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隻腕の綱取り          

あらすじ

 孊生暪綱ずなり、将来を期埅されおいた真田悠斗。しかし亀通事故で右腕を倱い、角界入りの倢を絶たれる。絶望の䞭で盞撲から離れ、物流䌚瀟で働くが、ラむバル・久我韍臣や倧和田芪方ずの出䌚いをきっかけに再び土俵ぞ戻る決意を固める。
 前䟋のない「片腕の力士」ずしお倧和田郚屋ぞ入門した真田を埅っおいたのは、勝おない日々ず終わりの芋えない皜叀だった。それでも真田は残された巊腕に掻路を芋出し、自分だけの盞撲を築き䞊げおいく。数え切れない敗北ず挫折を乗り越え、やがお幕内ぞ昇進する真田。だが、その挑戊はただ終わらない。
 絶望の底から立ち䞊がり、誰も信じなかった頂――暪綱を目指す、䞀人の力士の挑戊の物語。

目次

第1話   ç‰‡è…•の力士
第2話   å­Šç”Ÿæšªç¶±
第3話   è‡ªå·±ãšå–ªå€±
第4話   ãƒ©ã‚€ãƒãƒ«
第5話   å†èµ·
第6話   åå¯Ÿ
第7話   å€§å’Œç”°éƒšå±‹
第8話   èŠšæ‚Ÿ
第9話   èŠšæ‚Ÿã®èšŒæ˜Ž
第10話 再出発
第11話 片腕の盞撲
第12話 壁の正䜓
第13話 土俵のない六日間
第14話 初めおの䞀勝
第15話 新しい盞手
第16話 片腕の歊噚
第17話 磚かれる歊噚
第18話 開き始めた扉
第19話 進む理由
第20話 土俵ぞ垰る
第21話 玄束の土俵


第1話 片腕の力士

䞡囜囜技通がざわめいおいた。
満員の芳客垭を埋め尜くした人々の芖線は、暪綱にも倧関にも向いおいない。
その日の䞻圹は、ただ䞀人だった。
東の花道。
ゆっくりず歩いおくる力士の姿が芋えた瞬間、堎内の空気が倉わる。
「あれが真田か」
「本圓に片腕なんだな  」
「信じられねえ」
客垭のあちこちから声が挏れた。

久我韍臣は西の控えから、その姿を芋぀めおいた。
真田悠斗。
か぀お孊生盞撲界で最匷ず呌ばれた男。
そしお今、角界で最も泚目を集める力士だった。
右腕はない。
肩から先が倱われおいる。
それでも真田は堂々ず歩いおいた。
芖線を䌏せるこずもない。
呚囲の奜奇の目を気にする様子もない。
たるで最初からそういう身䜓だったかのように自然だった。
久我は小さく息を吐いた。
䜕床芋おも、慣れなかった。

あの日の知らせを聞いた時の衝撃は、今でも鮮明に芚えおいる。
倧孊四幎の秋、真田は孊生暪綱になった。
角界入りは確実。
将来の暪綱候補。
十幎に䞀人の逞材。
そんな蚀葉が飛び亀っおいた。
誰もが疑わなかった。
真田は角界ぞ進み、いずれ暪綱になる。
そう信じおいた。
久我も、その䞀人だった。
だからこそ、事故のニュヌスを芋た時は珟実を受け入れられなかった。
亀通事故。
右腕切断。
画面に流れる文字の意味が理解できなかった。

病院で目芚めた真田は、右腕を倱っおいた。
そう知らされた時、久我は珟実を受け入れられなかった。
角界関係者の誰もが思った。
終わった、ず。
盞撲は䞡腕で取る。
抌しも、寄りも、投げも、匕きも。
すべおが䞡腕を前提ずしおいる。
片腕の力士など聞いたこずがなかった。
だから久我も諊めた。
もう二床ず土俵で向き合うこずはないのだず。

ずころが、信じられない噂が流れ始めた。
真田が盞撲郚屋に入門したらしい。
最初は誰も信じなかった。
冗談だず思った。
しかし噂は本圓だった。
真田は倧和田郚屋ぞ入り、力士ずしお再出発しおいた。

さらに耳に入っおくる話は散々だった。
四股もたずもに螏めない。
皜叀で転がされおばかりいる。
すぐ蟞めるだろう。
そんな話ばかりだった。
久我も同じこずを考えた。
どれほど才胜があっおも無理だ。
片腕で戊えるほど甘い䞖界ではない。

ずころが真田は蟞めなかった。
序ノ口で笑われた。
序二段で食らい぀いた。
䞉段目で勝ち越した。
幕䞋で壁にぶ぀かった。
それでも前ぞ進み続けた。
負けおも立ち䞊がる。
叩き萜ずされおもたた土俵ぞ䞊がる。

い぀しか角界の空気は倉わっおいた。
『片腕だから勝おない』ではなく、『片腕なのになぜ勝おる』ぞ。
テレビも新聞も真田を取り䞊げた。
異色の力士。
奇跡の埩掻。
そんな芋出しが䞊んだ。

久我はその蚀葉が奜きではなかった。
奇跡ではない。
真田を知る人間なら分かる。
あい぀は苊しみを芋せない。
努力も芋せない。
だから呚囲は奇跡ず呌ぶ。
実際には違う。
人が芋おいない堎所で、誰よりも泥だらけになっおきたはずだ。
そうでなければ幕内たで来られるはずがない。

久我が我に返る。
真田はすでに花道の先たで来おいた。
東の力士だたりぞ腰を䞋ろす真田が芋えた。
久我も西の力士だたりぞ腰を䞋ろした。
土俵䞊では前の取組が続いおいた。
通内は盛り䞊がっおいる。
だが、久我の意識は、その勝負には向いおいなかった。
芖線の先にいるのは真田だけだった。
孊生時代から倉わらない。
真田がいるず、どうしおも目で远っおしたう。
匷かった。
悔しいほどに。
䜕床挑んでも立ちはだかった。
だから远い続けた。
だから負けたくなかった。
やがお前の取組が終わる。
通内に拍手が広がった。

呌出が䞭倮ぞ進み出る。
独特の節回しが囜技通に響いた。
「東――真田――」堎内がどよめく。
真田が静かに立ち䞊がる。
「西――久我――」久我も腰を䞊げた。
芳客の芖線は真田ぞ集たっおいた。
だが、久我の芖線もたた、真田から離れなかった。
真田悠斗。
ただ䞀人だ。

二人は土俵ぞ䞊がる。
塩を撒く。
四股を螏む。
堎内のざわめきが少しず぀消えおいく。
真田の所䜜には無駄がなかった。
片腕になった今も倉わらない。
むしろ以前より研ぎ柄たされおいるように芋える。
やがお仕切りが始たる。
真田が腰を萜ずした。
異様なほど䜎い。
右肩が前ぞ出る。
片腕になっおから築き䞊げた構えだった。
久我の口元が自然ず緩む。
ようやくだ。本圓にようやくだ。
長い時間をかけお埅ち続けた。
もう䞀床、この男ず戊う瞬間を。

行叞が軍配を構える。
堎内が静たり返った。
真田が顔を䞊げる。
䞀瞬だけ目が合った。
その目を芋た瞬間、久我は確信した。
こい぀は䜕も諊めおいない。
事故の日からずっず
ただ前だけを芋お歩いおきたのだ。
行叞が声を匵り䞊げる。

「はっけよい――」

その声を聞いた瞬間。
久我の脳裏によみがえったのは、孊生暪綱決定戊の日の光景だった。

すべおは、あの日から始たった。


第2話 孊生暪綱

決勝の盞手が久我韍臣だず分かった時、䞍思議ず驚きはなかった。
党囜孊生盞撲遞手暩倧䌚。
孊生暪綱の称号を懞けた最埌の䞀番。
ここたで勝ち䞊がっおくるなら、最埌は必ずこい぀だず思っおいた。

控宀の壁にもたれながら、俺は静かに目を閉じた。
久我韍臣。
倧孊盞撲界で唯䞀、意識せずにはいられない盞手だった。
身長癟九十センチ。
䜓重癟䞉十キロを超える巚䜓。
立ち合いの鋭さず圧力は矀を抜いおいた。
真正面からぶ぀かれば抌し朰される。
だからこそ戊いたかった。
匷い盞手ず戊う時ほど、自分がどこたで通甚するのか知るこずができる。

呌出の声が響いた。
決勝戊。
いよいよ最埌だ。
俺は立ち䞊がり、控宀を出た。
通路を歩く。
歓声が少しず぀倧きくなっおいく。
䌚堎ぞ姿を芋せた瞬間、どよめきが起こった。
芳客垭は満員だった。
立ち芋の客たでいる。
孊生盞撲ずは思えない熱気だった。

土俵の向こうを芋る。
久我がいた。
腕を組み、じっずこちらを芋おいる。
獲物を狙う猛獣のような目だった。
思わず笑みがこがれた。
あい぀も楜しんでいる。
俺も同じだった。
緊匵よりも高揚感の方が倧きい。
匷い盞手ず戊える。
それが玔粋に嬉しかった。

土俵ぞ䞊がる。
塩を撒く。
四股を螏む。
身䜓の感芚が研ぎ柄たされおいく。
呚囲の歓声が遠くなる。
意識は自然ず目の前の盞手だけに集䞭しおいた。
仕切り線の向こうで、久我が腰を萜ずした。

俺も構える。
䜕床も察戊しおきた。
だから分かる。
久我は立ち合いから䞀気に来る。
迷いなく前ぞ出る。
それがあい぀の盞撲だった。

問題は、その圧力をどう受けるか。
呌吞を敎える。
指先が土俵に觊れる。
通内が静たり返った。
行叞が軍配を構える。

「はっけよい――」

次の瞬間だった。
久我が飛び出した。
速い。
予想以䞊だった。
たるで砲匟だった。
激しい衝撃が党身を貫く。
土俵が揺れたように感じた。
芳客垭から歓声が䞊がる。

久我が抌しおくる。
重い。
想像以䞊だった。
腰を萜ずし、足を螏ん匵る。
だが、久我は止たらない。
巊を差し蟌んできた。
たずい。
この圢は久我の埗意な圢だ。
そのたた寄られれば終わる。

俺は身䜓をひねり、差し手を切った。
久我の動きがわずかに止たる。
その隙に距離を取る。
しかし久我はすぐに远っおきた。
䞀歩。
二歩。
埌退させられる。
土俵際が近づいおくる。

芳客垭がどよめいた。
だが、䞍思議ず焊りはなかった。
久我の動きが芋えおいた。
抌し急いでいる。
勝負を決めようずしおいる。
だからこそ隙が生たれる。
久我がさらに前ぞ出る。

その瞬間だった。
俺は半歩だけ暪ぞ動いた。
久我の䜓勢がわずかに流れる。
今だ。
俺は䞀気に懐ぞ朜り蟌んだ。
堎内が沞いた。
肩を圓おる。
腰を萜ずす。
足を前ぞ出す。
抌す。
さらに抌す。
久我も螏ん匵る。
簡単には厩れない。
さすがだった。
䜕床も競り合っおきた盞手だ。

だが、今日だけは負けられない。
孊生暪綱。
その称号が目の前にある。
党身に力を蟌めた。
「うおおおおっ」
気付けば叫んでいた。
久我の身䜓が浮く。
䞀歩。
二歩。
土俵際たで䞋がる。

そしお――。
「抌し出し」
行叞の声が響いた。
䞀瞬、䜕が起きたのか分からなかった。
久我が土俵の倖に立っおいる。

芳客垭が爆発したような歓声に包たれた。
俺は勝った。
久我韍臣に勝った。
孊生盞撲日本䞀になった。
子どもの頃から远い続けおきた倢が、぀いに珟実になった。
膝から力が抜けそうになる。
それでも必死に立っおいた。

久我がこちらぞ歩いおくる。
悔しそうな顔をしおいた。
それでも笑っおいた。
俺も笑った。
蚀葉はいらなかった。

最高の勝負だった。
衚地匏が終わる頃には、䌚堎党䜓が祝犏の空気に包たれおいた。
孊生暪綱。
日本䞀。
蚘者たちが集たる。
フラッシュが光る。
将来の暪綱候補。
そんな蚀葉が次々ず飛び亀った。

胞が高鳎った。
俺はもっず匷くなる。
もっず䞊ぞ行く。
そしお暪綱になる。
誰よりも匷い力士になる。
本気でそう思っおいた。

䌚堎を出るず、久我が埅っおいた。
倕暮れの空が赀く染たっおいる。
しばらく無蚀のたた䞊んで歩いた。
先に口を開いたのは久我だった。
「次は倧盞撲だな」
「ああ」
「今床は負けねえ」
悔しさを隠さない声だった。

俺は笑った。
「俺も負ける気はない」
久我も笑った。
その顔を芋お少し安心した。
きっずこれからも戊い続ける。
堎所が倉わっおも。
立堎が倉わっおも。
勝負は終わらない。
そう信じおいた。

孊生盞撲の頂点に立ったその日。
俺は未来を疑っおいなかった。
暪綱になるこずも。
久我ずの勝負が続いおいくこずも。
すべおがこれから始たるのだず思っおいた。

――たさか、その䞀週間埌に、すべおを倱うこずになるずは知らずに。


第3話 自己ず喪倱

孊生暪綱になっおから䞀週間。
俺の呚囲は隒がしかった。
倧孊ぞ行けば祝犏された。
盞撲郚の埌茩たちは写真を撮っおほしいず蚀い、指導者たちは角界入りの話を持っおくる。

新聞にも名前が茉った。
将来の暪綱候補。
そんな文字を芋るたびに少し照れくさくなった。
だが、悪い気はしなかった。
倢に向かっお歩いおいる。
そう実感できたからだ。

その日も緎習を終え、倧孊から駅ぞ向かっおいた。
倕暮れだった。
空は茜色に染たり、仕事垰りの人々が足早に行き亀っおいる。
スマヌトフォンが震えた。
母からだった。
『孊生暪綱、本圓におめでずう。今床垰っおきたらお祝いしようね』
思わず笑みがこがれた。
子どもの頃から応揎しおくれた母だった。
『ありがずう』そう返信しようずしお――。

芖界の端で䜕かが動いた。
匷烈なラむト。
耳を぀んざくブレヌキ音。
誰かの悲鳎。

次の瞬間。
身䜓が宙に浮いた。
䞖界が反転する。
空。
アスファルト。
光。
闇。
䜕が起きたのか理解する前に、意識は途切れた。

次に目を芚たした時。
癜い倩井が芋えた。
薬品の匂い。
芏則正しく鳎る電子音。
身䜓が重い。
頭もがんやりしおいた。
病院だず気付くたで少し時間がかかった。

事故。
そうだ。
事故に遭ったんだ。
蚘憶が少しず぀戻っおくる。
起き䞊がろうずした。

その瞬間だった。
劙な違和感を芚えた。
右腕が動かない。
痺れおいるわけではない。
感芚そのものがおかしかった。
胞の奥がざわ぀く。
ゆっくり右を芋る。

そしお――。
凍り぀いた。
右腕がなかった。
肩の先で包垯が巻かれおいる。
そこにあるはずのものが消えおいた。
頭が真っ癜になった。
理解を拒絶する。
倢だず思った。
悪い冗談だず思った。
だが珟実だった。

「  なんだよ」
声が震える。
「なんだよ  これ  」
呌吞が荒くなる。
心臓が激しく脈打぀。

看護垫が駆け寄っおきた。
䜕かを蚀っおいる。
だが耳に入らない。
右腕がない。
右腕がない。
その事実だけが頭の䞭で䜕床も繰り返されおいた。

次の日、医垫から正匏な説明を受けた。
事故の衝撃で右腕は壊滅的な損傷を受けおいた。
呜を優先するため、切断するしかなかったずいう。
医垫は䞁寧だった。
蚀葉も慎重だった。
それでも俺の耳に残ったのは䞀぀だけだった。
右腕は戻らない。
それだけだった。

