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映画「ヒーロー〜靴をなくした天使〜」を出しにした哲学エッセイ;大衆はヒーローを見誤る

悪人の言葉の中にも、一定の真実が含まれていることはある。しかし、正しい言葉を発したからといって、その人まで正しいとは限らない。人を判断するうえで問われるべきなのは、何を言ったかだけではなく、実際に何をしたかではないだろうか。

忘れてはならない。主人公のバーニー・ラプラントは、コソ泥である。彼は墜落事故の現場で人々を救った。だがその救助の最中にも、女性キャスターの財布をしっかりと盗んでいる。窃盗を目的として救助のふりをした、とまでは言えないが、彼の動機が最後まで純粋な人命救助だけだったとも言い切れない。救助を始めたときの動機と、救助を続けているときの動機は、途中から変化していた可能性が高い。

そして彼は最後に、息子に対して、英雄や善人について一見もっともらしいことを語る。だが、正しいことを語ったからといって、彼が正しい人間になったわけではない。コソ泥は、正論を述べてもコソ泥である。少々意地悪に言えば、他人の財布を盗む人間は、他人の立派な言葉さえ盗んで自分のものにしてしまうのではないか。

この映画を初めて観た二十年以上前、私はラプラントを本物の英雄のように見ていた。世間から誤解されながらも、名誉を求めず、陰で人を救った人物だと思っていた。

しかし、いま観ると、その印象はまったく逆になった。彼には確かに、人を救う力がある。善意らしきものもある。だが同時に、平然と盗みを働き、嘘をつき、責任から逃れようとする人物でもある。善人の中に悪があるというだけではない。悪事を重ねる人間の中にも、突発的な善行や、真実を言い当てる瞬間がある。その矛盾こそが、この主人公の正体なのだろう。

だからこそ、この作品は私が当初思っていたよりも複雑である。大衆は、しばしばヒーローを見誤る。華々しく報道された人物を英雄だと思い込み、正しい言葉を語る人物を正しい人間だと信じる。反対に、風采の上がらない人物や、社会的に評価されていない人物の中にある善を見落とすこともある。

だが、この映画は単純に「真の英雄は誰か」を明らかにする物語ではない。ラプラントを、世間に理解されない本物の英雄と呼んでよいのか。私はいま、その見方には同意できない。彼が人を救ったことは事実である。しかし、その一度の善行によって、それまでの行為も、その後の人格も、すべて浄化されるわけではない。

人間は、一つの行為だけでは決まらない。だから同時に、一つの立派な行為を根拠として、その人物のすべてを美化してもならない。この見方には、異論もあるだろう。それでも、いまの私には、この映画を英雄譚として受け取ることはできない。

正しいことを言うコソ泥と、英雄として祭り上げられる偽者と、真実よりも分かりやすい物語を欲しがる大衆。その三者が互いにだまし、だまされながら成立している。

そう考えれば、これは英雄の物語ではない。これは、人間がいかに英雄を作り上げ、いかに正しさを見誤るかを描いた喜劇なのである。

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