そんな自分、をきっと好きになる
幼少期に親から、肯定的に扱われた子は、自分という存在に疑問符が付きません。
肯定的に扱われる、ということを別の言い方をするならば、
無条件に受け容れられる、ということです。
否定されることの無い親子関係に身を置けばこそ、
子どもは、安心感、に抱かれます。
無条件に受け容れられるからこそ、
子どもは、自分には価値が有る、という感覚を得ます。
インドには、
「3歳までは神の様に育てよ」
という意味の、子育てを説くことわざ、があるそうです。
4歳に満たないいわゆる、幼少早期、の親子関係に於いて子が、安心感に満たされること、はとても大切です。
安心感に満たされて初めて、子どもの心は育ちます。
その後の人生を左右する分岐点は、生まれてからの3年間という極めて早い時期に訪れる訳で、
その意味で、「3歳までは神の様に育てよ」は、実に納得が行きます。
幼少早期の子が、安心感に抱かれるか否か、は子どもには選択の権利も責任もありません。
安心を与えるのも、無条件に受け容れるのも、親、です。
人生の最初、子どもは余りにも無力です。
親が居なければ生きて行けない儚い存在です。
無力で儚い存在だからこそ子は、全身全霊で親を慕います。
本来ならば、慕って慕って慕い抜く子どもを、親は無条件に受け容れます。
けれども、そう出来ない親、も居るのです。
慕って慕って慕い抜く我が子を、愛おしく感じることが無い親も居ます。
受け容れるのは、親が突きつける親都合の条件を子どもが満たした時に限ります。
満たすことが出来なければ、親はその子を否定し、拒絶します。
親の突き付ける条件を満たさなければ受け容れてもらえない子は、自分の感情を投げ捨てて、親の顔色を覗い、親の突き付ける条件を満たす為だけに幼少期を生きます。
安心などありません。
いつも不安なのです。
子どもの心の成長に欠くことが出来ない、安心、が無いのですから子どもの心は育ちません。
自分という存在に大きな疑問符が付きます。
自分のことを嫌ってしまいます。
先に触れました、インドの子育てのことわざ、には続きがあります。
「3歳までは神の様に」の後に、
「3歳から16歳までは召使の様に、16歳以降は親友の様に育てよ」と続きます。
召使い、と言うと誤解を招きそうですが要は、「自分で考え、自分で解決する経験を沢山させなさい」という意味である様に思います。
過保護、過干渉は、子どもから人生を歩む勇気を、確実に奪います。
そして、親友の様に、は「ひとりの人として尊重しなさい」という意味だと解釈しています。
尊重されてこそ、子どもは自分に価値を見出します。
子どもが16歳になった時、自分の人生を歩む勇気を得るか否かは、それまでの経験の蓄積が必要です。
経験を積み上げるには、積み上げる為の土台となる心、を育てることが不可欠です。
心を育てる大切な季節が、幼少期、なのです。
子どもを生きづらくさせてしまう親は、親自身が情緒未成熟です。
見た目は立派な大人でも、傍目にはきちんとした親であっても、
心は未発達で、親になるに相応しい段階までの成長を遂げていません。
だから、子育ての最初の段階から上手く行きません。
子どもの心の成長を願って、神の様に育てる、よりも、
親である自分を神の様に扱うこと、を我が子に要求します。
情緒が親になるに相応しい段階まで成熟した親ならば、
自分を慕って止まない我が子の姿を、掛け値無く愛おしく感じ、
誰に教えを乞うで無く、育児書に頼らなくても、神の様に育てようとします。
勿論、子育てに絶対的な正解や、間違いの無い方程式は無く、
躓き転びぶつかり、間違いながら子育ては続きます。
それでも、成熟した心を持つ親は、神の様に育てようとします。
自分を慕って止まない我が子が愛おしいから、です。
愛おしく感じるのは、その親が心に愛を携えているからです。
心に愛を携えるにはその親の心が、親であるに相応しい段階まで成長していることが必要です。
躓いても転んでも、ぶつかっても間違っても構わないのです。
心に愛を携えているか否かが全て、だと私は思っています。
それだけが、子どもの心を育む為に必要なもの、だと思うのです。
幼少期に心が育たなかった子は、少年少女期に経験が積み上がりません。
経験を積み上げる土台となる心が育っていないからです。
少年少女期に経験が積み上がらないと大人になっても、自分の人生、に踏み出す勇気が湧き上がりません。
つまり、人生の最初の躓きは、時が解決する類のものではありません。
それでは人生の最初に躓いた人は、どう足掻いても、生きづらさを手放すことは叶わないのでしょうか?
自分を疑問視したまま、自分を嫌ったまま生きるしか無いのでしょうか?
先に述べました様に、幼少期に躓いて心が発育不全になったことの責任は、幼かったその人には一切ありません。
余りにも無垢で無力で、儚い存在であった幼い日のその人に、責任など有ろう筈が無いのです。
責任が無いのにも拘らず、生きづらい人は、無意識のうちに自分を責めます。
親が突き付ける要求を満たさなければ、否定され拒絶され、責められて育ったからです。
本来ならば、愛を惜しみ無く注がれて然るべき、幼少期と言う特別で大切な季節に、慕って止まない親から責められました。
それは生まれて直ぐに始まって、今日も明日も明後日もずっと続きました。
幼少期が終わる頃には既に、自分の存在について懐疑的になっています。
自分は無価値だ、と思い込んでいます。
無価値の思い込み、は、人生の最初に、親から背負わされました。
だから過去を辿り、幼い日の自分には責任が無いことを腑に落とします。
そのことが腑に落ちたなら、過酷な環境に負けずに生き抜いた自分が尊く思えます。
生き抜いた自分の尊さを思い出したなら、自分を責めることが無くなります。
自分には価値が無い、という思い込みが生きづらさです。
自分を責めるクセが生きづらさです。
だから辿って、紐解き、腑に落とし、思い出します。
愛を携える親の下に生まれた子は、守られ暖められ、
無条件の受け容れ、と言う揺り籠に揺られながら心を育てますが、
愛を失くした親の下に生まれた子は、残酷な真実と向き合い、
腑に落とし思い出し、生きづらさを手放します。
確かに辿る道のりは険しく、
痛みや苦しみが行く手を阻みますが、
それはいつか心の深みに変わります。
痛かったから他者の痛みが解ります。
苦しんだから他者の苦しみが解ります。
そんな自分を誇らしく感じ、
そんな自分をきっと、
好きになる日が訪れます。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