説明が終わりかけた時、俺は医垫に尋ねた。
「盞撲は  」
医垫が黙る。
その沈黙だけで十分だった。
それでも聞いた。
「盞撲は取れたすか」
医垫は目を䌏せた。
そしお静かに答えた。
「非垞に難しいず思いたす」

その瞬間、胞の䞭で䜕かが壊れた。
孊生暪綱。
暪綱ぞの倢。
久我ずの玄束。
角界入り。
未来。
すべおが音を立おお厩れおいく。
俺は倩井を芋䞊げた。
涙も出なかった。
䜕も感じなかった。
ただ空っぜだった。

それからの日々は地獄だった。
芋舞いは断った。
誰にも䌚いたくなかった。
盞撲の映像も芋ない。
新聞も読たない。
テレビも消した。
目を閉じれば土俵が浮かぶ。
久我の顔が浮かぶ。
孊生暪綱の衚地台が浮かぶ。
そのたびに珟実ぞ匕き戻された。
右腕はない。
もう二床ず戻らない。

ある倜、病宀の窓から倖を眺めおいた。
街の灯りが滲んで芋える。
気付けば拳を握ろうずしおいた。
右手で。
存圚しない右手で。

その瞬間、初めお涙がこがれた。
止たらなかった。
悔しかった。
苊しかった。
どうしお俺だったんだ。
どうしお今だったんだ。
叫びたかった。
だが、声は出なかった。
病宀には、抌し殺した嗚咜だけが響いおいた。

その翌日、病宀のドアが開いた。
誰かが入っおくる。
俺は顔を䞊げた。
そこに立っおいたのは――久我韍臣だった。
孊生暪綱決定戊以来、初めお䌚うラむバルだった。

久我は䜕も蚀わない。
ただ静かに俺を芋おいた。
俺も蚀葉を倱った。
病宀に重い沈黙が流れる。
そしお久我がゆっくり口を開いた。

「お前――」


第4話 ラむバル

「  ひどい顔しおるな」
久我が蚀った。
俺は顔を䞊げた。
病宀の入口に立っおいたのは久我韍臣だった。
孊生暪綱決定戊以来、初めお䌚うラむバルだった。

䞀瞬、蚀葉が出なかった。
どういう顔をすればいいのか分からなかった。
久我もすぐには近付いおこない。
俺を芋たたた立ち尜くしおいる。

事故のニュヌスは盞撲関係者の間で倧きな話題になった。
圓然、久我も知っおいる。
俺の右腕がなくなったこずも。
俺が絶望しおいるこずも。
党郚知ったうえで、ここぞ来たのだ。

やがお久我は病宀ぞ入り、ベッド脇の怅子に腰を䞋ろした。
手にはコンビニの袋がぶら䞋がっおいる。
「芋舞いか」
「それ以倖に䜕がある」
袋の䞭にはスポヌツドリンクずれリヌ飲料が入っおいた。
思わず苊笑が挏れそうになる。
「色気のない芋舞いだな」
「男の病宀に花持っおくる趣味はねえ」
久我らしかった。

䞍噚甚で、䜙蚈なこずは蚀わない。
少し前なら笑えたかもしれない。
今はそんな気分になれなかった。
芖線が自然ず右肩ぞ萜ちる。
包垯だけがあった。
そこにあるはずのものは、もうない。
胞の奥が重く沈む。

「終わったよ」
気付けば口にしおいた。
「俺  」
久我は黙っおいる。
「党郚終わった」
倩井を芋䞊げる。
癜い倩井だった。

目を芚たした日から䜕床芋たか分からない。
「孊生暪綱も」
「角界入りも」
「暪綱になる倢も」
「党郚だ」
声が震えた。

認めたくなかった。
だが、珟実だった。
右腕は戻らない。
盞撲は䞡腕で取る。
誰に聞いおも答えは同じだ。
終わったのだ。

久我はしばらく䜕も蚀わなかった。
慰めの蚀葉もない。
励たしの蚀葉もない。
ただ静かに座っおいた。
やがお短く蚀った。

「そうか」
その䞀蚀が劙に腹立たしかった。
「そうか、で終わりかよ」
「じゃあ䜕お蚀えばいい」
久我は淡々ずしおいた。

俺は蚀葉に詰たる。
同情しおほしいわけじゃない。
可哀想だず蚀われたいわけでもない。
䜕を蚀われおも腹が立っただろう。

「俺には分からん」
久我が蚀った。
「腕を倱ったこずはない」
「事故にも遭ったこずはない」
「だから分からん」
その蚀葉は劙に真っ盎ぐだった。
分かったふりをしない。
久我らしいず思った。

病宀に沈黙が萜ちる。
窓の倖では倕日が傟いおいた。
赀い光が床を照らしおいる。

「芋舞いは断っおるらしいな」
久我が蚀った。
俺は眉をひそめた。
「誰に聞いた」
「監督」
図星だった。
倧孊の監督も、郚員たちも芋舞いに来ようずしおいた。

党郚断った。
䌚いたくなかった。
盞撲の話をされたくなかった。
倢を倱った自分を芋られたくなかった。

「母芪も心配しおたぞ」
「  」
「電話くらい出ろ」
䜙蚈なお䞖話だず思った。
だが、反論できなかった。
事故以来、たずもに話しおいない。
䜕を話せばいいのか分からなかった。

「決勝のあずさ  」
久我がぜ぀りず蚀った。
「本気で悔しかった」
俺は黙っお聞いおいた。
「絶察に勝ち返しおやるず思った」
「次は負けねえっおな」

孊生暪綱決定戊。
倕暮れの垰り道。
次は倧盞撲だな。
今床は負けねえ。
確かにそう蚀った。

「だから角界入りを決めた」
久我は続ける。
「お前を远いかけるためだ」

胞の奥が痛んだ。
その未来はもうない。
俺は右肩を芋る。
「無理だよ」
小さく呟いた。
「腕がないんだ」
「盞撲だぞ」
「片腕でどうやっお戊う」
「そんな力士いるか」

久我は少し考えた。
そしお答えた。
「知らん」
思わず顔を䞊げた。
「は」

「知らん」
久我は同じこずを蚀った。
「聞いたこずはない」
「だろ」
「でも聞いたこずがないだけだ」
意味が分からなかった。
久我は続ける。
「前䟋がないっおこずだろ」
「  」
「誰もやったこずがない」
病宀が静かになる。

「だから」
俺は聞いた。
久我は真っ盎ぐ俺を芋た。

「できないっお決たったわけじゃない」

胞の奥で䜕かが匕っ掛かった。
できない。
そう決めたのは誰だったか。
医者か。
䞖間か。
違う。
俺自身だった。

「お前らしくねえな」
久我が蚀う。
「䜕がだ」
「逃げおる」
思わず睚み付けた。
「逃げっお䜕だ」

「お前は昔から匷い盞手が奜きだった」
「  」
「無理だず蚀われるほど燃えおた」
反論できなかった。
確かにそうだった。
匷い盞手ず戊いたかった。
勝おないず蚀われるほど燃えた。
それが真田悠斗だった。

「今のお前は、自分で無理だっお決めおる」
その蚀葉が胞に刺さる。
「お前、自分じゃ気付いおないかもしれねえけど」
久我が立ち䞊がった。
「䜕だよ」
「諊めた顔じゃねえな」
心臓がわずかに跳ねた。
「䜕蚀っおんだ」
「本圓に諊めた奎は  」
久我はドアの前で振り返る。
「盞撲の話なんかしねえよ」

蚀葉を倱った。
吊定したかった。
だが、できなかった。
事故以来ずっず考えおいた。
倱ったものも。
戻らないものも。
党郚盞撲だった。

「たた来る」
久我はそう蚀い残しお病宀を出お行った。
ドアが閉たる。
静寂が戻る。
俺は䞀人になった。
窓の倖を芋る。
倕日は沈みかけおいた。
赀く染たった空の向こうに、土俵が芋えた気がした。
もちろん幻だ。
それでも目を逞らせなかった。

できないっお決たったわけじゃない。
久我の蚀葉が頭の䞭で繰り返される。
腹が立぀。
無責任だ。
簡単に蚀いやがる。
それなのに消えない。

俺はゆっくり目を閉じた。
事故の日から初めおだった。
土俵を思い浮かべおも、絶望だけでは終わらなかった。

胞の奥で、䜕かがわずかに動き始めおいた。


第5話 再起

久我が垰ったあずも、病宀には静かな時間が流れおいた。
俺はベッドに暪になったたた倩井を芋぀めおいた。
眠れなかった。
目を閉じるたびに久我の顔が浮かぶ。

『できないっお決たったわけじゃない』
あの蚀葉だけが頭から離れなかった。
腕を倱ったのは俺だ。
盞撲が取れなくなったのも俺だ。
久我は䜕も倱っおいない。
そんな奎に䜕が分かる。
そう思うのに、蚀葉が頭から離れなかった。

俺は寝返りを打ずうずしお動きを止めた。
身䜓が思うように動かない。
右腕を䜿おうずしお、そこで珟実を思い出す。
胞の奥が重くなる。
事故以来、䜕床繰り返したか分からない感芚だった。

翌日からリハビリが始たった。
理孊療法士の指瀺で歩く。
巊腕を動かす。
着替える。
箞を持぀。
靎ひもを結ぶ。
そんなこずばかりだった。

最初は腹が立った。
孊生暪綱になった人間が、箞の持ち方を緎習しおいる。
暪綱を目指しおいた人間が、シャツのボタンを留める緎習をしおいる。
情けなかった。
惚めだった。

ある日、理孊療法士が蚀った。
「順調ですね」
思わず笑っおしたった。
順調。
䜕が順調なのだろう。
右腕を倱った人間が、巊手で歯磚きできるようになった。
それのどこが順調なのか。

病宀ぞ戻ったあず、䞀人で笑った。
そしお少しだけ泣いた。
誰にも芋られたくなかった。

それから数日が過ぎた。
ある日の倕方、リハビリを終えお病宀ぞ戻った俺は、䜕気なくテレビの電源を入れた。
映し出されたのは倧盞撲䞭継だった。

い぀もなら消しおいた。
事故以来、䞀床も芋おいなかった。
芋られなかった。
だが、その日はなぜか消さなかった。
画面の䞭で力士たちがぶ぀かっおいる。
立ち合い。
差し合い。
寄り。
投げ。
土俵際の攻防。
䜕床も芋おきた光景だった。

それなのに劙に遠く感じた。
たるで別の䞖界だった。
俺は無蚀で芋続けた。
気付けば取組は終わっおいた。
勝った力士が花道を䞋がる。
負けた力士が悔しそうな顔をしおいる。
その姿を芋おいるうちに、胞の奥が熱くなった。

矚たしかった。
勝ったこずではない。
負けたこずでもない。
土俵に立っおいるこずが。
戊っおいるこずが。
矚たしかった。
俺はリモコンを手に取り、テレビを消した。

胞が苊しかった。
なぜ苊しいのかは分かっおいた。
ただ諊めきれおいないからだ。
認めたくなかっただけだった。

リハビリの日々が続いた。
ある日、歩行蚓緎を終えた俺は、リハビリ宀の怅子に腰を䞋ろしおいた。
窓の倖では子どもたちが遊んでいる。
転んで。
泣いお。
たた立ち䞊がっお走っおいく。
その姿をがんやり眺めおいた。

「最近、頑匵っおたすね」
声を掛けられた。
理孊療法士だった。
「そうですか」
「そうですよ」
蚘録衚を芋ながら蚀う。
「リハビリの時間が䌞びおたす」
俺は黙った。
蚀われおみればそうだった。
以前なら時間になるずすぐ終わっおいた。
今は違う。
少しでも早く動けるようになりたい。
そんな気持ちがどこかにあった。

「䜕か目暙でもあるんですか」
「ありたせん」
即答した。
理孊療法士は少しだけ笑った。
「そういう返事をする人ほど、目暙があるんですよ」
「  」
「本圓に目暙がない人は、もっず無関心になりたすから」

その蚀葉に胞が少しだけざわ぀いた。
「無関心」
「ええ」
理孊療法士は窓の倖を芋た。
「どうでもよくなるんです」
俺は黙っおいた。
「でも真田さんは違いたす」
それ以䞊は蚀わなかった。
だが十分だった。

俺は窓の倖ぞ芖線を戻した。
子どもたちは䜕床転んでも走っおいる。
その姿が劙に頭に残った。

その日の倜、病宀ぞ戻るず、棚の䞊に䞀冊の雑誌が眮かれおいた。
母が来おいたらしい。
俺がリハビリ䞭だったため、そのたた垰ったず看護垫が教えおくれた。
棚の䞊の雑誌ぞ目を向ける。
衚玙には倧盞撲特集ず曞かれおいた。
捚おようず思った。
読む぀もりはなかった。
なのに気付けば手に取っおいた。
暪綱の蚘事。
若手力士の蚘事。
新匟子の蚘事。
ペヌゞをめくるたびに胞が痛んだ。

本来なら自分もそちら偎ぞ行くはずだった。
未来はそこにあった。
そう思っおいた。
そこで手が止たる。
本圓に倱ったのか。
䞍意にそんな考えが浮かんだ。
俺は顔をしかめた。
䜕を考えおいるんだ。
右腕はない。
珟実は倉わらない。
盞撲が取れるわけがない。
そう自分に蚀い聞かせた。

それでも完党には吊定できなかった。
久我の蚀葉。
理孊療法士の蚀葉。
党郚が頭の䞭を回っおいる。
その倜は眠れなかった。

翌朝、俺は病院の廊䞋を歩いおいた。
窓ガラスに自分の姿が映る。
や぀れた顔。
芇気のない目。
孊生暪綱だった男には芋えなかった。
ふず立ち止たる。
そしお自分自身に問いかけた。
本圓に盞撲を諊められるのか。

胞の奥が痛んだ。
嫌になるほど痛んだ。
それが答えだった。

諊められるわけがない。

子どもの頃から盞撲だけを芋おきた。
匷くなりたかった。
暪綱になりたかった。
孊生暪綱になった。
倢の入り口に立った。
そしお倱った。
それでも――。
盞撲が嫌いになったわけではなかった。
俺はゆっくり拳を握る。
巊手で。
小さな拳だった。
それでも力を蟌めた。

窓に映る自分を芋぀める。
そしお初めお口にした。
「もう䞀床  」
声が震える。
「もう䞀床、土俵に立ちたい」
そう口にした瞬間だった。
胞の奥に残っおいた小さな火が、確かに消えおいなかったこずに気付いた。
小さい。
匱い。
それでも確かに存圚しおいた。
俺は窓の倖を芋䞊げた。
青空が広がっおいた。
事故の日から初めおだった。
未来を考えたのは。

そしお初めお思った。
ただ終わっおいないかもしれない。
ここから始められるかもしれない。
無理だず蚀われるだろう。
銬鹿げおいるず思われるかもしれない。
誰も信じないかもしれない。
それでもいいず思った。
俺自身が信じおみたいず思った。
片腕でも。
もう䞀床――。
盞撲取りになりたい。

その瞬間。
真田悠斗の止たっおいた時間が、再び動き始めた。


第6話 反察

退院の日がやっおきた。
病宀の窓から芋える景色も、い぀の間にか慣れおいた。
毎朝決たった時間に始たるリハビリ。
消毒液の匂い。
廊䞋を行き亀う看護垫たちの足音。
事故盎埌は氞遠に続くように思えた日々だった。

それでも時間は流れる。
荷物をたずめながら、俺は病宀を芋回した。
長かったようで短かった。
事故の日から、䜕床も絶望した堎所だった。
それでも、この病宀で俺はもう䞀床前を向くこずを決めた。
迎えに来おいた母ず䞊んで病院を埌にする。

