第64章 安土城にて論功行賞−−新しい形
安土城の朝は、明るかった。
淡海の水気を含んだ風が城の高台を抜けていく。
霧はゆっくりと、まるで眠りから覚めるように引いていった。
太鼓は鳴らない。
鬨の声もない。
だが城内には、静けさとは異なる何かが満ちていた。
兵が動き、使者が走り、足音が幾重にも重なって石畳に響く。
空気そのものが、前を向いていた。
評定の間には、すでに人が集まっていた。
柴田勝家。
徳川家康。
滝川一益。
河尻秀隆。
細川藤孝。
前田利家。
佐々成政。
それぞれの表情は、まるで異なる。
勝家は腕を組んだまま静かに構え、泰山のごとく動じない。
家康は無言のまま、まっすぐ前の一点を見つめていた。
何を考えているのか、その目は語らない。
滝川と河尻は広げた地図の前で頭を寄せ、低く言葉を交わしている。
利家と成政だけが、どこか明るい空気をまとっていた。
生き延びた者の解放感に似た何かだった。
そこへ、障子が開いた。
音もなく、するりと信忠が入ってくる。
信忠はゆっくりと視線を巡らせてから、静かに言った。
「面をあげよ」声は低く、穏やかだった。
怒気もなく、気負いもない。
それでも場の空気が、一段、締まる。
領地宛てがい
地図が広げられる。
近畿。
中京。
北陸。
東海。
甲斐。
信濃。
戦場の血の匂いは、もうそこにはなかった。
あるのは国の形だった。
信忠は淡々と告げる。
「柴田殿。越前」
勝家は一拍置いて、深く頷いた。
「承りました」
短い言葉の中に、長い年月が詰まっていた。
「前田利家。若狭」
「はっ」
利家の声は明るかった。
「佐々殿成政。但馬」
「承知!」
成政ははっきりと応じる。
「河尻秀隆。甲斐」
「務めます」
河尻は静かに答えた。
短い言葉の中に、静かな覚悟があった。
「滝川一益。信濃」
「承知」
滝川らしい、削ぎ落とした言葉だった。
「細川藤孝。丹後」
「御意」
藤孝は静かに頭を下げる。
その所作に、乱れはなかった。
場に、自然な高揚感が生まれていた。
徳川家康
信忠の視線が、家康に向く。
「徳川殿」
家康は、ゆっくりと顔を上げた。
その目は、最初から逸らしていなかった。
「三河を預ける」
一拍の間があった。
「遠江は、織田の直轄とする」
空気が、一瞬だけ張った。
家康は表情を変えなかった。
瞬きひとつなかった。
何かを噛みしめるように、ただ静かに、深く頷く。
「……承知いたしました」
負けを受け入れ、立場を受け入れ、与えられた役割をそのまま受け入れた顔だった。
それは諦めではなかった。
もっと重い何か――武将として生き抜いてきた男の、静かな誇りの置き所だった。
勝家が、ちらりと家康を見る。
家康は、目を逸らさない。
二人とも、理解していた。
これは処罰ではない。
位置の確定だ。
天下の地図に、それぞれの重さで刻まれる、座標のようなものだと。
直轄と統治
「他領は織田の直轄とする」
信忠は続けた。
「直轄地は代官を置く。
それぞれの治めは各地に任せる」
「財は中央に集める」
誰も口を挟まなかった。
理屈よりも先に、形として腑に落ちたからだった。言葉が終わった後も、その言葉の重さが部屋に漂っていた。
九鬼嘉隆
「九鬼嘉隆を召し出す」
場が、わずかにざわめいた。
「志摩五万石を安堵。九鬼水軍を再編せよ」
信忠は少し間を置いてから、静かに加えた。
「ただし、今は動かすな」
「来る時のために」
滝川が、低く言う。
「……備えですな」
「そうだ」
信忠は短く頷いた。
それ以上、説明はなかった。
この場にいる者たちには、来る時が何を指すか、肌でわかっていた。
配置が終わる。
重苦しさはなかった。
代わりにあるのは、前向きさ。
そして、静かな自信だった。
積み上げてきたものが形になった時にだけ生まれる、あの手応えだった。
利家が、ぽつりと笑った。
「ようやく、戦が終わった気がしますな」
成政が応じる。
「いや、始まったんだろ」
河尻が静かに言う。
「戦える形になっただけだ」
誰も否定しなかった。
三人とも、正しかった。
信忠は、一瞬、城の外を見た。
「浮かれるな」
「だが、天下は見えてきた」
誰かが、静かに笑った。
会議は、静かに終わった。
戦国の、刃の上を歩くような空気ではない。
勝ち終えた空気だった。
信忠は城の高台から淡海を見下ろし、静かに言った。
「ここから先は、戦だけで天下は取れぬ」
「支える力が要る」
誰も、反論しなかった。
反論しなかったのではなく、そういうものだと、それぞれが腹の底でとうに知っていたからだった。
安土城は、今日から――国を動かす城になっていた。
