生きづらさは、【自分】として生きられない苦しみ
生きづらい人の心の中には、
確かな【自分】という意識、
が育っていません。
物理的に自分の身体がここに在ることは勿論、解っていて、
胸に手を当てれば鼓動を確認出来ますし、
物にぶつかれば痛みを感じます。
物理的には間違い無く、自分はここに在る、訳です。
しかし心理的には自分という存在が非常に、不確か、なのです。
多くの場合、生きづらい本人は、
自分という存在が心理的に不確かである、
という自覚はありませんが、
訳も無くいつも、苦しかったり、イライラしたり、不安だったり、
説明出来ない重々しい何かが、胸の内に巣食っている様な感覚があります。
その感覚に永く苛まれた先で、自らが抱える生きづらさに気がついたとしても、
生きづらさが何なのか、ということが分かりません。
それが心の中に、確かな【自分】、が感じられない虚無感によるものだとは気がつきません。
ただ説明することは出来なくても、
いつも、とても苦しいのです。
その人が生きづらくなってしまったのには理由があります。
その人の親は、見た目は立派な大人でも、
傍目にはちゃんとした親であっても、
心は余りにも未発達で、
情緒未成熟な人、だったのです。
本来なら親は、幼い子どもを受け容れる側ですが、
情緒未成熟な親は、子どもに受け容れてもらう側に収まります。
親になるに相応しい段階まで、情緒が成熟した親であれば、
未だ上手に喋ることが出来ない、子どもの感情を感じ取ろうと心を砕きますが、
情緒未成熟な親は、自分の感情を子どもに受け容れさせることに躍起になります。
たとえば、
親が静かにしていたいなら、傍で子どもがはしゃぐことを許しません。
子どもは、はしゃぎたい気持ちを無かったことにして親の、静かにしていたい、という気持ちを優先します。
親が明るく笑うことを望めば、子どもは悲しくても無理矢理に笑います。
子どもは、泣きたい気持ちを投げ捨てて、親の気持ちを優先して笑います。
本来子どもの気持ちを感じ取るべき親が、自分の感情を子どもに受け容れてもらっている状態は、親子の役割りが逆転しています。
暴力を振るわなくても、罵倒することが無かったとしても、
親子の、役割り逆転、は心理的虐待です。
まるで5歳児の様な幼い情緒の親であっても、子どもからしてみれば親なのであり、
親子関係に於けるパワーバランスは、圧倒的に親が優位なのですから、
子どもはいつも親の感情を優先することが癖づきます。
つまり、子どもは親の顔色を常に覗い、親の感情を優先する様になります。
そうすることが日常的に繰り返されるうちに子どもは、
親の感情を察知することに長じる代わりに、
自分の感情がさっぱり解らない子、になってしまいます。
人間には、豊かな感情があります。
その感情を投げ捨てなければならないのですから、生きづらくならない方が不思議です。
ただ生きているだけで虚しいのです。
本来備わっている感情の殆どを捨ててしまったなら、虚無感に囚われてしまうのは必然です。
友達と冗談を言い合って笑っても、本当に楽しいのかどうかが判りません。
感情を投げ捨てる癖がついているからです。
でも友達が笑っているのに、仏頂面をしていては嫌われてしまうから笑います。
幼い頃、親の機嫌を損ねない様に、親の顔色を覗った時と同じです。
泣きたいのに笑って見せた幼いあの日の再体験です。
感情を投げ捨てることは、
自分として生きることを諦める、ということです。
自分の人生を歩まない、ということと等しいのです。
つまり、生きづらさ、とは、
自分として自分の人生を歩めない苦しみ、と言うことが出来ます。
自分の感情をすくい上げる代わりに、親や友達の顔色を覗い、周囲の空気を読んで、自分の感情表現を決めます。
だから、生きづらい人は、他者が居なくては自分の感情表現が決まりません。
言い方を変えれば、生きづらい其の人の感情表現を決めるのはいつも他者です。
その人は感情を他者に委ねているのです。
親にしろ、友達にしろ、相手や周囲から褒められて初めて、嬉しいし、
貶されれば自分を無価値に感じます。
他者の自分に対する評価がそのまま、自分の価値、になります。
自分の価値と他者の評価は本来、別々のもの、です。
それなのに、自分の価値が他者の評価と直結してしまったなら、これほど不安定なことはありません。
それは言わば、自分の人生をそっくり他者に明け渡している、ということになります。
他者が居なくては、自分が見えて来ないのですから、生きづらくならない訳が無いのです。
幼い子どもは、徹底的に無力です。
親が無くては生きられません。
親が無くては生きられないのに、親は情緒未成熟で、
子どもを受け容れるより、子どもから受け容れられたい人だったのですから、
今、生きづらいのは、生きづらい其の人のせいでも、生まれつきでもありません。
今、生きづらさに気がついたなら、
そして生きづらさを手放したいのなら、
どうしてこんなに苦しいのか、
この苦しみの原因は何なのか、
知ることから始めます。
知ることが、全て、ではありませんが、
知ることが、全ての始まり、です。
苦しみを抱えてしまったご自身を、
責めることは止めにして、
過酷な、親子逆転の幼少期を、
生き抜いたご自身を褒めて下さい。
誰が知らずとも、
生き抜いたそのことが、
既に、尊い、と私は思います。
生きづらさの正体を先ず知って、
生きづらさを抱えるに至った経緯を紐解いて、
そして腑に落としたら、
活き活きとした感情を、
必ず感じ取れる様になります。
自分として、
自分の人生に、
軽やかに踏み出して下さい。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