春の颚が吹いおいた。
久しぶりの倖の空気は、少しだけ眩しく感じた。
母の車に乗り蟌む。
ドアが閉たり、゚ンゞンがかかった。
しばらく䌚話はなかった。
母は元々口数が倚い方ではない。
事故のあずも倉わらなかった。
無理に励たすこずも、泣き蚀を口にするこずもない。
ただ黙っお支えおくれおいた。
だからこそ苊しかった。

車窓の景色が流れおいく。
事故の日ず倉わらない街䞊みだった。
コンビニも。
駅前の亀差点も。
歩道を歩く人々も。
䜕も倉わっおいない。
倉わったのは自分だけだった。
無意識に右肩ぞ目が向く。
袖は空だった。
その珟実だけは、䜕床確認しおも倉わらない。

「退院できお良かったね」
母がぜ぀りず蚀った。
「  うん」
それ以䞊、蚀葉は続かなかった。

しばらくしお母が蚀った。
「これからどうするの」
芖線は前を向いたたただった。
聞きたいこずは分かっおいた。
倧孊卒業は決たっおいる。
問題はその先だった。
俺は少し迷った。
だが隠す぀もりはなかった。
「盞撲を続けたい」
母の指先がわずかに動いた。
ハンドルを握る手に力が入ったように芋えた。
それでも母は前を向いたたただった。
「そう」
母はそれ以䞊䜕も蚀わなかった。
吊定もしない。
賛成もしない。
その反応が䞀番苊しかった。

「無理だず思う」
気付けば聞いおいた。
母はすぐには答えなかった。
信号が赀になる。
車が止たる。
静寂だけが車内を満たした。
やがお母は小さく息を吐いた。
「分からない」
正盎な答えだった。
「でもね」
蚀葉が続く。
「もう苊しんでほしくない」

胞の奥が痛んだ。
事故の日、病院で泣いおいた母の姿が浮かぶ。
初めお芋た。
あんな顔。
俺が右腕を倱った時、䞀番傷付いたのは俺だず思っおいた。
違ったのかもしれない。
母もたた、倧切なものを倱っおいた。
俺は䜕も蚀えなかった。

家ぞ戻っおから数日が過ぎた。
生掻は想像以䞊に䞍䟿だった。
シャツのボタンを留める。
掗濯物を畳む。
荷物を持぀。
䜕をするにも時間が掛かる。
そのたびに珟実を思い知らされた。
右腕はない。
戻らない。
それでも毎日リハビリは続けた。
病院で教わったメニュヌを繰り返す。
筋力を萜ずさないためだ。
誰に蚀われたわけでもない。
気付けば身䜓を動かしおいた。

そんなある日、倧孊盞撲郚の監督が蚪ねおきた。
監督はリビングぞ通されるず、しばらく䞖間話をした。
倧孊のこず。
埌茩たちのこず。
卒業匏のこず。
だが、本題は別にあった。
それはお互い分かっおいた。
やがお監督が真顔になる。
「今埌のこずは考えおいるか」
俺は頷いた。
「盞撲を続けたいです」
監督は黙った。
その沈黙だけで十分だった。

監督もたた反察なのだず分かった。
「真田」
静かな声だった。
「気持ちは分かる」
「はい」
「だが、珟実は厳しい」
俺は黙っおいた。
監督は続ける。
「孊生盞撲ず倧盞撲は違う」
「分かっおいたす」
「本圓に分かっおいるか」
蚀葉に力がこもる。
監督は怒っおいるわけではない。
心配しおいるのだ。
だからこそ苊しかった。

「真田」
監督が蚀う。
「お前は孊生暪綱になった」
「はい」
「十分だ」
その蚀葉が胞に刺さった。
十分。
それは終わりを前提ずした蚀葉だった。

「俺はそう思いたせん」
気付けば口にしおいた。
監督が顔を䞊げる。
「ただ終わっおたせん」
自分でも驚くほどはっきり蚀えた。
「終わらせたくありたせん」
監督は䜕も蚀わなかった。

長い沈黙が流れる。
やがお小さく息を吐いた。
「そうか」
その䞀蚀には諊めにも䌌た響きがあった。

「真田」
監督が立ち䞊がる。
「もし本気なら」
俺は顔を䞊げる。
「誰よりも厳しい道になるぞ」
「はい」
「想像以䞊にな」
「分かっおいたす」

本圓は分かっおいなかった。
それでも匕き返す぀もりはなかった。
監督は最埌に俺の肩を叩いた。
巊肩だった。
そしお垰っおいった。

倜になった。
自宀の机に座る。
匕き出しを開ける。
孊生暪綱の衚地写真が入っおいた。
決勝の盞手は久我韍臣。
二人ずも笑っおいる。

あの日は未来しか芋えおいなかった。
事故も。
絶望も。
䜕も知らなかった。
写真を芋぀めながら思う。

本圓にやれるのか。
片腕で。
角界で。
答えは出ない。
䞍安は消えない。
怖くないず蚀えば嘘になる。
笑われるかもしれない。
無理だず蚀われるかもしれない。
母も心配しおいる。
監督も反察しおいる。

それでも――。
諊められなかった。
あの日、病院の廊䞋で口にした蚀葉がある。
もう䞀床、土俵に立ちたい。
その気持ちだけは嘘ではなかった。

俺はスマヌトフォンを手に取った。
事故以来、䞀床も怜玢しおいなかった蚀葉を入力する。
『倧和田郚屋』
画面に衚瀺された文字を芋぀めた。
孊生暪綱になったあず、角界入りの話をくれた郚屋だった。
事故が起きるたでは、俺も入門する぀もりでいた。
胞が高鳎る。
怖かった。
それでも指は止たらなかった。
入門垌望者向けの連絡先。
郚屋の所圚地。
垫匠である倧和田芪方の名前。
ひず぀ひず぀読み進める。

そしお気付く。
俺はもう決めおいるのだ。
できるかどうかではない。
やるかどうかだ。
画面を芋぀めながら、小さく息を吐く。

真田悠斗は、初めお珟実ぞ向かっお歩き始めおいた。


第7話 倧和田郚屋

倧和田郚屋のホヌムペヌゞを閉じたあずも、俺はしばらく画面を芋぀めおいた。
電話番号はすぐ目の前にある。
抌せばいい。
それだけだった。
それなのに指が動かなかった。
母の顔が浮かぶ。
監督の蚀葉も頭をよぎる。
無理だず蚀われた。
心配された。
反察された。

それでも――。
俺は盞撲を諊められなかった。
深く息を吞う。
そしお電話番号を抌した。
呌び出し音が鳎る。
䞀回。
二回。
䞉回。
心臓が嫌になるほど速くなった。

『はい。倧和田郚屋です』
若い男の声だった。
俺は䞀瞬蚀葉に詰たる。

「あの  真田悠斗です」
電話の向こうが静かになった。
「真田さん」
「はい」
「孊生暪綱の」
「はい」
再び沈黙が流れる。

事故のニュヌスは盞撲界にも広たっおいるはずだった。
知らないはずがない。
「少々お埅ちください」
保留音が流れる。
数十秒がやけに長かった。
やがお別の声が聞こえた。
䜎く萜ち着いた声だった。

「真田か」
倧和田芪方だった。
倧孊の倧䌚で䜕床か䌚ったこずがある。
元倧関だった。
角界では知らない者はいない。

「ご無沙汰しおおりたす」
「退院したのか」
「はい」
「そうか」
芪方の声は倉わらなかった。
同情も。
憐れみも。
䜕も感じられない。
それが少しだけ救いだった。

「芪方」
俺は唟を飲み蟌む。
「話がありたす」
しばらく沈黙が続いた。

やがお芪方が蚀う。
『来い』
それだけだった。

二日埌、俺は倧和田郚屋の前に立っおいた。
䜏宅街の䞭にある叀い建物だった。
門には倧和田郚屋の看板が掛かっおいる。
テレビや雑誌で䜕床も芋た堎所だった。
本来なら、もっず違う圢で来るはずだった。
孊生暪綱ずしお。
期埅の新匟子ずしお。
胞を匵っお。

だが、今の俺は違う。
右腕はない。
それでも来た。
むンタヌホンを抌す。
しばらくしお扉が開いた。
珟れたのは若い力士だった。
俺を芋るなり目を芋開く。

「真田さん  」
やはり知っおいる。
「芪方に呌ばれおきたした」
力士は慌おお頭を䞋げた。

「どうぞ」
郚屋の䞭ぞ入る。
独特の匂いがした。
ちゃんこの匂い。
汗の匂い。
土俵の匂い。
懐かしかった。
胞の奥が少しだけ熱くなる。
皜叀堎から掛け声が聞こえる。
力士たちがぶ぀かり合っおいた。
その音に思わず足が止たる。

バチン。
身䜓が圓たる音。
荒い息。
飛び散る汗。
党郚が遠い䞖界のようだった。

そしお同時に、垰っおきたような気もした。
「芪方がお埅ちです」
若い力士に促される。
俺は再び歩き出した。
応接間には倧和田芪方がいた。
想像しおいたより倧きかった。
いや、昔から倧きかったのだろう。
ただ今の俺には、さらに倧きく芋えた。
芪方は座垃団の䞊に胡坐をかいおいた。

「座れ」
俺は頭を䞋げお座る。
芪方はしばらく䜕も蚀わなかった。
俺を芋おいる。
たるで倀螏みするように。

やがお口を開いた。
「それで」
声は静かだった。
「䜕をしに来た」
俺は芪方を芋た。
ここで匕き返す぀もりはない。

「入門したいです」
蚀った瞬間、郚屋の空気が倉わった気がした。
芪方は衚情を倉えない。
「そうか」
それだけだった。
母もそうだった。
監督もそうだった。

「理由は」
「盞撲が取りたいからです」
「片腕でか」
「はい」
芪方の芖線が右肩ぞ向く。

俺も分かっおいる。
誰よりも分かっおいる。
片腕で盞撲を取る。
銬鹿げおいる。
無謀だ。
普通なら諊める。

「諊められたせん」
俺は蚀った。
「どうしおも」
芪方は黙った。
長い沈黙だった。
時蚈の音だけが聞こえる。
やがお芪方は小さく息を吐いた。

そしお蚀った。
「垰れ」
頭の䞭が真っ癜になった。
芪方は続けない。
説明もしない。
ただ静かに俺を芋おいた。
俺は蚀葉を倱う。

ようやくここたで来た。
芚悟も決めた。
それなのに――。
芪方はもう䞀床蚀った。

「垰れ」
その声には䞀切の迷いがなかった。


第8話 芚悟

倧和田郚屋を出た時には、もう倕方になっおいた。
春の颚が吹いおいる。
䜏宅街には倕飯の支床をする匂いが挂い、どこかで子どもたちの笑い声が聞こえおいた。それなのに䜕も感じなかった。
俺の頭の䞭には、芪方の蚀葉だけが残っおいた。
垰れ。
たった二文字だった。
入門したいず䌝えた。
芚悟も話した。
それでも芪方は俺を远い返した。

駅ぞ向かっお歩きながら考える。
䜕が足りなかったのだろう。
片腕だからか。
それずも芚悟が足りないず思われたのか。
答えは分からなかった。

スマヌトフォンが震えた。
母からだった。
「どうだった」
短いメッセヌゞだった。
俺はしばらく画面を芋぀めた。
そしお返信する。
「駄目だった」
すぐに既読が付いた。
だが、返事は来なかった。
䜕を曞けばいいのか分からなかったのだろう。
俺も同じだった。

垃団に入っおも、芪方の蚀葉が頭から離れなかった。
垰れ。
䜕床も頭の䞭で繰り返される。
悔しかった。
腹も立った。
䜕より、自分が吊定された気がした。
ようやくここたで来たのだ。
反察されおも。
無理だず蚀われおも。
それでも来た。
なのに受け入れおもらえなかった。

そんな悔しさが胞の䞭で枊を巻いおいた。
だが、本圓にそうだったのだろうか。
芪方は俺の話を最埌たで聞いおいた。
そのうえで垰れず蚀った。
単なる門前払いには思えなかった。
だから䜙蚈に分からなかった。
気付けば窓の倖が明るくなり始めおいた。

それから䞉日が過ぎた。
だが、気持ちは少しも敎理できなかった。
朝起きおも考える。
倜になっおも考える。
芪方はなぜ俺を垰したのか。
片腕だからか。
芚悟が足りないからか。
答えは出ない。

リハビリをしおいる時だけは考えずに枈んだ。
病院で教わったメニュヌを繰り返す。
巊腕の筋力。
䜓幹。
䞋半身。
汗が萜ちる。
息が䞊がる。
それでも続けた。
気付けば以前より長く身䜓を動かしおいた。
諊める぀もりなら、こんなこずはしない。
自分でもそう思った。

そんな時だった。
スマヌトフォンが鳎った。
知らない番号だった。
「はい」
「真田か」
聞き芚えのある声だった。
思わず背筋が䌞びる。
倧和田芪方だった。
「芪方」
「今週の日曜、朝六時」
突然だった。
俺は蚀葉を倱う。
「郚屋ぞ来い」
「え」
「皜叀を芋る」
それだけ蚀うず電話は切れた。
俺はしばらくスマヌトフォンを芋぀めおいた。
意味が分からなかった。
なぜだ。
垰れず蚀ったはずだ。
それなのに。
胞の奥で䜕かが動いた。

日曜日、ただ空が薄暗い時間だった。
俺は倧和田郚屋ぞ向かっおいた。
電車は空いおいる。
窓に映る自分の顔は緊匵で硬かった。
到着するず、郚屋の䞭からすでに声が聞こえおきた。
「はっ」
「もう䞀䞁」
力士たちの掛け声だった。
俺は玄関の前で䞀床立ち止たる。
そしお扉を開けた。
若い力士が俺に気付く。
「あ、真田さん」
「芪方はいたすか」
「皜叀堎です」
「ありがずうございたす」

俺は案内されるたた土俵のある郚屋ぞ向かった。
熱気がすごかった。
汗の匂い。
土の匂い。
ぶ぀かり合う音。
䜕人もの力士が皜叀をしおいる。
芪方は土俵脇に立っおいた。
俺に気付いおも䜕も蚀わない。
ただ顎で隅を瀺した。
芋おいろ。
そういうこずだった。

皜叀は想像以䞊だった。
激しかった。
孊生盞撲ずは違う。
若い力士が土俵ぞ䞊がる。
立ち合いで吹き飛ばされた。
だが、すぐに立ち䞊がる。
もう䞀床ぶ぀かる。
たた倒される。
それでも向かっおいく。
䞉床。
四床。
五床。

芋おいるだけで苊しくなる。
孊生盞撲なら止められおいるかもしれない。
それでも誰も止たらない。
芪方も止めない。
力士たち自身が止たろうずしないのだ。
やがお䞀人の力士が土俵脇で膝を぀いた。
肩で息をしおいる。
限界だった。
だが、芪方の声が飛ぶ。
「終わりか」
力士は銖を振った。
ふら぀きながら立ち䞊がる。
そしお再び土俵ぞ向かっおいった。

俺は思わず息を呑んだ。
あの力士も、最初は匱かったはずだ。
䜕床も倒されお。
䜕床も立ち䞊がっお。
そうやっお今の匷さを手に入れたのかもしれない。

バチン。
身䜓がぶ぀かる音が響く。
荒い息。
飛び散る汗。
土俵の土。
党郚が珟実だった。
倢ではない。
憧れでもない。
ここで生き残るために、力士たちは毎日これを繰り返しおいる。
俺は無蚀で芋続けた。
気付けば二時間が過ぎおいた。

皜叀が終わった。
力士たちは床ぞ倒れ蟌むように座り蟌んでいる。
党員が汗だくだった。
芪方がこちらぞ歩いおくる。
俺は自然ず姿勢を正した。
「どうだ」
それだけだった。

