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京都 | 人生で初めて110番した日

コロナ禍も少し落ち着き、世の中が日常を取り戻し始めた頃。夏の京都はまだガラガラだった。それをいいことに、観光地を巡る。基本どこも貸し切りだ。

金閣寺は見た。今度は銀閣寺だ。ネットには「赤ちゃんを抱っこしても30分で登れた」と書いてあった。これなら余裕だ。

朝寝坊して、ゆっくり身支度。それにしても暑い。外へ出た瞬間、体力が一気に持っていかれそうだった。

お腹がすくかもしれない。一応、おにぎりでも買っておくか。飲み物は……荷物になるし、昨日の飲みかけがある。それで十分だろう。おにぎり一個とペットボトル半分、そしてスリッポンで向かった。

バスを降りて、長い階段を上れば銀閣寺だと思っていた。ところが目の前にあったのは、「大」の字の火床だった。京都が一望できる。もう銀閣寺のことは頭から消えていた。

そもそも運動は苦手だ。思えば、こんなに登ったのは、小学校の林間学校ぶりだ。よくもまぁ、体を動かそうと思ったものだ。

あ、あの「大」じゃん。ここにあったんだ。

昨日は見上げていた場所に、今日は立っている。写真を撮ろうとした、その時だった。

「お嬢ちゃん、どこから来たの。写真撮ってあげるよ。」

そこには、杖を突いたおじさんが座っていた。どうやら、おじさんは毎日ここに来て京都の町を見て過ごすのが日課らしい。隣に座っておにぎりを食べる。

「どこへ行くの」
「ここから、蹴上に降りられるって聞いて。」
「今からかい?」もう昼近かった。

おじさんは私の足元を見た。

「その靴で?」
「食べ物と水は持ってるの?」
「心配だなあ。」

ネットには「ハイキング」「初心者向け」「約1時間」と書いてあった。別に本格的な登山じゃないし、ここまで来たら下るだけだ。心配する理由なんて、一つも思いつかなかった。


ホテルは蹴上から地下鉄一本。帰り道としてはちょうどいい。誰にも会うことなく、ルンルン気分で整備された山道を進んでいく。山は貸し切りだ。なんて贅沢なんだろう。

汗をぬぐいながら歩いていると、最初の分岐点がやってきた。道が二手に分かれている。矢印の看板はあるものの、どちらを指しているのかわからない。一方は、背の高い草木に囲まれ、少し先は見通せなかった。もう一方は今までと同じように整備された下り道。

なら、こっちだ。

さっきまで太陽が降り注いでいた山道は、少しずつ木々に覆われ、日陰が増えていく。汗も少しずつ引いてきた。快適だ。静かだ。山で一人は少し寂しい。音楽でもかけよう。森にはやっぱり、トトロの「さんぽ」だ。

下りだけに足取りは軽い。誰もいないのをいいことに、大声で歌いながら、写真を撮りながら歩く。

気づけば道は車も通れそうな広い道になっていた。その代わり、木々はますます生い茂り、昼間なのに薄暗く、少し肌寒い。前方に、小さな小屋が見えた。通り過ぎようとした瞬間、急に空気が変わった。

ここから先は、進んではいけない!

直感的にそう思った。

どうしよう。怖い。
この道で合ってるのかな。

思わずGoogleマップを開く。

え、この道……蹴上じゃなくて、滋賀県に続いてる。
なんだよ!間違ってるじゃん。

せっかく下ってきたのに、今さら登り返すのはつらい。いっそ、このまま滋賀まで歩いて、電車で京都へ帰った方が楽なんじゃないか。滋賀から京都って、電車代いくらだろう……。いや、待て。ということは、さっきの分岐だ、あっちだったのか。

しょうがない。戻るか。

下るのは30分。登ると1時間。息を切らしながら、ようやくさっきの分岐まで戻ってきた。喉はカラカラだ。お茶が体に染み渡る。

あーもう、こっち選んでたら、今ごろ蹴上に着いていたのかもしれない。
2択だから、こっちだね。

気を取り直して歩き出す。失った時間を取り戻したくて、自然と足早になった。久々に人とすれ違った。あ、やっぱりこっちだったんだ。

今度こそ大丈夫。

だが、どれぐらい進んだのだろうか。足元はだんだん荒れていった。

なんか、おかしい。

さっきの人たち、こっちから来たよね。道、見落とした?もう一度、分岐まで戻ってみようか。さっき、ようやく人とすれ違ったのに、「蹴上はこっちですか?」と、どうして一言聞かなかったんだろう。

