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彼女の時間を守った一年と、自分の時間を取り戻す始まり

一周忌という明確な節目を越えたあとに
訪れるこの静けさは、
喪失の直後にあった慌ただしさとは
まったく異なる質の時間だ。

音が消えたあとにだけ聞こえてくる、
内側の微かな振動に近い。

あの一年は、崩れた日常をどうにか組み直し、
生活という器を
再びかたちにするための時間として
機能せざるを得なかった。
しかしその工程がひとまず終わり、
呼吸が自分のリズムを取り戻したとき、
今度は「これから自分はどう生きるのか」という問いが、遅れて押し寄せる波のように立ち上がってきた。

静かでありながら、
逃れようのない重さを伴って。

この時間の変質は、
外側の出来事が減ったからではなく、
内側の観測点が変わり始めたことによって
生じている感覚だ。
それは「耐える時間」から「選び直す時間」への
移行と言い換えてもいい。
そしてその変化の只中で、
自分の内側に何が起きているのかを
理解しようとする試みは、
単なる知識の収集ではなく、
いま進行している自分の心の構造を
手探りで確かめながら、
この先の生き方の設計図を
描き直そうとする行為そのものになっている。

人間はどれほど満たされた出来事に出会っても、やがてそれに慣れ、感情の振幅は基準点へと戻っていく。
それは感受性の摩耗ではなく、
長く生きてきたからこそ
自然に現れる適応の働きだ。

自分がいまここで感じているこの平静さも、
喪失への慣れなのか、
生きることへの再適応なのか、
その境界はいまだに判然としないまま、
ただ時間だけが静かに経過していく。

喜びや意欲の感じ方そのものも、
年齢とともに、
あるいは大きな喪失を経た人間の内側で、
ゆっくりと変容していく。
若い頃のような強い刺激や急激な高揚を感じにくくなることは、
避けがたい流れとして静かに進行していく。

しかしそれは
「感じられなくなった」のではなく、
「感じ方の解像度が変わった」と
捉え直すこともできる。
粗い強度ではなく、
より微細な差異に反応する感覚へと
移行している、ということだ。
そのことを、最近は日常の中で
じわりと実感するようになった。

妻がよく使っていたカップが、棚にある。
特別な理由があって使い続けているわけではない。
ただそこにあるから手が伸びる、
という惰性の中にいる。
しかしふと置いたとき、
その重さや温度の残り方に、
一瞬だけ止まることがある。

意識して向き合おうとしているわけではない。
日常の流れの中で動いていたら、
気づいたら止まっていた、という感じだ。

多肉植物を扱う店にも、
気づけば足が向くようになった。
もともとそれほど興味があったわけではない。
妻がよく探しに行っていたから、
なんとなく後をついて入っていた、
その惰性がそのまま続いている感じで、
一人でも入るようになった。
植物を眺めている瞬間に、ふと止まる。
いまでは自分でも育てるようになった。
妻から移ってきたものが、
気づかないうちに根を張っていた。

引き出しを開けると、
妻の字が出てくることがある。
料理のレシピの殴り書き、
誰のものかわからない電話番号、
病気で家にいた頃に書いた薬の管理メモ。
久しく見ていなかった字を目にすると、
現実に戻される感じがする。
いや、戻されるというより、
別の現実を
一瞬だけ見てしまう感じに近いかもしれない。
しばらくそこで止まって、
それからまた引き出しを閉める。
この「止まり」が、
いまの自分の感じ方の解像度だと思う。
劇的な感情の波ではなく、
日常の惰性の中に不意に現れる、
微細な引っかかり。
それに気づけるようになったこと自体が、
何かが変わった証拠なのかもしれない。

あの頃には気にも留めなかった光の加減や、
誰かの声のわずかな温度の変化に、
以前とは異なる仕方で
気づくようになっているとしたら、
それはむしろ何かが
豊かになっていることの、静かな証拠だ。

さらに人生の後半に差しかかると、
人は無意識のうちにこれまでの歩みを振り返り、その意味を編み直そうとする段階へと入っていく。
目の前の出来事に対する関心が
一時的に希薄になることすらあるが、
それは何かを失っているのではなく、
点としての出来事ではなく、
線としての時間を見ようとする眼差しが
育ってきているからだと思う。
だから、ふとした瞬間に「人生が楽しくない」と感じることがあったとしても、
それは終わりの兆しではない。
次の段階へと移行するための
内部調整が進んでいる状態であり、
水面下でゆっくりと形を変えている
潮流のようなものだ。

そしてその感覚が
自分の内側にも確かに存在しているからこそ、
「これからは自分のしたいことをしてみたい」
という欲求が、外から与えられた目標ではなく、内側から自然に立ち上がるものとして感じられている。

日常に小さな「初めて」を差し込むことが、 
いまの自分には効いている。
歩いたことのない道を選ぶこと。
入ったことのない店に立ち寄ること。
翌朝の自分のために、
小さな予定を一つ置いておくこと。
それらは結果としての満足を
目的とするのではなく、
「これから起こるかもしれない時間」への期待を静かに生成する装置として働く。
その持続の中でしか現れない種類の
「手応え」や「静かな楽しさ」を、
ゆっくりと連れてくる。

妻を失ったあとの一年が
「彼女の時間の続きを守ること」に
重心を置いた時間だったとすれば、
いまここに流れているこの感覚は、
「自分の時間をもう一度歩き出させる」ための、
まだ小さく、
しかし確実に方向を持った最初の運動だ。
誰かに示すためではない。
棚のカップも、
植物の店も、
引き出しの中の字も、
それらに静かに止まりながら、
自分の人生の舵を、少しずつ握り直していく。


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nao46222 チップをありがとうございます。 そのまま宝にしておきます。^_^