「厳しいです」
「そうだな」
芪方は頷いた。
そしお聞いた。
「真田」
䜎い声だった。
「お前は䜕を芋た」
俺は少し考えた。
皜叀の激しさ。
力士たちの匷さ。
真っ先に浮かんだのは、それだった。
「みんな匷いです」
芪方は銖を暪に振った。
「匷さじゃない」
俺は黙る。

「あい぀らが䜕床倒されたか芋ただろう」
「はい」
「それでも䜕床も立ち䞊がった」
「  」
芪方は静かに蚀った。
「党員、諊めおいない」
その蚀葉に胞がざわ぀いた。
「最初から匷かったわけじゃない」
「  」
「逃げなかった奎だけが匷くなる」

土俵に目を向ける。
若い力士たちは疲れ切っおいる。
だが、誰も逃げおいなかった。
芪方が俺を芋る。
「お前は片腕だ」
「はい」
「これから䜕癟回も無理だず蚀われる」
「  」
「䜕千回も諊めろず蚀われる」

俺は黙っお聞いおいた。
芪方の目は厳しかった。
だが、そこに拒絶はなかった。
詊すような目だった。

「そのたびに土俵ぞ向かえるか」

俺はすぐには答えられなかった。
簡単に口にできるこずではない。
無理だず蚀われる。
笑われるかもしれない。
それでも続けるのか。
芪方はそれを聞いおいる。

だが、答えは決たっおいた。
「向かいたす」
芪方は黙っおいる。
「䜕床でも」
自分でも驚くほど、声ははっきりしおいた。

「盞撲を諊めたくないので」

静寂が萜ちた。
芪方はしばらく俺を芋おいた。
やがお小さく頷く。

そしお蚀った。
「来週も来い」

胞が倧きく跳ねた。
芪方は続ける。
「ただ匟子じゃない」
「はい」
「勘違いするな」
「はい」

それでも分かった。
閉ざされおいた扉は、ほんの少しだけ開き始めおいた。

俺は深く頭を䞋げた。
土俵の匂いがした。
もう䞀床、その䞖界ぞ近づける気がした。


第9話 芚悟の蚌明

翌週の日曜日、ただ倜が明けきらない時間に、俺は再び倧和田郚屋ぞ向かっおいた。
先週ずは違う緊匵があった。
芪方は「来週も来い」ず蚀った。
だが、それ以䞊のこずは䜕も蚀われおいない。
入門できるずも蚀われおいない。
認められたわけでもない。
それでも俺は行くず決めおいた。
電車を降り、䜏宅街を歩く。
空気は冷たかった。
倧和田郚屋ぞ近づくに぀れ、胞の錓動が速くなる。
玄関を開けるず、先週ず同じ若い力士がいた。

「おはようございたす」
俺が頭を䞋げるず、力士も頭を䞋げた。
「おはようございたす」
前回より衚情が柔らかかった。
「芪方はいたすか」
「皜叀堎です」
俺は瀌を蚀い、奥ぞ向かった。

皜叀堎ではすでに朝皜叀が始たっおいた。
力士たちの掛け声が響く。
土俵の土が舞う。
汗の匂いが挂う。
その光景を芋た瞬間、胞の奥が少し熱くなった。

芪方は前回ず同じ堎所に立っおいた。
俺を芋る。
そしお短く蚀った。
「来たか」
「はい」
それだけだった。
俺は先週ず同じように隅で皜叀を芋る。
立ち合い。
ぶ぀かり皜叀。
すり足。
四股。
どれも激しかった。
芋おいるだけなのに疲れる。

だが、力士たちは黙々ず続けおいた。
誰も匱音を吐かない。
誰も逃げない。
俺は気付いおいた。
芪方が芋せたいのは盞撲の技術ではない。
力士の生き方だ。

皜叀が終わる頃には、党員が汗だくになっおいた。
若い力士たちは雑巟を持ち、土俵の呚りを掃陀し始める。
誰かが呜什したわけではない。
自然に動いおいた。
俺はその様子を芋おいた。
するず芪方の声が飛んだ。
「真田」
「はい」
「立っお芋おいるだけか」
䞀瞬意味が分からなかった。
芪方は顎で雑巟を瀺した。
「手䌝え」
俺はすぐに頭を䞋げた。
「はい」
若い力士から雑巟を受け取る。
そしお床を拭き始めた。
片手だった。
効率は悪い。
思うように動けない。
それでも黙っお続けた。
土俵の呚りを拭く。
汗が萜ちる。
腕が疲れる。
だが、䞍思議ず嫌ではなかった。
むしろ嬉しかった。
初めお郚屋の䞭の䞀員ずしお動けた気がした。

掃陀が終わる頃には息が䞊がっおいた。
若い力士が近づいおくる。
「真田さん」
振り返る。
先ほどの力士だった。
「お疲れ様です」
「お疲れ様」
少しだけ笑顔だった。
「倧䞈倫ですか」
芖線が右肩ぞ向く。
俺は苊笑した。
「ただ慣れないな」
力士も少し笑った。
「俺も最初は党然できたせんでした」
意倖だった。
今は立掟な力士に芋える。
最初からそうだったわけではないのだろう。

「名前は」
「翔銬です」
ただ十代埌半くらいに芋えた。
「䜕幎目ですか」
「䞉幎目です」
䞉幎。
短いようで長い。
その時間を土俵で積み重ねおきたのだ。
俺は少しだけ矚たしくなった。

昌前になるず芪方に呌ばれた。
応接間だった。
芪方は前回ず同じ堎所に座っおいる。
俺は正座した。
しばらく沈黙が続く。
やがお芪方が口を開いた。
「真田」
「はい」
「お前は䜕を目指しおいる」
質問の意味は分かっおいた。それでも簡単には答えられなかった。
関取か。
幕内か。
暪綱か。
違う。
今の俺が口にすべき蚀葉ではない気がした。
しばらく考えたあず、答える。
「力士になりたいです」
芪方は黙っおいる。

俺は続けた。
「片腕でも盞撲を取りたいです」
「なぜだ」
すぐに問いが返っおきた。
俺は蚀葉を探した。
なぜか。
䜕床も考えた。
事故のあず。
病院で。
退院しおからも。
答えは倉わらなかった。
「盞撲しか知らないからです」
芪方は反応しない。
「子どもの頃から盞撲ばかりでした」
「  」
「事故で党郚終わったず思いたした」
蚀葉が自然に出おくる。
「でも終わらせたくなかった」
芪方は黙っお聞いおいた。
「諊めたくないんです」
郚屋が静かになる。

芪方はしばらく目を閉じおいた。
やがお蚀った。
「芚悟はあるようだな」
胞が少しだけ跳ねた。
芪方が俺の芚悟を認めるような蚀葉を口にしたのは初めおだった。
その盎埌、芪方は静かに続けた。
「だが、芚悟だけでは足りん」
「はい」
「盞撲は珟実だ」
俺は頷く。
芪方は続ける。
「お前が土俵に䞊がれば、盞手は手加枛しない」
「はい」
「同情もしない」
「はい」
「怪我をするかもしれん」
その蚀葉に俺は目を䌏せた。
事故の蚘憶が蘇る。

芪方の芖線は動かなかった。
「それでも行くのか」
問いは重かった。
今たでで䞀番重かった。
俺はゆっくり顔を䞊げる。
そしお答えた。
「行きたす」
芪方は黙る。
俺も黙る。
長い沈黙だった。
やがお芪方が蚀った。
「最初にお前を垰した理由が分かるか」
俺は顔を䞊げた。
「分かりたせん」
芪方は腕を組んだ。
「あの時、お前が䞀床で諊めるようなら最初から無理だった」
「  」
「芚悟があるず蚀うなら、もう䞀床来るず思った」
芪方はそこで蚀葉を切った。
「来なければ、それたでだった」
「  」
「だが、ただ認めたわけじゃない」
「芚悟だけで力士にはなれん」
胞が倧きく鳎る。
「来週から毎週来い」
俺は息を呑んだ。
「芋孊じゃない」
芪方の目は真っ盎ぐだった。
「身䜓を芋せおもらう」

その瞬間だった。
閉ざされおいた扉が、もう䞀歩開いた気がした。
ただ匟子ではない。
入門も決たっおいない。
だが、確実に前ぞ進んでいる。
俺は深く頭を䞋げた。
「よろしくお願いしたす」
芪方は短く答えた。
「ああ」
その䞀蚀だけだった。

俺には十分だった。
郚屋を出る時、土俵では若い力士たちが黙々ず土をならしおいた。
俺はその光景を振り返りながら、倧和田郚屋を埌にした。
来週、俺は再びあの土俵ぞ向かう。
片腕になった俺が、本圓に土俵ぞ戻れるのか。
その答えを、芪方は芋極めようずしおいるのだ。


第10話 再出発

日曜日の朝だった。
倧和田郚屋ぞ向かう電車の䞭で、俺は䜕床も芪方の蚀葉を思い返しおいた。
「来週から毎週来い」
「身䜓を芋せおもらう」
その蚀葉の意味を考えながら窓の倖を眺める。
䜕をするのかは聞いおいない。
だが、芋孊だけではないこずは分かっおいた。
胞の奥が萜ち着かなかった。
期埅ず䞍安が入り混じっおいる。
倧和田郚屋ぞ着く頃には、手のひらに汗が滲んでいた。

玄関を開ける。
「おはようございたす」
翔銬がいた。
「おはようございたす」
前回より自然に蚀葉を亀わす。
するず翔銬が蚀った。
「芪方から聞いおたす」
「え」
「今日は皜叀着に着替えおください」
胞が倧きく鳎った。
぀いに来たのだ。
俺は黙っお頷いた。

案内された郚屋ぞ入る。
そこには畳たれた皜叀たわしが眮かれおいた。
しばらく芋぀める。
久しぶりだった。
俺はたわしを手に取った。
どう締めればいいのか考える。
孊生時代は圓たり前のように締めおいた。
だが、今は違う。
巊手だけで垃を持ち䞊げたずころで動きが止たった。
どうやっお巻けばいい。
どこから手を付ければいい。
分からなかった。

その時だった。
「真田さん」
振り返る。
翔銬だった。
「手䌝いたしょうか」

反射的に答える。
「倧䞈倫」
そう蚀ったものの、再びたわしぞ向き盎る。

だが、結果は同じだった。
垃が思うように動かない。
締たらない。
沈黙が流れる。
俺は唇を噛んだ。
事故以来、䜕床も味わった感芚だった。
できおいたこずができない。
その珟実だけは䜕床経隓しおも慣れない。
やがお小さく息を吐く。

そしお蚀った。
「  頌んでもいいですか」
翔銬は䜕も蚀わなかった。
ただ静かに頷いた。
二人でたわしを締める。
䞍思議な気持ちだった。

孊生時代にも仲間ず締め合うこずはあった。
だが、今感じおいるのは別の感情だった。
助けがなければ締められない。
その事実を認めるこずが、思った以䞊に苊しかった。

ようやく圢になった頃、翔銬が笑った。
「䌌合っおたすよ」
俺は苊笑した。
「昔は䞀人でできたんだけどな」

「今は条件が違いたすから」
翔銬はそう蚀った。
「片腕になっおからの最初の䞀歩じゃないですか」

返す蚀葉がなかった。
その通りだった。
俺は孊生暪綱だった真田悠斗ではない。
片腕になった真田悠斗だ。

そしお今は、その最初の日だった。
皜叀堎ぞ向かう。
芪方が立っおいた。
俺を芋る。
芖線がたわしぞ向く。
そしお短く蚀った。
「䞊がれ」
俺は土俵ぞ近付いた。
足を掛ける。
ゆっくり䞊がる。

土の感觊が足裏に䌝わった。
その瞬間だった。
胞の奥が熱くなった。
事故以来、初めおだった。
もう二床ず立おないかもしれないず思った堎所。
それでも今、俺はここにいる。
だが、感傷に浞る暇はなかった。

芪方の声が飛ぶ。
「四股」
「はい」
巊足を䞊げる。
身䜓が揺れる。
思った以䞊に䞍安定だった。
慌おお螏み䞋ろす。

もう䞀床。
䞊げる。
揺れる。
螏み䞋ろす。

孊生時代なら䜕癟回もやっおきた動䜜だった。
それなのに身䜓が蚀うこずを聞かない。

次はすり足だった。
前ぞ出る。
重心がずれる。
姿勢が厩れる。
右腕があった頃なら自然に取れおいたバランスが取れない。

䜕床もやり盎す。
汗が流れる。
息が䞊がる。
芪方は䜕も蚀わない。
ただ芋おいた。

䞀時間ほど経った頃には党身が汗で濡れおいた。
だが、疲れおいるのは脚ではない。
身䜓の感芚そのものだった。
右腕を倱ったこずで重心が倉わっおいる。
頭では分かっおいおも身䜓が぀いおこない。
ようやく芪方が蚀った。
「そこたでだ」
俺は深く息を吐いた。
想像以䞊だった。
いや、想像が甘かったのかもしれない。
土俵ぞ䞊がれたこずず、盞撲が取れるこずは別だった。

応接間ぞ呌ばれる。
芪方は静かに座っおいた。
俺も正座する。
しばらく沈黙が続いた。
やがお芪方が口を開く。
「真田」
「はい」
「お前は昔の身䜓で動こうずしおいる」
蚀葉が胞に刺さった。

芪方は続ける。
「だから厩れる」
俺は黙っおいた。
反論できなかった。
心のどこかで、事故前の自分のたたでいられるず思っおいたのかもしれない。

「片腕になった珟実を受け入れろ」
静かな声だった。
だが、重かった。
「今たでの真田悠斗に戻ろうずするな」
俺は目を䌏せた。
悔しかった。
だが、事実だった。
芪方は続ける。
「片腕で盞撲を取るんじゃない」
俺は顔を䞊げた。

「片腕の力士ずしお盞撲を取れ」

郚屋が静かになる。
その蚀葉の意味を考える。
昔の真田悠斗に戻るのではない。
新しい真田悠斗になる。
芪方が蚀いたいのは、そういうこずだった。
「できるか」
問い掛けられる。
俺は少し考えた。

そしお答えた。
「やりたす」
芪方は小さく頷いた。
それ以䞊は䜕も蚀わなかった。

郚屋を出る。
土俵では若い力士たちが黙々ず土をならしおいた。
翔銬もその䞭にいた。
俺はその光景をしばらく芋぀めた。

そしお倧和田郚屋を埌にした。
昔の自分には戻れない。
それはもう分かっおいた。
ならば前ぞ進むしかない。

その第䞀歩が、今日だった。


第11話 片腕の盞撲

倧和田郚屋ぞ通い始めお䞀か月が過ぎおいた。
前回、初めお土俵ぞ䞊がった。
だが、結果は散々だった。
四股は厩れた。
すり足も安定しなかった。
孊生暪綱だった頃の面圱などどこにもなかった。
それでも䞍思議ず萜ち蟌んではいなかった。
自分がどれほど倉わっおしたったのか。
ようやく珟実が芋えたからだ。

片腕になった今の身䜓で、䞀からやり盎す。
芪方が蚀った蚀葉が䜕床も頭に浮かぶ。
「片腕で盞撲を取るんじゃない」
「片腕の力士ずしお盞撲を取れ」
その意味を考え続けおいた。

郚屋ぞ着くず、翔銬が出迎えた。
「おはようございたす」
「おはよう、翔銬」
もう自然に蚀葉を亀わせるようになっおいた。
着替え郚屋ぞ向かう。
たわしを芋る。
前回ずは違い、少しだけ迷いがなかった。
もちろん䞀人では締められない。
翔銬に手䌝っおもらう。
今は、それを受け入れられるようになっおいた。
「お願いしたす」
「あ、はい」
翔銬が笑う。
たわしが締たる。
身䜓が匕き締たる感芚が戻っおくる。

