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書評は本の要約ではないーー同じ本の新聞書評を読み比べて考えたこと

瀧井一博『知識で国家を拓く』(千倉書房)の書評を、産経新聞に書いたことはここでも触れた。

新聞書評というのは、なかなか難しい。紙幅は限られている。本の内容を紹介しなければならない。著者の意図を大きく外してはいけない。とはいえ、ただ要約するだけでは書評にならない。読者に「これは読んでみたい」と思ってもらうためには、その本が何を問い直しているのか、どこが面白いのかを、短い文章の中で示す必要がある。

今回、私が書いた書評では、本書の中心にある「知識のネットワーク」「知のハブ」「知の交通」といった論点を押さえることを意識した。

近代日本の国家形成は、単に制度が整備されたとか、官僚制が作られたとか、憲法が制定されたとか、そういう話だけではない。大久保利通、伊藤博文、森有礼、渡辺洪基、箕作麟祥、カール・ラートゲン、有賀長雄、幣原坦、田中耕太郎らを通じて、知識が輸入され、翻訳され、編集され、制度へと組み込まれていく。その過程を、本書は「知識のネットワーク」として描いている。

その意味では、私の書評は本書の内容を大きく外してはいなかったと思う。

ただ、先日、早稲田大学の中澤達哉先生による同じ本の書評を読んで、少し考え込んだ。

中澤先生の書評は、冒頭から違っていた。

「明治維新とは何だったのか?」

この大きな問いから始まる。

これが強い。

本の紹介から入るのではなく、読者がすでに知っているようで、実はよくわかっていない大きな歴史的問いをまず置く。そのうえで、薩長の英雄譚、西洋の模倣論、資本主義論といった従来の維新像を示し、本書の新しさを「知識経営論」や「知識交換」の視角から提示していく。

なるほど、と思った。

同じ本を読んでいる。しかも、同じ新聞書評という限られた形式で書いている。しかし、入口の作り方が違う。私の書評は、本書の構造に沿って、その内容をなるべく正確に伝えようとした。中澤先生の書評は、本書を使って「明治維新とは何だったのか」という問いそのものを読者に投げかけていた。

もちろん、これは単純にどちらの書評がよいかという話ではない。

おそらく専門誌の書評であれば、依頼先も読み方もまた違ったものになっただろう。日本経済思想史を専門とする私であれば、本書をより細かく、先行研究や人物配置の中で読むことができる。一方で、西洋史を専門とする中澤先生には、国民国家形成、国制、知識移転といった、別の角度から本書を大きく捉える視野がある。

つまり、今回の違いは、書評者の力量の違いというよりも、土俵の違いによるところが大きい。

専門に近い者は、本の内側を精密に読める。専門から少し離れた者は、その本をより大きな問いへ接続しやすい。どちらが上という話ではない。むしろ、同じ本が、読む者の専門、媒体、読者層によって、まったく違う表情を見せることがよくわかった。

ただ、読者へのインパクトという点では、中澤先生の書評のほうが強かったと思う。

私の書評は、いわば「この本はこういう本です」と案内する書評だった。中澤先生の書評は、「この本を読むと、明治維新の見方が少し変わります」と告げる書評だった。

この差は小さくない。

考えてみれば、書評とは本の要約ではない。

もちろん、要約は必要である。内容を紹介しなければ、読者には何の本なのかわからない。しかし、書評の本当の役割は、その本を媒介にして、どのような問いが立ち上がるのかを示すことにあるのではないか。

本を紹介するのではなく、本によって何が見えるようになるのかを書く。

今回の経験から、そう思った。

私の書評にも、自分なりのよさはあったと思う。瀧井本の中核にある「知識の交通」という論点は、それなりに押さえられていたはずである。近代国家を、権力や制度だけでなく、知識を運び、翻訳し、接続する人びとの営みとして見る。その視角は、私自身にとっても大変刺激的だった。

しかし、もう一歩踏み込むならば、そこで終わってはいけなかったのかもしれない。

たとえば、こう書くこともできた。

明治国家は、武力や法制度だけで築かれたのではない。人から人へと運ばれ、翻訳され、制度へと接続された「知識」によって形づくられた。本書は、その見えにくい知の交通を描き出す一冊である。

あるいは、こう結ぶこともできた。

本書が問いかけるのは、近代日本を誰が作ったのか、ではない。知識はいかに国家を作るのか、という問題である。知が細分化され、分断されがちな現代において、その問いはなお重い。

こうした一文があれば、書評全体の印象はもう少し変わっていたかもしれない。

もちろん、後からなら何とでも言える。

新聞書評は、書いた時点で勝負が決まる。限られた字数の中で、著者への敬意、本の内容紹介、読者への誘い、自分の問題意識をどう配分するか。そこには、毎回かなり高度な判断が求められる。

今回ありがたかったのは、同じ本について、別の研究者が新聞書評という同じ形式でどう書くかを、ほぼ同時に見ることができた点である。

これは滅多にない。

書評は、普通は一回きりである。自分が書いた書評について、別の書き方がありえたことを、ここまで具体的に考える機会はそう多くない。同じ本を読み、同じように短い字数で紹介しながら、どこに入口を作り、どこに出口を置くかで、文章の力点は大きく変わる。

これは得がたい体験だった。

今回学んだのは、単に「もっと派手に書けばよかった」ということではない。むしろ、媒体によって専門性の出し方を変える必要がある、ということである。

専門誌の書評であれば、専門的な細部に踏み込むことが求められる。先行研究との関係、概念の使い方、叙述の妥当性、史料の扱いなどを、より厳密に検討することになるだろう。

しかし、一般紙の新聞書評は、専門誌書評の短縮版ではない。

そこでは、専門的な知見をそのまま圧縮するのではなく、読者に届く問いへと変換しなければならない。専門性を捨てるのではなく、専門性を、読者が本に入っていくための入口に作り替えるのである。

書評を書くということは、本と読者の間に一本の通路を作ることなのだと思う。内容紹介の道でもよい。著者の問題意識へ案内する道でもよい。その本を通じて、現代の私たち自身の問題へ向かう道でもよい。

どの道を作るか。

そこに、書評者の個性が出る。

次に新聞書評を書く機会があれば、「この本は何について書かれているか」だけでなく、「この本を読むことで、何の見え方が変わるのか」を、もう少し意識してみたい。

書評は本の要約ではない。

本を媒介にした問題提起である。

今回、同じ本の書評を読み比べて、そのことをあらためて実感した。

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