携帯を見る。14時を過ぎていた。

山は17時までには下りなさい。

小学校の先生が言っていた言葉が、急によみがえる。どうしよう。あと3時間しかない。出口はどこだ。日が暮れたら……熊がいるかもしれない。来た道を戻れば、たぶん2時間。でも、正しく戻れる自信がない。このまま進めば、出口はもうすぐかもしれない。

体力はもうない。一歩も無駄にできない。
食べ物はもうない。さっき山頂で食べてしまった。
お茶は残り四分の一。さっき分岐で飲んでしまった。
携帯の電池は残り10%。さっき音楽を大音量で流して、写真も撮りまくってしまった。


…………あれ。なんかまずくないか。
これ、まさか、「遭難」ってやつじゃないか……。

脳裏にニュース速報がよぎった。
ヘリコプターが山の上を旋回している。
テロップには、「京都・銀閣寺付近で遭難者1名」
……私だ。

京都に知り合いはいない。誰か通らないだろうか。けど思えば歩き始めてから今まで、1組としかすれ違わなかった。


もう、110番するしかない。

人生初の110番。まさか、こんな理由でかける日が来るなんて。でも、本当に電話していいのか。番号まで押して、指が止まる。

いや、ニュースになるくらいなら、自分から連絡したほうがまだマシだ。携帯の電池はもう残りわずかだ。電波がある今のうちに、連絡しなければ。意を決して、通話ボタンを押した。


「はい、110番です。どうしましたか。」

自分の状況がアホすぎて、言葉に詰まる。
一体、なんて説明したらいいんだ。

「遭難したみたいで……。銀閣寺の山で……。」

電話の向こうが、一瞬だけ止まった気がした。
私だって聞いたことがない。

「今どこかわからなくて……。誰もいなくて……。でも、携帯の電池がもう切れそうで……!!」

必死にまくし立てる。

その時だった。


前方に、いかにも登山慣れした格好のおじさんが見えた。

「あっ! 人が来た! 一回切ります!」

そう言って電話を切った。
電池は1%たりとも無駄にできない。
目の前の人も逃したくない。

「あの、助けてください。下山できなくて……」

おじさんは私をじろりと見た。

「こんな格好で来たのかい。あれま。どこに行くの?」

次の瞬間、神の言葉が聞こえた。

「1番近い下山口でいい?連れて行ってあげるよ。ついてきな。」

おじさんは何の迷いもなく、自分が来た道を引き返し始めた。おじさんの後ろを歩いていると、不意に携帯が鳴った。

「警察の者です。どうなりましたか。」
「おじさんが出口まで連れて行ってくれることになって、なんとか大丈夫そうです。ありがとうございます。」

もう安心だ。何も考えなくていい。ただ、おじさんについていけばいい。忙しいだろうに、警察もわざわざ折り返してくれた。山の中に一人だと思っていたけど、一人じゃなかった。


途中、おじさんは、絶対に違うだろうと思う道を当たり前のようにひょいひょい進んでいく。

「こっちなんですか!?」

私一人だったら、絶対に選ばない。
おじさんは胸ポケットから紙の地図を取り出し、ルートを確認した。

「こっちだね。」

木に結ばれたピンクのテープが目印なんだそうだ。ピンクのテープは、ほぼ擦り切れてた。去年の大きな台風とコロナ禍が重なり、登山道の整備が追いついていないらしい。

こりゃ……一人じゃ絶対に無理だ。

階段を降りると、ようやく整備された道に出た。

「ここでもう大丈夫かな。」

その一言で、張りつめていたものが一気にほどけた。深々と何度も頭を下げる。

「本当に、ありがとうございました。」

おじさんは、あっさりと、そのまま来た道を戻っていった。



生かされた。

一人になって、初めてそう思った。すぐそばに神社があった。その存在に、思わず息をのんだ。自然と手が合わさる。お参りにこんなにも意味があったことが、今までの人生にあっただろうか。

地下鉄の座席に腰を下ろす。座った瞬間、全身の力が抜けた。冷房の効いた車内。スーツ姿でスマホを見る人、買い物袋を抱えたおばちゃん、学生のきゃきゃとじゃれ合う声。さっきまで一人ぼっちだった山とは、まるで別の世界だった。

もうクタクタだ。ちゃんとしたものを食べたかった。思い浮かんだのが、気になっていた京都のお寿司屋さんだった。

木の引き戸を開けると、涼しく静かな空気が流れてきた。
磨かれた白木のカウンター。真っ白なおしぼり。

席に座っても、まだ心は落ち着かなかった。
そっと出された緑茶を飲む。
丁寧に淹れられた緑茶の香りに、心と体がゆっくりほどけていく。
季節の葉がそっと添えられた、小ぶりな京寿司。

一貫目を口へ運ぶ。

ああ、生きてる。




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