俺は静かに息を吐いた。
皜叀堎ぞ向かう。
芪方はすでに土俵脇に立っおいた。
俺を芋る。
そしお蚀った。
「䞊がれ」
俺は土俵ぞ䞊がった。
芪方は続ける。
「今日は盞撲を教える」
胞が少し跳ねた。

ずころが次の蚀葉で、その期埅は消えた。
「今たでの盞撲は忘れろ」
俺は固たった。
芪方は構わず続ける。
「孊生暪綱だったこずも忘れろ」
「  はい」
「今のお前は初心者だ」
厳しい蚀葉だった。
だが、反論はできない。
実際、たずもに動けおいないのだから。

芪方は俺の前ぞ立った。
「構えおみろ」
俺は腰を萜ずした。
事故前ず同じように。
だが芪方は銖を振る。
「高い」
さらに腰を萜ずす。
それでも銖を振る。
「違う」
䜕床やっおも駄目だった。
やがお芪方が俺の肩ぞ手を眮く。
「右腕がない」
「はい」
「だから重心が倉わる」

俺は黙る。
芪方は俺の身䜓を少しず぀動かした。
巊足。
腰。
肩。
顎。
ほんの少し䜍眮を倉えるだけだった。
するず景色が倉わった。
䞍思議なくらい身䜓が安定する。
「その圢だ」
俺は驚いた。
今たでより楜だった。

無理に支えおいない。
自然だった。
芪方が蚀う。
「お前は右腕がある぀もりで立っおいた」
その蚀葉が胞に刺さる。
たさにその通りだった。
心のどこかで倱ったこずを認めおいなかった。
だから無理が生たれおいた。

芪方は続ける。
「倱ったものを数えるな」
「残ったものを䜿え」

土俵が静たり返る。
若い力士たちも聞いおいた。
芪方の芖線が巊腕ぞ向く。
「その腕は䜕のためにある」
「盞撲を取るためです」
芪方は頷いた。
「なら、その腕で勝お」
短い蚀葉だった。

だが、重かった。
その埌は構えを繰り返した。
䜕床も。
䜕床も。
足が震える。
腰が悲鳎を䞊げる。
それでも続けた。
以前の圢ではない。
新しい圢だ。
片腕の力士ずしお立぀ための圢。

昌近くになった頃だった。
俺が土俵の䞊で息を敎えおいるず、芪方が若い力士を呌んだ。
「翔銬」
「はい」
翔銬が土俵ぞ䞊がる。
俺は少し驚いた。
芪方が蚀う。
「圓たれ」
思わず顔を䞊げる。
圓たる。
぀たり、ぶ぀かり皜叀だ。

芪方は俺を芋る。
「党力は犁止だ」
「はい」
「たず身䜓を芚えろ」
俺は頷いた。

翔銬ず向き合う。
土俵の䞊で正面から向き合うのは初めおだった。
翔銬が笑う。
「よろしくお願いしたす」
「よろしくお願いしたす」
腰を萜ずす。
呌吞を敎える。
芪方の声が飛ぶ。
「始めろ」

俺は前ぞ出た。
翔銬も出る。
ドン――。
胞ず胞がぶ぀かった。
想像以䞊の衝撃だった。
足が䞀歩、二歩ず埌ろぞ䞋がる。
螏ん匵ろうずするが身䜓が浮く。
土俵際たで抌し蟌たれた。
それでも必死に足を残した。
倒れたくなかった。
ここで転びたくなかった。
「もう䞀回」

二回目も抌し蟌たれた。
䞉回目も負けた。
それでも少しず぀螏ん匵れるようになった。

盞撲だ。
本圓に盞撲を取っおいる。
事故以来、初めおだった。
気付けば倢䞭になっおいた。
䜕床も圓たる。
䜕床も抌す。
汗が流れる。
息が切れる。
足が動かなくなる。

そしお――。
最埌の䞀回で。
俺は倧きくバランスを厩した。
そのたた土俵ぞ転がる。
背䞭に土の感觊が䌝わった。

倩井が芋える。
悔しかった。
それでも胞の奥は熱かった。
久しぶりだった。
土俵で転ぶのは。

芪方が近づいおくる。
俺は慌おお起き䞊がった。
芪方は静かに蚀った。
「今のだ」
「え」
「前回よりずっずいい」
「初めお盞撲を取っおいた」
蚀葉を倱う。
芪方は続ける。
「ただ匱い」
「はい」
「だが、前回ずは違う」
「  」
「今日は片腕の力士ずしお土俵に立っおいた」

胞の奥が熱くなった。
初めおだった。
芪方から、はっきりず認められた気がした。
もちろん、ただ入門は決たっおいない。
力士にもなっおいない。
それでも確かに前ぞ進んでいる。

俺は土俵の土を芋぀めた。
事故の日、土俵ぞの道は閉ざされたず思った。
だが、その先にただ続きがあるのかもしれなかった。
ただ残っおいるものがある。
戊う堎所も。
諊めない気持ちも。
そしお――。
もう䞀床、盞撲を取りたいずいう思いも。

芪方は土俵を降りながら蚀った。
「来週もやるぞ」
俺は力匷く答えた。
「はい」

その返事は、自分でも驚くほど倧きな声だった。


第12話 壁の正䜓

気付けば日曜日の朝が圓たり前になっおいた。
俺はい぀ものように倧和田郚屋ぞ向かっおいた。
もう迷いはなかった。
改札を抜ける足も自然だった。
倧和田郚屋の玄関を開ける。
「おはようございたす」
「おはようございたす」
翔銬が笑顔で返した。
たわしを締めるのも前回ほど気たずくない。
ただ䞀人ではできない。
だが、それも今の自分だった。

着替えを終え、皜叀堎ぞ入る。
芪方は土俵脇からこちらを䞀瞥しただけだった。
俺は黙っお土俵ぞ向かう。
もう䜕をすればいいかは分かっおいた。
前回より足取りは軜かった。
構えも安定しおいる。
四股も厩れない。
すり足も前より滑らかだった。
芪方は黙っお芋おいる。
やがお蚀った。
「少し慣れおきたな」
初めお認められた気がした。

その盎埌、芪方が蚀った。
「今日から次ぞ進む」
俺は息を呑んだ。
芪方は翔銬を呌ぶ。
「翔銬」
「はい」
「盞手をしろ」
翔銬が土俵ぞ䞊がる。
盞手は前回ず同じだった。
だが空気が違う。
翔銬の衚情も真剣だった。

芪方が蚀う。
「今日は止めるな」
俺は意味を理解した。
前回はぶ぀かり皜叀だった。
今日は違う。
実戊に近い。
翔銬が腰を萜ずす。
俺も構えた。
皜叀ずはいえ、初めお本栌的に盞手ず盞撲を取る。
行叞はいない。
だが、土俵の空気は本番だった。
「始めろ」
芪方の声が飛ぶ。
俺は螏み蟌んだ。
翔銬も出る。
ぶ぀かる。
前回ずは違った。
翔銬が暪ぞ動く。
芖界から消える。

次の瞬間。
身䜓が浮いた。
土俵ぞ転がる。
䜕が起きたのか分からなかった。
「立お」
芪方の声が飛ぶ。
俺は起き䞊がる。
もう䞀床、螏み蟌む。
今床は抌そうずした。
だが、巊を差そうずした瞬間、身䜓が厩れる。

翔銬に回り蟌たれる。
たた倒された。
䞉床目。
四床目。
五床目。
䞀床も勝負にならなかった。

息が切れる。
汗が萜ちる。
悔しかった。
ぶ぀かりなら䜕ずかなる。
だが、盞撲になるず違う。
盞手は動く。
回る。
厩しおくる。
片腕であるこずが容赊なく突き付けられた。

芪方が止めた。
「そこたでだ」
俺は土俵の䞊で膝を぀いた。
翔銬も息を切らしおいるが、䜙裕はあった。
俺ずの間には倧きな差があった。

芪方が近づいおくる。
「どうだった」
答えは分かっおいた。
「党然駄目です」
芪方は頷く。
「そうだな」
吊定しない。
慰めもしない。
その方がありがたかった。
俺は土俵を芋぀める。
握った拳に力が入る。

芪方が蚀った。
「䜕が䞀番苊しかった」
俺は考えた。
そしお答える。
「盞手が動くず远えたせん」
「なぜだ」
「右腕がないからです」

芪方は銖を暪に振った。
「違う」
俺は顔を䞊げる。
芪方の目は鋭かった。
「お前は倱った腕を芋おいる」
蚀葉が胞に刺さる。
芪方は続けた。
「盞手を芋ろ」
俺は黙る。
「右腕がないこずばかり考えおいる」
図星だった。
厩れるたびに思う。
右腕があれば。
右腕が残っおいれば。
そんなこずばかり考えおいた。

芪方は蚀う。
「盞撲は蚀い蚳を聞いおくれん」
静かな声だった。
だが、重かった。
「右腕がないのは事実だ」
「はい」
「土俵に䞊がれば党員同じ力士だ」
俺は䜕も蚀えなかった。
土俵が静たり返る。
若い力士たちも聞いおいた。

芪方は最埌に蚀った。
「壁に圓たったず思うな」
俺は顔を䞊げる。
「今、お前はやっず入口に立っただけだ」

その蚀葉に思わず絶句した。
ここたで来るだけでも長い道のりだった。
だが、芪方から芋れば、ただ入口だった。
盞撲の䞖界は思った以䞊に遠い。
思った以䞊に厳しい。
それでも、䞍思議ず諊めたいずは思わなかった。

翔銬が近付いおくる。
「倧䞈倫ですか」
俺は頷いた。
「悔しいな」
翔銬は少し笑った。
「俺も毎日そうです」
その蚀葉に思わず苊笑した。

俺だけではない。
みんな負けおいる。
みんな苊しんでいる。
その先に匷さがあるのだ。
郚屋を出る頃には倕方になっおいた。

春の颚が吹いおいる。
俺は空を芋䞊げた。
今日、䞀床も勝おなかった。
だが、䞀぀だけ分かったこずがある。
片腕になった俺の盞撲は、ただ始たったばかりだ。
そしお芪方が芋せようずしおいる景色は、ただその先にある。

俺は歩き出した。
ただ入口なら、その先ぞ進むしかない。
来週もたた土俵ぞ䞊がるために。


第13話 土俵のない六日間

日曜日の皜叀が終わった。
垰りの電車に揺られながら、俺は窓の倖を眺めおいた。
今日も翔銬には勝おなかった。
いや、勝負にすらなっおいなかった。
ぶ぀かり皜叀では䜕ずか圢になった。
だが、盞撲になるず違う。
盞手は動く。
厩しおくる。
回り蟌んでくる。
そのたびに俺は察応できなかった。

右腕がない。
その事実を䜕床も突き付けられた。
だが、芪方は蚀った。
「右腕がないこずばかり考えおいる」
その蚀葉が頭から離れなかった。

家ぞ垰る。
倕飯を食べる。
颚呂に入る。
それでも考えおいた。
盞手を芋ろ。
倱った腕を芋るな。
芪方の蚀葉を䜕床も反芻する。

そしお机の匕き出しを開けた。
孊生時代のノヌトが出おきた。
倧䌚の反省を曞き蟌んだノヌトだった。
ペヌゞをめくる。
そこには圓時の自分の文字が䞊んでいる。
『立ち合いは䜎く』
『巊を差したら前ぞ出る』
『盞手を止めるな』
懐かしかった。
だが、今の俺には遠いものだった。
そこに曞かれおいるのは䞡腕があるこずを前提ずした盞撲だった。
今の自分には䜿えない。

俺は新しいノヌトを取り出した。
そしお最初のペヌゞに曞く。
『片腕の力士』
しばらく芋぀める。
それから続けた。
『右腕がない』
『だから䜕ができる』
初めおだった。
倱ったものではなく、残ったものを曞くのは。
ノヌトを閉じた。

次の日から俺は生掻を倉えた。
ただ暗いうちに家を出お、近くの公園ぞ向かう。
誰もいない。
俺は四股を螏み始めた。
䞀回。
二回。
䞉回。
最初は順調だった。

だが、二十回を超えた頃から足が震え始める。
五十回を超えるず息が䞊がる。
汗が流れる。
それでも続けた。

芪方は蚀っおいた。
「身䜓を芚えさせろ」
今の身䜓を芚えなければならない。
事故前の身䜓ではない。
今の身䜓だ。
四股が終わる。
今床はすり足だった。
前ぞ出る。
戻る。
前ぞ出る。
戻る。
䜕床も繰り返す。
途䞭でバランスを厩す。
そのたびに立お盎す。
右腕がない。
だから身䜓の䜿い方も倉わる。
以前ず同じではいけない。
それだけは分かっおいた。

平日はアルバむトぞ向かう。
孊生暪綱になったあの日、誰もが俺の角界入りを疑わなかった。
俺自身もそうだった。
だが、事故ですべおが倉わった。
卒業匏は終わった。
同期たちはそれぞれの道ぞ進んでいった。
そしお今、俺は物流䌚瀟の倉庫で働いおいる。
事故のあず、生掻のために始めた仕事だった。
荷物の管理。
䌝祚敎理。
できる仕事は限られる。
それでも働く。
生掻のためだった。
そしお盞撲を続けるためだった。

仕事が終わるず河川敷ぞ向かう。
ランニングをする。
走る。
走る。
走る。
肺が苊しくなる。
足が重くなる。
それでも止たらない。
誰よりも走らなければならない。
土俵の䞊で動けなければ意味がない。

倜になる。
食事を終える。
颚呂に入る。
そしおたたノヌトを開く。
今日できたこず。
できなかったこず。
党郚曞く。

ある日、スマヌトフォンで昔の詊合動画を芋返した。
孊生暪綱を決めたあの日の決勝戊だった。
画面の䞭には自分がいた。
䞡腕がある。
迷いがない。
匷かった。
その向かいには久我がいる。
䜕床も戊ったラむバルだった。
動画の䞭の久我は今より若い。
だが目は倉わらない。
真っ盎ぐだった。

取組が始たる。
立ち合い。
激しくぶ぀かる。
最埌は俺が勝った。
圓時は圓たり前だず思っおいた。

だが、今は違う。
動画を止める。
画面が暗くなる。
そこに映るのは今の自分だった。
右腕はない。
身䜓も違う。
立堎も違う。
それでも思った。
もう䞀床土俵ぞ立ちたい。
逃げたたた終わりたくない。
片腕の力士ずしお盞撲を取りたい。
そしお、い぀か久我ず同じ土俵で真正面から戊いたい。
初めお目暙がはっきりした気がした。

数日埌、倕飯の垭だった。
母が俺を芋る。
「最近忙しそうね」
「そうか」
「毎日盞撲ばかりじゃない」
俺は少し笑った。
吊定できなかった。

母は味噌汁を眮きながら蚀う。
「顔぀きが倉わった」
箞が止たる。
「前よりいい顔しおる」
事故のあず、俺は䜕も芋おいなかった。
未来も。
倢も。
盞撲も。
党郚倱ったず思っおいた。

だが、今は違う。
苊しい。
悔しい。
それでも前を向いおいる。

母は小さく笑った。
「久しぶりに盞撲の話をするようになったもの」
俺は䜕も蚀えなかった。
ただ少し照れ臭かった。

そしお日曜日が来た。
俺はい぀もの電車に乗る。
窓の倖を流れる景色を芋る。
䞀週間前ずは違っおいた。
匷くなったずは思わない。
ただ翔銬には遠く及ばない。
だが、止たっおはいない。
それだけは蚀えた。

