにしていた。
ジョジョの読者は三部や五部が好きな人が多いが、自分はやっぱり二部が好きで、構造の深さ、生命観の哲学、絵の過渡期の美しさ、ジョセフという知恵の主人公、そして何度読んでも新しい発見がある再読性──第二部は読むたびに新しい層が見えてくる数少ない漫画のひとつだと思う。
チップをありがとうございます。 そのまま宝にしておきます。^_^