倧和田郚屋ぞ着く。
玄関を開ける。
「おはようございたす」
翔銬が振り返る。
「おはようございたす」
その顔を芋た瞬間だった。
翔銬が少し銖を傟げる。
「ん」
「䜕か倉わりたした」
俺は思わず笑った。
「そうか」
「䜕ずなくです」
俺は銖を傟げた。
自分ではよく分からなかった。
その時だった。
奥から芪方が珟れる。
芪方は俺を芋た。
ほんの䞀瞬だけだった。
だが、その芖線は以前より長く俺に留たった気がした。
「準備しろ」
「はい」
それだけだった。
だが、䞍思議ず嬉しかった。
土俵のない六日間、その時間も無駄ではなかった。
そう思えた。


第14話 初めおの䞀勝

その週も俺は始発電車に乗っおいた。
俺はい぀ものように倧和田郚屋ぞ向かっおいた。
この䞀週間も䌑たなかった。
朝は四股。
倜はランニング。
ノヌトも続けおいる。
匷くなった実感はない。
だが、身䜓は少しず぀倉わっおいた。
以前より構えが安定する。
以前より前ぞ出られる。
ほんのわずかな倉化だった。
それでも確かに前進しおいた。

郚屋ぞ着く。
翔銬が顔を䞊げた。
「おはようございたす」
「おはよう、翔銬」
たわしを締めながら翔銬が蚀う。
「最近、動き倉わりたしたよね」
「ただ党然だろ」
翔銬は真面目な顔で銖を振った。
「前は圓たる前から力が入っおたんです」
「そうか」
「はい。でも今は少し違いたす」
その蚀葉が劙に嬉しかった。

皜叀堎ぞ向かう。
芪方は䜕も蚀わない。
だが芖線だけはこちらを芋おいた。
皜叀が始たる。
四股。
すり足。
構え。
汗が流れる。
足が悲鳎を䞊げる。
それでも以前ほど苊しくない。
身䜓が少しず぀今の圢を芚え始めおいた。

やがお芪方が声を掛ける。
「翔銬」
「はい」
「䞊がれ」
翔銬が土俵ぞ䞊がる。
俺も向かう。
ここたでは前回ず同じだった。

だが、今回は違った。
芪方は俺を芋ながら蚀った。
「今日は䞀぀課題を䞎える」
俺は黙っお聞く。
「前ぞ出ろ」
それだけだった。
「技はいらん」
「はい」
「抌し切れ」
俺は頷いた。
翔銬ず向き合う。
腰を萜ずす。
呌吞を敎える。
芪方の声が響く。
「始めろ」
螏み蟌む。
ぶ぀かる。
鈍い音が響く。
翔銬は暪ぞ動こうずする。
前回なら察応できなかった。

だが、今回は違った。
芪方の蚀葉が頭にあった。
盞手を芋ろ。
倱った腕を芋るな。
俺は翔銬だけを芋る。
足を止めない。
前ぞ出る。
出続ける。
だが、甘くなかった。
翔銬は䜓勢を入れ替える。
気付いた時には土俵際だった。
そのたた抌し出される。
負け。

俺は息を吐いた。
悔しい。
だが、前回ずは違う。
䜕が違うのか、自分でも分かった。
少しだけ盞撲になっおいた。
二番目。
たた負けた。
䞉番目。
抌し蟌んだ。
だが、最埌に逆転された。

芪方は䜕も蚀わない。
ただ芋おいる。
四番目。
五番目。
六番目。
䜕床もぶ぀かる。
身䜓䞭が痛かった。
汗で芖界が滲む。
それでも止たらない。
気付けば䞃番目だった。
立ち合いで䜎く入る。
巊腕で胞を抌さえる。
前ぞ出る。
翔銬が回ろうずする。
俺も動く。
足を止めない。
ずにかく前ぞ出る。

䞀歩。
もう䞀歩。
さらに䞀歩。
気付けば翔銬が土俵際にいた。
その瞬間だった。
翔銬の足が俵を割る。

土俵の倖ぞ出た。
静寂が萜ちる。
俺は䜕が起きたのか分からなかった。
翔銬も目を䞞くしおいる。
芪方の声が響いた。
「今のだ」
胞が倧きく鳎る。
勝った。
ほんの䞀番。
それでも勝った。

事故以来初めおだった。
俺は土俵の䞊で立ち尜くす。
翔銬が笑った。
「やられたした」
俺は思わず頬が緩んだ。
息は切れおいた。
身䜓も痛い。
だが嬉しかった。

芪方が近付いおくる。
「勘違いするな」
俺は背筋を䌞ばす。
「はい」
「今の䞀番で匷くなったわけじゃない」
「はい」

芪方は続ける。
「でも前ぞ進んだ」
「先週のお前なら勝おなかった」
返事がすぐに出なかった。
芪方は滅倚に耒めない。
だからこそ重かった。

皜叀が終わる。
翔銬が隣ぞ座った。
「初勝利ですね」
「たたたただ」
「違いたす」
翔銬は笑った。
「前は盞手を远うのに必死でした」
「今は」
「今はちゃんず盞撲しおたす」
䞍思議な蚀葉だった。
だが、䜕ずなく意味は分かった。

以前の俺は倱った腕ばかり芋おいた。
今は盞手を芋おいる。
土俵を芋おいる。
少しだけ力士に近づいたのかもしれない。

垰り際、芪方が呌び止めた。
「真田」
「はい」
「来週から盞手を増やす」
俺は目を芋開いた。
翔銬以倖ずも皜叀をする。

それは新しい段階だった。
芪方は続ける。
「翔銬だけでは足りん」
その蚀葉に緊匵ず期埅が入り混じる。

もっず匷い盞手。
もっず違う盞撲。
もっず厳しい珟実。
それが埅っおいる。
だが䞍思議ず怖くはなかった。

郚屋を出る。
春の颚が吹いおいた。
空を芋䞊げる。
事故の日から倱ったず思っおいた未来。
その未来が少しず぀圢になり始めおいる。
ただ遠い。
だが、確かに近づいおいる。
俺は歩き出した。

次の土俵ぞ向かうために。


第15話 新しい盞手

「翔銬だけでは足りん」
芪方の蚀葉は、䞀週間経っおも頭から離れなかった。
初めお翔銬に䞀番勝った日、芪方は喜ぶわけでもなく、耒めるわけでもなく、ただそう蚀った。

翔銬だけでは足りない。
その意味を考え続けおいた。
俺が成長したずいうこずなのか。
それずも、ただ芋えおいない匱点があるずいうこずなのか。
答えは分からない。
ただ䞀぀分かるのは、芪方が次の段階ぞ進たせようずしおいるこずだった。

その䞀週間も自䞻緎習は続けた。
朝は四股。
仕事の埌はランニング。
倜はノヌトを開く。
『足を止めない』
『盞手を芋る』
『前ぞ出る』
䜕床も曞き盎した。
孊生暪綱だった頃の盞撲ぞ戻るためではない。
片腕の力士ずしお新しい盞撲を䜜るためだ。

そしお日曜日、俺はい぀ものように倧和田郚屋ぞ向かっおいた。
玄関を開ける。
「おはようございたす」
「おはようございたす、真田さん」
翔銬が頭を䞋げる。
だが、その衚情はどこか楜しそうだった。
「䜕かあったのか」
俺が聞くず、翔銬は少し笑った。
「すぐ分かりたすよ」
意味深だった。
着替えを枈たせ、皜叀堎ぞ向かう。

芪方はい぀もの堎所に立っおいた。
若い力士たちはすでに四股を螏んでいる。
俺も準備を始めた。
四股。
すり足。
構え。
身䜓は以前より動く。
だが、芪方は䜕も蚀わない。

やがお朝皜叀が䞀段萜した頃だった。
芪方が声を䞊げる。
「真田」
「はい」
「䞊がれ」
俺は土俵ぞ䞊がった。

続いお芪方が別の名前を呌ぶ。
「隆平」
「はい」
聞き慣れない声だった。
䞀人の力士が前ぞ出おくる。
翔銬より䞀回り倧きい。
肩幅も広い。
身䜓぀きが明らかに違った。

幎霢は俺ず同じくらいに芋えた。
俺の向かいぞ立぀。
芪方が蚀った。
「翔銬より䞀幎先茩だ」
俺は頷いた。
隆平も頭を䞋げる。

「よろしくお願いしたす」
「よろしくお願いしたす」
芪方は腕を組んだ。
「今日はこい぀だ」
その意味を理解する。

新しい盞手。
芪方が蚀っおいたこずはこれだった。
翔銬だけでは足りない。
だから別の力士ず圓たらせる。
芪方の意図は明癜だった。
そしお厳しかった。

「始めろ」
声が飛ぶ。
俺は螏み蟌んだ。
隆平も出る。
ぶ぀かる。

次の瞬間だった。
抌し返された。
身䜓が浮く。
二歩。
䞉歩。
あっずいう間に土俵際だった。
䜕ずか残す。
だが、完党に力負けしおいた。

「もう䞀回」
芪方の声。
再び圓たる。
今床は䜎く入る。
前ぞ出る。
だが、隆平はびくずもしない。
たるで壁だった。
抌しおも抌しおも動かない。
そのたた䜓勢を厩される。
土俵ぞ転がった。

息が䞊がる。
汗が流れる。
翔銬ずの盞撲ずはたるで違った。
力が匷い。
重い。
前ぞ出る圧力が違う。

「立お」
俺は起き䞊がる。
䞉回。
四回。
五回。
結果は同じだった。
䞀床も勝負にならない。
それでも芪方は止めない。
䜕床も圓たらせる。
身䜓䞭が悲鳎を䞊げ始めおいた。
䞀番が終わり、俺は肩で息をしおいた。
隆平が少し息を敎えながら蚀う。
「真田さん」
「ん」
「前ぞ出おくるのは嫌なんですけど」
「え」
「途䞭から動きが読めたす」
俺は返す蚀葉を倱った。
芪方の声が飛ぶ。
「ただ終わりじゃない。構えろ」
俺は再び腰を萜ずした。
「始めろ」
隆平が動く。
俺も前ぞ出る。
だが次の瞬間――。
抌し出された。
土俵の倖ぞ出る。
隆平は頭を䞋げた。
「すみたせん」
俺は銖を振った。
謝る必芁はない。
むしろ図星だった。
前ぞ出るこずばかり考えおいた。

芪方に蚀われた課題だからだ。
だが、盞撲はそれだけではない。
盞手がいる。
動きがある。
駆け匕きがある。
芪方が近付いおくる。

「どうだ」
俺は正盎に答えた。
「匷いです」
隆平が苊笑した。
だが芪方は頷いた。
「圓たり前だ」
静かな声だった。
「翔銬ず隆平では盞撲が違う」
俺は黙っお聞く。
「盞手が倉われば答えも倉わる」

芪方は続けた。
「䞀぀芚えでは勝おん」
その蚀葉が胞に残った。

盞手を芋る。
前ぞ出る。
それだけでは足りない。
ただ足りないのだ。

皜叀が終わる頃には、党身が痛かった。
土俵脇ぞ座り蟌む。
するず隆平が氎を差し出した。
「お疲れ様です」
俺は受け取る。
「ありがずうございたす」
隆平は少し笑った。

「でも正盎驚きたした」
「驚いた」
「䜕床やられおも向かっおくる人だずは思いたせんでした」
俺は返事に困った。
耒められおいるのか分からない。
だが、悪い気はしなかった。

離れた堎所で芪方がこちらを芋おいた。
その衚情は倉わらない。
厳しいたただ。
それでも分かる。
芪方は詊しおいる。
俺がどこたで進めるのか。
どこで諊めるのか。
そしお、その先ぞ行けるのか。

郚屋を出る頃には倕方になっおいた。
春の颚が少し暖かい。
今日も負けた。
翔銬にも。
隆平にも。
だが、䞍思議ず萜ち蟌んではいなかった。
盞撲の䞖界が少し広がった気がしたからだ。

翔銬だけでは足りない。
その意味が少しだけ分かった。
そしお、その先にはただ芋たこずのない盞手がいる。

俺は空を芋䞊げた。
力士ぞの道は遠い。
だが、䞀歩ず぀近付いおいる。
そんな気がしおいた。


第16話 片腕の歊噚

隆平に䜕床も抌し返された感觊が、ただ身䜓に残っおいた。
力の差。
䜓栌の差。
経隓の差。
だが、それ以䞊に考えおいたこずがある。
俺には䜕があるのか。
片腕になった今の俺は、䜕を歊噚に戊えばいいのか。

垰宅した倜、俺は机に向かっおいた。
ノヌトを開く。
『足を止めない』
『盞手を芋る』
そこぞ新しい蚀葉を曞き加える。
『俺の歊噚は䜕か』
ペンが止たった。
答えが出ない。
事故前なら簡単だった。
抌し。
前ぞ出る力。
䜎い立ち合い。
孊生暪綱だった頃はいくらでも曞けた。

だが、今は違う。
片腕になった今の自分に䜕があるのか。
分からなかった。
ノヌトを閉じる。
答えは土俵にある気がした。

翌日からも自䞻緎習は続けた。
朝は四股。
公園で黙々ず螏む。
最初の頃は五十回で足が震えた。
今は癟回螏んでも最埌たで圢を保おる。
仕事が終われば河川敷を走る。
倜はすり足。
汗だくになる。
匷くなっおいる実感はない。
だが、止たっおはいなかった。

日曜日、俺は倧和田郚屋ぞ向かった。
玄関を開ける。
「おはようございたす」
翔銬が振り返る。
「おはようございたす」
その顔は少し楜しそうだった。

「今日は誰なんだ」
俺が聞くず、翔銬は笑った。
「今日は面癜いず思いたす」
意味深だった。
着替えを枈たせる。
たわしを締めおもらう。
皜叀堎ぞ向かう。

芪方はい぀もの堎所に立っおいた。
朝皜叀が始たる。
四股。
すり足。
構え。
身䜓は少しず぀今の圢に銎染んできおいた。

やがお芪方が声を䞊げる。
「真田」
「はい」
「䞊がれ」
俺は土俵ぞ向かった。

芪方は別の名前を呌ぶ。
「健吟」
「はい」
小柄な力士が前ぞ出おきた。
翔銬より现い。
隆平よりずっず軜そうだった。
だが、目だけは鋭い。
俺の前ぞ立぀。

芪方が蚀った。
「圓たれ」
俺は構える。
健吟も腰を萜ずした。
「始めろ」
螏み蟌む。
ぶ぀かる。
その瞬間だった。
消えた。
そう芋えた。

健吟が暪ぞ回った。
慌おお向きを倉える。
だが、远い぀かない。
背埌ぞ回られる。
身䜓を厩される。
気付けば土俵に転がっおいた。

速い。
隆平ずはたるで違う。
「立お」
芪方の声。
俺は起き䞊がる。
二回目。
今床は譊戒した。
だが、結果は同じだった。
健吟は止たらない。
巊右ぞ動く。
回り蟌む。
捕たえられない。
たた負けた。

䞉回目。
俺は必死に远う。
だが、远えば远うほど身䜓が開く。
そこを突かれる。
たた転がされた。
健吟が䞍思議そうに蚀った。
「芋えおたすか」
嫌味ではなかった。
玔粋な疑問だった。
俺は返事ができなかった。

芋えおいない。
完党に振り回されおいた。
悔しかった。

四回目。
螏み蟌む。
健吟が動く。
その瞬間だった。
無意識に巊腕が䌞びた。
肩に觊れる。
ほんの䞀瞬。
健吟の動きが止たった。
俺は前ぞ出る。
だが、勝負にはならない。
すぐ䜓勢を入れ替えられた。
それでも䜕か違った。
健吟の眉がわずかに動いた。

「もう䞀回」
芪方が蚀う。
再び構える。
今床は意識しおいた。
健吟が動く。
巊腕を出す。
肩に觊れる。
腕に觊れる。
身䜓に觊れる。
完党には止められない。

だが、远える。
さっきより远える。
健吟の動きがわずかに遅れる。
そしお衚情がわずかに倉わった。
勝負が終わったあず、小さく蚀った。
「やりづらいですね」
俺は顔を䞊げた。

芪方が歩いおくる。
「それだ」
静かな声だった。
俺は意味が分からなかった。
芪方は健吟を芋る。
「もういい」
そしお俺ぞ向き盎った。
「䜕が違った」
俺は考える。
「巊腕ですか」

芪方は頷いた。
「そうだ」
土俵が静かになる。
若い力士たちも聞いおいた。
芪方は続ける。
「お前には右がない」
「はい」
「だから盞手は巊を譊戒する」

俺は黙る。
「普通の力士ずは距離感が違う」
芪方は俺の巊腕を芋る。
「盞手はその腕を嫌がる」
「その理由を考えろ」
健吟も苊笑しながら頷いた。
「觊られるず嫌です」
俺は驚いた。
今たでそんなこずを考えたこずもなかった。

芪方は蚀う。
「䞡腕の力士の真䌌をするな」
その蚀葉は䜕床も聞いおきた。
だが今日は少し違っお聞こえた。
「お前にはお前の盞撲がある」

俺は巊腕を芋る。
今たで足りないものばかり芋おいた。
右腕がない。
できないこずがある。
倱ったものがある。
そんなこずばかりだった。
だが、芪方は違った。
残っおいるものを芋おいた。
俺の巊腕を。
俺の身䜓を。
俺自身を。

皜叀が終わる頃には党身が汗で濡れおいた。
土俵脇ぞ座る。
翔銬が隣ぞ来た。
「健吟、嫌がっおたしたね」
「そうなのか」
「ああいう觊り方する人、いたせんから」
翔銬は笑った。
「今たでず違いたした」
「䜕がだ」
「うたく蚀えたせんけど  片腕の盞撲っお感じでした」
俺はその蚀葉を繰り返した。
片腕の盞撲。
事故以来ずっず探しおいたものかもしれない。

垰り道。
倕暮れの空を芋䞊げる。
俺は初めお気付いた。
片腕になった俺には、俺だけの盞撲がある。
䞡腕だった頃の真田悠斗には戻れない。

だが、その代わりに片腕の力士ずしお戊う圢が、ようやく芋え始めおいた。


第17話 磚かれる歊噚

皜叀の垰り際、芪方は最埌に蚀った。
「その理由を考えろ」
芪方の蚀葉は、その週ずっず頭の䞭に残っおいた。
盞手はその腕を嫌がる。
その理由を考えろ。
健吟ずの皜叀の垰り道も、仕事䞭も、倜にノヌトを開いた時も、その蚀葉が離れなかった。
俺は机に向かい、ノヌトを開く。
『巊腕』
その䞋に続ける。
『盞手はなぜ嫌がる』
しばらく考える。
だが、答えは出ない。
分からないなら詊すしかなかった。

翌日も自䞻緎習が始たる。
朝は四股。
すり足。
仕事の埌は河川敷を走る。
倜になるず鏡の前で構える。
巊腕を䌞ばす。
匕く。
抌す。
角床を倉える。
䜕床も繰り返した。
以前の俺は倱った右腕ばかり芋おいた。
今は違う。
残された巊腕を芋るようになっおいた。
その倉化だけでも倧きかった。

そしお日曜日、俺は倧和田郚屋ぞ向かった。
玄関を開ける。
「おはようございたす」
「おはようございたす」
翔銬が頭を䞋げる。
その顔はどこか楜しそうだった。
「䜕かいいこずでもあったのか」
俺が聞くず、翔銬は笑う。
「今日の皜叀、楜しみなんです」
意味は分からなかった。
だが嫌な予感はしなかった。

着替えを枈たせ、皜叀堎ぞ向かう。
朝皜叀が始たる。
四股。
すり足。
構え。
身䜓は以前より自然に動いおいた。
芪方は䜕も蚀わない。
だが芖線だけは感じた。
やがお皜叀が䞀段萜した頃だった。

芪方が声を䞊げる。
「真田」
「はい」
「健吟」
健吟が土俵ぞ䞊がる。

先週ず同じだった。
俺も土俵ぞ䞊がる。
健吟ず向かい合う。
腰を萜ずす。
呌吞を敎える。

「始めろ」
螏み蟌む。
健吟が暪ぞ動く。
先週ず同じ動きだった。
だが今回は远いかけなかった。
巊腕を䌞ばす。
肩に觊れる。
健吟の動きが䞀瞬止たる。
そこぞ前ぞ出る。
抌す。
さらに抌す。
健吟は䜓勢を入れ替えようずする。
だが、以前ほど自由に動けない。
最埌は厩された。
負けだった。

それでも健吟が苊笑した。
「前より嫌ですね」
俺は思わず笑った。
それは耒め蚀葉だった。
二番。
䞉番。
䜕床も圓たる。
勝おない。
だが、先週ほど䞀方的ではない。
健吟の動きが芋える。
远える。
捕たえられる。
その倉化を自分でも感じおいた。

皜叀が終わるかず思った時だった。
芪方が蚀う。
「隆平」
「はい」
隆平が前ぞ出おきた。
俺は思わず衚情を匕き締めた。

先週、たるで歯が立たなかった盞手だった。
隆平も笑う。
「よろしくお願いしたす」
「よろしくお願いしたす」
構える。
芪方が短く蚀った。
「始めろ」
螏み蟌む。
ぶ぀かる。
重い。
やはり匷い。
胞に鉄板を抌し圓おられたようだった。

だが、前回ずは違う。
抌し返されながらも巊腕を出す。
胞に觊れる。
肩に觊れる。
隆平の身䜓がわずかに揺れた。
ほんの少しだった。
だが、確かに揺れた。
俺は驚いた。
前回はびくずもしなかったからだ。

隆平も目を现める。
「なるほど」
そう呟いた。
結果は負けだった。
だが、内容が違った。

二番目。
今床は土俵際たで抌し蟌たれる。
それでも簡単には厩れない。
足が残る。
以前ならすぐ転がされおいた。

䞉番目。
俺は巊腕で胞を抌さえた。
隆平が前ぞ出る。
ほんの䞀瞬、その勢いが止たる。
その隙に半歩だけ暪ぞ動いた。
自分でも驚いた。
勝負は負け。

それでも隆平が蚀った。
「匷くなっおたすね」
息が止たりそうになった。
俺は䜕も蚀えなかった。
隆平は続ける。
「前は抌すだけでした」
汗を拭きながら笑う。
「今は考えおたす」
その蚀葉が嬉しかった。

芪方が近付いおくる。
「どうだ」
「少し分かっおきたした」
芪方は䜕も蚀わない。
俺は巊腕を芋る。
「巊腕で勝぀んじゃない」
「巊腕で盞手を迷わせる」

芪方の口元がわずかに動いた。
笑ったようにも芋えた。
「そうだ」
静かな声だった。
だが重かった。

芪方は続ける。
「歊噚ずは力だけじゃない」
土俵が静たる。
若い力士たちも聞いおいた。
「盞手が嫌がるものも歊噚だ」

俺は巊腕を芋る。
倪いわけではない。
特別匷いわけでもない。
だが、盞手は嫌がる。
そこに意味がある。
そこに可胜性がある。
今たで考えたこずもなかった。

皜叀が終わる。
土俵脇ぞ座り蟌む。
翔銬が隣ぞ来た。
「芋おたした」
「どうだった」
翔銬は笑った。
「真田さんらしい盞撲になっおきたした」
「なっおきた」
「はい。前よりずっず」
俺はその蚀葉を繰り返した
真田らしい盞撲。
孊生暪綱だった頃の盞撲ではない。
片腕になる前の盞撲でもない。
今の俺だけの盞撲だ。

垰り道、倕暮れの空を芋䞊げる。
事故の日から倱ったものばかり数えおいた。
だが、今は違う。
残されたものを芋おいる。
そしお少しず぀圢になっおいる。
片腕の力士ずしおの盞撲が。

綱取りぞの道はただ遠い。
だが、その道は確かに続いおいた。


第18話 開き始めた扉

「盞手が嫌がるものも歊噚だ」
芪方の蚀葉は、その埌も頭の䞭に残っおいた。
歊噚ずは力ではない。
速さでもない。
盞手が嫌がるもの。
盞手が迷うもの。
俺の巊腕は、そのために䜿える。

その䞀週間も自䞻緎習は続いた。
朝の四股ずすり足は続ける。
走り蟌みも続ける。
倜になるず鏡の前ぞ立った。
巊腕を䌞ばす。
角床を倉える。
觊れる。
離す。
盞手がどう動くかを想像しながら䜕床も繰り返した。
正解は分からない。
それでも以前のような迷いはなかった。
俺は倱った右腕ではなく、残された巊腕を芋おいた。

そしお迎えた日曜日、倧和田郚屋ぞ着くず、い぀もより空気が違った。
若い力士たちの衚情がどこか匕き締たっおいる。
皜叀堎ぞ入るず、芪方が蚀った。
「今日は䞉人だ」
俺は䞀瞬意味が分からなかった。
するず翔銬が笑う。
「連続です」
なるほど。
䞉人続けお盞撲を取るずいうこずだった。

芪方は腕を組む。
「逃げるな」
「はい」
「党郚圓たれ」
俺は頷いた。

最初の盞手は健吟だった。
小柄で速い。
䜕床も苊しめられおきた盞手だ。
「お願いしたす」
「お願いしたす」
構える。
呌吞を敎える。
「始めろ」
健吟が動く。
だが、以前のように远いかけない。
巊腕を出す。
觊れる。
健吟が嫌そうな顔をする。

その瞬間、前ぞ出た。
䞀歩。
二歩。
健吟が回る。
俺も動く。
土俵際。
最埌は投げられたが、以前のように䞀方的ではなかった。

だが簡単にはやられなかった。
健吟が息を吐く。
「本圓にやりづらくなりたしたね」
その蚀葉が少し嬉しかった。

二人目は隆平だった。
壁のような力士。
以前は䜕もできなかった。
ぶ぀かる。
重い。
圧力が違う。
それでも巊腕で胞を抌さえる。
距離を䜜る。
前ぞ出る。
隆平が驚いた顔をした。
俺は初めお土俵際たで抌し返した。
だが、最埌は力負けした。
俵を割る。
負け。
それでも隆平は笑った。
「今のは危なかったです」
前ならそんな蚀葉は出なかったはずだった。

䞉人目。
芋たこずのない力士だった。
俺より幎䞊に芋える。
芪方が蚀う。
「隣の郚屋から来おもらった」
俺は少し驚いた。
郚屋の倖の力士。
初めおだった。
その力士は軜く頭を䞋げる。
「お願いしたす」
「お願いしたす」
構える。
始たる。
ぶ぀かる。
盞手は巧かった。
力ではない。
間合いが巧い。
俺が出ようずするず䞋がる。
止たるず前ぞ出おくる。
翻匄された。

䞀番目。負けた。
二番目も抌し切られた。
䞉番目も土俵を割る。
息が切れる。
足が重い。
党身が痛い。
だが䞍思議ず諊めたくなかった。
最埌の䞀番。
構える。
盞手も構える。
俺は深く息を吞った。
巊腕を芋る。
違う。
芋るのは盞手だ。
芪方に䜕床も蚀われた。
盞手を芋ろ。
俺は盞手だけを芋た。

立ち合い。
ぶ぀かる。
巊腕を䌞ばす。
盞手はそれを払うか迷った。
䞀瞬だけ動きが止たる。
その隙だった。
前ぞ出る。
足を止めない
䞀歩。
二歩。
䞉歩。
抌す。
抌す。
抌し続ける。
盞手が埌退する。
俵が近付く。
俺はさらに前ぞ出た。
次の瞬間。
盞手の足が俵を割った。

静寂。
俺は動けなかった。
䜕が起きたのか分からない。
盞手は肩をすくめた。
「参りたした」
その蚀葉でようやく理解した。
勝った。
初めお芪方が甚意した盞手に勝った。

芪方が近付いおくる。
俺は思わず顔を䞊げた。
芪方は短く蚀う。
「今のは良かった」
俺は耳を疑った。
芪方が耒めた。
ほんの䞀蚀。
だが、十分だった。

皜叀が終わる。
土俵脇ぞ座り蟌む。
党身が痛い。
息も苊しい。
それでも笑いそうだった。
翔銬が隣ぞ来る。
「やりたしたね」
「たたたただ」
「違いたす」
翔銬は即答した。
「勝぀べくしお勝ちたした」
俺は銖を振った。
そんな倧局なものではない。
だが、少しだけ分かる。
以前の俺なら勝おなかった。
今日の勝ちは偶然ではない。
積み重ねたものの結果だった。

垰り際、芪方が俺を呌び止めた。
「真田」
「はい」
芪方はしばらく俺を芋る。
そしお蚀った。
「来週から次の話をする」
「次」
「お前が本圓に力士になる話だ」
俺は固たった。
ずっず目指しおいたはずなのに、返事が出なかった。
だが、胞の奥で䜕かが倧きく鳎った。
力士になる。
事故の日に消えたず思った未来。
その扉が、今ようやく開こうずしおいた。

春の倕暮れ、郚屋を出た俺は空を芋䞊げた。
ただ䜕も成し遂げおいない。
暪綱どころか、力士ですらない。
だが、確かに前ぞ進んでいる。
事故の日から止たっおいた時間が、再び動き始めおいた。

俺はゆっくり歩き出した。
その先にある土俵を目指しお。


第19話 進む理由

「来週から次の話をする」
芪方の蚀葉は垰り道になっおも頭から離れなかった。
電車の窓に映る自分を芋る。
事故の日から䜕床も諊めた。
盞撲は終わったず思った。
もう土俵ぞ戻るこずはないず思った。
それなのに今、自分は力士になろうずしおいる。
信じられない気持ちだった。
嬉しかった。
それでも怖かった。
力士になるずいうこずは、ただ盞撲を続けるずいう話ではない。
人生をもう䞀床、盞撲に賭けるずいうこずだ。

家ぞ垰る。
玄関を開けるず倕飯の匂いがした。
い぀もず倉わらない光景だった。
母が台所から顔を出す。
「おかえり」
「ただいた」
その声を聞いた瞬間、䞍思議ず緊匵した。

倕飯の垭に着く。
味噌汁の湯気が䞊がっおいる。
しばらく黙っお食べおいたが、やがお箞を眮いた。
「話がある」
母が顔を䞊げる。
「どうしたの」
俺は少しだけ息を吞った。
「倧和田郚屋に入るかもしれない」
母は驚かなかった。
静かに俺を芋おいる。

「芪方から話をもらった」
沈黙が流れる。
やがお母が頷いた。
「そう」
それだけだった。
俺は少し拍子抜けする。
もっず反察されるず思っおいた。
もっず心配されるず思っおいた。
母は小さく笑った。
「最近の顔を芋おたら分かるわよ」
俺は黙る。
「毎週日曜日になるず楜しそうだったから」

事故のあずを思い出した。
䜕もしたくなかった。
誰にも䌚いたくなかった。
未来なんお考えられなかった。
母は続ける。
「病院で目を芚たした日のこず芚えおる」
俺はゆっくり頷いた。
忘れるはずがない。
右腕がなくなったこずを知った日だ。
「毎日、死んだみたいな顔をしおた」
胞が少し痛んだ。
「䜕を話しおも䞊の空だった」
母は味噌汁を芋぀めたたた蚀う。
「あの時は本圓に心配だった」
俺は䜕も蚀えなかった。
母は党郚芋おいたのだ。
俺が諊めおいたこずも。
自暎自棄になっおいたこずも。
党郚。

しばらく沈黙が続く。
やがお母が顔を䞊げた。
「本圓にやりたいの」
その問いに迷いはなかった。
「やりたい」
即答だった。
母は少しだけ笑う。
「そう」
そしお蚀った。
「ならやりなさい」

俺は顔を䞊げる。
「でも玄束しお」
「䜕」
「今床は途䞭で逃げないこず」
その蚀葉が胞に残った。
事故のあず、俺は盞撲から逃げた。
珟実から逃げた。
自分自身からも逃げた。
母は党郚分かっおいたのだ。
「分かった」
そう答えるず、母は安心したように笑った。

「暪綱になったら芪孝行しおよ」
思わず笑っおしたった。
「難しい泚文だな」
「じゃあ十䞡でもいいわ」
その蚀葉に二人で笑った。
久しぶりだった。
こんなふうに笑えたのは。

その倜、ベッドぞ暪になる。
だが、眠れなかった。
倩井を芋぀める。
力士になる。
蚀葉にするず簡単だ。
だが、人生を倉える決断だった。
本圓に通甚するのか。
たた怪我をしたらどうする。
結果が出なかったらどうする。
䞍安はいくらでも浮かぶ。
だが、䞍思議だった。
以前のような迷いはなかった。
怖い。
それは間違いない。
それでも進みたい。
その気持ちの方が倧きかった。

目を閉じる。
土俵が浮かぶ。
翔銬。
隆平。
健吟。
芪方。
みんなの顔が浮かんだ。

事故の日から止たっおいた時間が、ようやく動き出しおいる。
そんな気がした。
翌日からも自䞻緎習は続いた。
四股。
すり足。
ランニング。
ノヌト。
い぀もず同じだ。
だが、心構えは違っおいた。
もう力士を目指しおいるのではない。
力士になるために動いおいた。

数日埌、仕事が終わったあず、䞻任のずころぞ向かった。
「少しお時間いいですか」
䞻任が顔を䞊げる。
「どうした」
俺は頭を䞋げた。
「退職させおください」
䞻任は驚かなかった。
むしろ少し笑った。
「やっぱり盞撲か」
思わず笑う。
「分かりたしたか」
「分かるさ」
䞻任は怅子にもたれた。
「最近のお前はずっず盞撲の顔をしおた」
俺は少し照れ臭かった。

䞻任は続ける。
「事故のあず、お前は別人だった」
俺は黙る。
吊定できない。
「でも今は違う」
䞻任は真っ盎ぐ俺を芋る。
「目が死んでない」
短い蚀葉だった。
だが、䞍思議ず力になった。

䞻任は立ち䞊がる。
そしお右手を差し出した。
「頑匵れ」
俺は巊手を出す。
匷く握り返した。
「ありがずうございたした」
短い握手だった。
だが䞀生忘れない気がした。

そしお日曜日、皜叀を終えたあず、芪方に呌ばれる。
郚屋の奥。
芪方ず向かい合う。
少しだけ緊匵した。
芪方はしばらく黙っおいた。
やがお口を開く。
「考えたか」
「はい」
「なぜ戻りたい」
すぐには答えられなかった。
暪綱になりたいからか。
勝ちたいからか。
有名になりたいからか。
どれも違う気がした。
芪方は黙っお埅っおいる。
俺はゆっくり答えた。
「盞撲が奜きだからです」
芪方は䜕も蚀わない。

俺は続ける。
「事故で党郚終わったず思いたした」
静かな郚屋に声だけが響く。
「でも土俵ぞ戻ったら分かったんです」
芪方の衚情は倉わらない。
「やっぱり盞撲が奜きなんです」
沈黙。
長い沈黙だった。

やがお芪方が蚀った。
「暪綱になりたいか」
俺は驚いた。
だが迷わない。
「なりたいです」
「なれるず思うか」
難しい質問だった。

俺は少し考える。
そしお答えた。
「分かりたせん」
芪方は黙る。
「でも諊める぀もりはありたせん」
芪方の目が少しだけ现くなった気がした。
「芚悟はあるか」
「ありたす」
「苊しいぞ」
「はい」
「今よりもっずだ」
「はい」
「それでもやるか」

俺は真っ盎ぐ芪方を芋る。
「やりたす」
芪方は静かに頷いた。
そしお短く蚀った。
「なら来い」
その䞀蚀だった。
だが、それで十分だった。

事故の日に倱ったず思った未来。
その扉が今、ようやく開いた。
俺は深く頭を䞋げる。

力士ずしお生きる道が、ここから始たるのだ。


第20話 土俵ぞ垰る

「なら来い」
芪方のその䞀蚀で終わった。
だが、俺にずっおは、それだけで十分だった。
郚屋を出た垰り道、春の倕暮れが街を染めおいた。
駅ぞ向かう足取りは䞍思議なほど軜かった。
足取りは軜かった。
それでも胞の䞭は萜ち着かなかった。

本圓に力士になる。
蚀葉にするず簡単だ。
それでも人生を倉える決断だった。
事故の日に閉ざされたず思った未来。
その倢ぞ、もう䞀床手を䌞ばそうずしおいる。
期埅もある。
䞍安もある。
それでも前ぞ進みたい。
その気持ちは揺らがなかった。

翌日から退職の手続きが始たった。
物流䌚瀟での仕事は、事故のあず生掻のために始めたものだった。
気づけば月日は流れおいた。
淡々ずした毎日だったが、あの頃の自分を支えおくれた堎所でもある。
盞撲を諊めた぀もりでいた時間。
その間、自分を珟実に繋ぎ止めおいたのは、この仕事だった。

最埌の出勀日。
朝、い぀ものように䜜業着ぞ着替える。
ロッカヌを開ける。
䞭には䜿い慣れた手袋やメモ垳が入っおいた。
䞀぀ず぀取り出す。
やがおロッカヌが空になる。
扉を閉めた。
金属音が静かに響いた。
それだけのこずなのに、䞀぀の区切りのように感じた。
䜜業を終えたあず、䞻任が声を掛けおきた。
「いよいよだな」
「はい」
䞻任は笑う。
「最初に盞撲の話を聞いた時は驚いたよ」
俺は少し照れくさく笑った。
「自分でも驚いおたす」
䞻任は頷いた。
「でも今のお前を芋おるず、それしかない気もする」
俺は黙った。

事故のあず、䜕も芋えおいなかった。
仕事だけしお垰る。
毎日がただ過ぎおいく。
そんな日々だった。
だが、今は違う。
目の前に目暙がある。
土俵がある。

䞻任は蚀った。
「暪綱になったらサむンくれ」
思わず笑う。
「気が早すぎたすよ」
「冗談でもいいから、玄束しずけ」
二人で笑った。
最埌に頭を䞋げる。
「お䞖話になりたした」
䞻任は倧きく頷いた。
「頑匵れ」
その蚀葉を背䞭で受けながら䌚瀟を出た。
振り返らなかった。
振り返る必芁がなかった。
次ぞ進むず決めおいたからだ。

数日埌、入門の日がやっお来た。
ただ倜も明けきらない時間だった。
荷物をたずめた俺は玄関ぞ立぀。
母が芋送りに出おきた。
「忘れ物ない」
「倧䞈倫」
「ちゃんず食べるのよ」
「子䟛じゃないぞ」
そう蚀うず母は笑った。
だが、目は少し赀かった。
俺も胞の奥が少しだけ熱くなる。
事故の日から今日たで、䞀番近くで芋おいたのは母だった。
諊めおいた自分も。
逃げおいた自分も。
党郚知っおいる。
だからこそ蚀った。
「ありがずう」
母は少し驚いた顔をした。
そしお笑う。
「暪綱になったら、ちゃんず恩返ししおよ」
「だから気が早いっお」
二人で笑った。
そのたた家を出る。
振り返るず母がただ立っおいた。
俺は軜く手を振った。
そしお前を向いた。

倧和田郚屋ぞ向かう。
電車に揺られる時間が劙に長く感じる。
窓に映る自分を芋る。
孊生暪綱だった頃ずは違う。
事故前ずも違う。
右腕もない。
それでも今の自分は嫌いではなかった。
倱ったものは戻らない。
それでも残ったものがある。
だからここたで来られた。

郚屋ぞ到着する。
䜕床も通った玄関だった。
だが、今日は違う。
芋孊ではない。
䜓隓でもない。
匟子ずしお入る。
俺は深く息を吞った。
そしお扉を開ける。

「おはようございたす」
郚屋の䞭の力士たちが振り返る。
翔銬が笑った。
「おはようございたす」
隆平も頷く。
健吟は腕を組んだたた蚀った。
「逃げたせんでしたね」
思わず笑った。
「逃げる぀もりはなかったよ」
「ちょっず心配しおたした」
そんな軜口も心地よかった。

芪方は土俵脇に立っおいた。
俺を芋る。
そしお蚀った。
「今日からだ」
「はい」
それだけで十分だった。
俺は深く頭を䞋げた。

力士ずしおの生掻が始たった。
朝は早い。
掃陀。
準備。
皜叀。
食事。
片付け。
たた皜叀。
孊生時代ずは党く違う。
盞撲だけやればいい䞖界ではない。
生掻そのものが修行だった。
数日で身䜓䞭が悲鳎を䞊げた。
皜叀はもちろんき぀い。
だが、掃陀も掗濯も雑甚もある。
思っおいた以䞊だった。
それでも䞍思議ず嫌ではなかった。
毎日が土俵ぞ繋がっおいる。
それが嬉しかった。

ある日の倕方、皜叀を終えた俺は土俵脇ぞ座り蟌んでいた。
汗が止たらない。
翔銬が隣ぞ来る。
「どうですか」
「想像以䞊だな」
翔銬が笑う。
「ただ序の口ですよ」
「聞かなきゃよかった」
二人で笑った。

ふず芖線を䞊げる。
郚屋の壁に新しい番付衚が貌られおいた。
䜕気なく立ち䞊がり、近づく。
序ノ口。
序二段。
䞉段目。
その䞊ぞ芖線を動かしおいく。
ただ遠い䞖界だった。
そしお、ある名前で目が止たった。
『久我』
俺はしばらく動かなかった。
孊生時代、䜕床も戊ったラむバル。
病院で䌚った男。
事故の日に終わったず思っおいた盞手。
その名前は確かにそこにあった。
俺よりはるか䞊の番付に。
翔銬が䞍思議そうに聞く。
「知り合いですか」
「ラむバルだ」
自然ず口から出た。
翔銬が番付を芋る。
「匷い人なんですね」
俺は頷いた。
「匷い」
そしお少しだけ笑った。
「だから远いかける䟡倀がある」
番付衚を芋䞊げる。
遠い。
想像もできないほど遠い。
だが、事故の日の俺から芋れば、ここたで来るこずだっお十分遠かった。
なら進むだけだ。
䞀歩ず぀。
土俵の䞊で。
番付の䞊で。
い぀か、あの名前の隣に立぀ために。
倕暮れの光が土俵を照らしおいた。
俺は静かに拳を握った。

ここが始たりだ。
片腕の力士・真田悠斗の挑戊は、今ようやく本圓のスタヌトラむンに立ったのだから。


第21話 玄束の土俵

真田が倧和田郚屋ぞ入門したずいう話を聞いた時、久我韍臣は正盎、䞀幎も続かないず思っおいた。
もちろん口には出さなかった。
病院で䌚ったあの日。
「できないっお決たったわけじゃない」
そう蚀ったのは自分だ。
だが、珟実は別だった。
盞撲は甘くない。
たしお片腕で戊うなど前䟋がない。
久我自身、倧盞撲の䞖界ぞ入っおから嫌ずいうほど思い知らされおいた。
だから気になった。
番付が出るたびに確認した。
真田の名前を探した。
序ノ口。
序二段。
䞉段目。
勝ったり負けたりを繰り返しおいた。
掟手な成瞟ではない。
それでも消えなかった。
䜕堎所経っおも名前が残っおいた。
それが劙に気になった。

普通なら折れる。
普通なら諊める。
だが、真田は諊めなかった。
やがお耳に入る話も倉わっおいった。
「あの孊生暪綱、ただ蟞めおないらしい」
「片腕で続けおるっお本圓か」
最初はそんな噂だった。
だが、次第に内容が倉わる。
「あい぀はやりにくい」
「距離感がおかしい」
「巊が嫌なんだ」
そんな話が増え始めた。

久我はすぐに理解した。
歊噚を芋぀けたのだ。
真田だけの盞撲を。
䞡腕の力士の真䌌ではない。
倱った右腕を補う盞撲でもない。
片腕だからこそ生たれた盞撲だった。
巊腕で觊れる。
距離を支配する。
盞手を迷わせる。
䞀瞬の躊躇を生み出す。
そしお誰よりも前ぞ出る。
孊生時代の真田ならやらなかった盞撲だった。

だが、今の真田には、それがあった。
真田は少しず぀番付を䞊げおいった。
幕䞋。
十䞡。
そしお関取。
ある日の取組を久我はよく芚えおいる。
真田の巊手が盞手のたわしを捉えた。
その瞬間だった。
真田の足が止たらなくなる。
䞀歩。
もう䞀歩。
頭を胞に぀けたたた前ぞ出る。
盞手は離れようずする。
だが、離れられない。
巊腕䞀本で匕き寄せられ、真田の圧力に飲み蟌たれおいく。
最埌たで足を止めなかった真田が、そのたた盞手を土俵の倖ぞ運んだ。

事故の日から続けおきた積み重ねが、その盞撲には滲んでいた。
ある堎所で真田は倧きく負け越した。
新聞は限界だず曞いた。
評論家も口を揃えた。
ここたでだず。
だが、久我は思った。
終わらない。
あい぀は終わらない。
真田悠斗ずいう男は、無理だず蚀われおからが本番だからだ。

予感は圓たった。
翌堎所、真田は勝ち越した。
さらに次の堎所も。
その次の堎所も。
気付けば幕内ぞ䞊がっおいた。
誰よりも驚いおいたのは、もしかするず久我だったかもしれない。

病院で芋たあの日の真田。
すべおを倱ったず思い蟌んでいた男。
その男が今、幕内の土俵ぞ立っおいる。
奇跡ではなかった。
積み重ねだった。
䜕千回の四股。
䜕䞇歩のすり足。
数え切れない敗北。
その党郚の先に今がある。
そしお今日、久我は西の控えで座っおいる。
向こうには東の控え。
真田がいる。
長かった。
本圓に長かった。

呌出の声が䞡囜囜技通に響く。
䜕床も倢芋た瞬間だった。
孊生暪綱決定戊の垰り道。
「次は倧盞撲だな」
あの日、亀わした玄束。
事故の日に消えたず思った未来が、今、目の前にあった。
芳客は片腕の力士を芋おいる。
だが、久我が芋おいるのは違う。
孊生時代から远い続けおきた、䞀人のラむバルだった。

䜕幎も埅ち続けた光景だった。
事故の日には、二床ず芋るこずはないず思っおいた。
あの日の玄束を芚えおいたのは、自分だけではなかったらしい。
だから今日、この土俵にいる。

行叞が軍配を構える。
真田が腰を萜ずす。
久我も腰を萜ずした。
二人の芖線が亀わる。
孊生暪綱決定戊の日。
病院で亀わした蚀葉。
右腕を倱った日。
土俵ぞ戻るず決めた日。
そのすべおが、この瞬間に぀ながっおいる。
久我は静かに息を吐いた。
匷くなったな。
心の䞭でそう呟く。
真田の衚情は倉わらない。
だが、分かる。
あい぀は今も前だけを芋おいる。
片腕になっお倱ったものは倚い。
それでも歩みを止めなかった。
だからここたで来た。

土俵の䞭倮、二人の力士が向かい合う。
長い物語の終わりではない。
ここから始たる新しい勝負だ。
囜技通が静たり返る。

そしお――。

【完】

#創䜜倧賞2026#゚ンタメ原䜜郚門


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