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専門用語が政治の言葉になるとき

東京大学教授で、日本教育学会会長でもある本田由紀氏のSNS上での発言が問題になっている。

三笠宮家の彬子女王や麻生家について論じた投稿を引用し、本田氏が「この人たちを目にするたびに、遺伝的要因のおそろしさを感じる」と書いたことが発端だった。すでに様々な批判が出ているし、現時点では学会の公式見解も出ていないので、ここではこれ以上触れない。

ただ、今回の件を見ていて気になったのは、本田氏個人の発言そのものとは別に、専門家が政治について語る際に用いる言葉の強さである。

そのことを考えさせられたのが、政治史家の御厨貴氏による発言だった。

御厨氏は『文藝春秋』の鼎談で、三笠宮寬仁親王妃家に養子が入った場合について、「麻生さんが天皇の外戚になり、平安時代の藤原氏のようになる」と述べている。そして、政治的権力者と天皇の権威との距離が近くなり、皇族の政治的中立性が揺らぐ可能性を指摘した。

問題提起そのものは理解できる。

現職の有力政治家と皇室との距離が近く見えるような制度設計が望ましいのか。皇室の政治的中立性という観点から検討することは、もちろん必要だろう。

しかし、私は「平安時代の藤原氏のようになる」という比喩には、かなり強い違和感を覚える。

藤原氏の摂関政治とは何だったのか。

藤原氏は娘を天皇の后妃とし、その娘が産んだ皇子が即位することで外祖父となるなど、皇室との婚姻関係を政治的基盤の一つとして、摂政・関白の地位を占めていった。

つまり「外戚」という言葉には、単に皇族と親戚になるという以上の、かなり具体的な歴史的内容がある。

ところが、現代の皇室制度をめぐる議論で想定されている養子制度は、もちろん平安時代の婚姻政治とはまったく異なる。

にもかかわらず、そこで「藤原氏」という言葉を持ち出すと、何が起こるのか。

日本史を多少なりとも学んだ人なら、「藤原氏」「外戚」と聞いただけで、ある歴史像を思い浮かべる。天皇家との血縁関係を利用して政治的影響力を強め、天皇の権威を背景に実権を握った藤原氏、というイメージである。

「藤原氏」という言葉は、そうした歴史像を一瞬にして現在へ運んでくる。

だから、この比喩は非常に分かりやすい。

そして、分かりやすいからこそ危うい。

歴史的比喩には、複雑な問題を一言で説明する力がある。しかし、その一言には、過去について形成されてきた評価までまとわりついている。

「藤原氏のようになる」と言えば、単に「政治家と皇室との距離が近くなる」という以上の意味が生じる。血縁を利用した権力掌握や皇室の政治利用、さらには権力者が天皇の権威を自らのために用いる、といった歴史的イメージまで現在の議論に持ち込まれるからである。

しかし、それらが現在の制度案について本当に成立するのかどうかは、本来なら一つ一つ検討しなければならない。

歴史的な類比は、あくまで問いを立てるための出発点であるはずだ。

「これは藤原氏に似ているのではないか」と考えること自体には意味がある。しかし、「藤原氏に似ているのだから政治的に危険である」と結論づけるのであれば、その「だから」のあいだには相応の検証が必要になる。

ところが、強い歴史用語には、その検証を飛び越えさせる力がある。

これは歴史家にとって、決して他人事ではない。

私自身も経済史を専門としているので、「財閥」「統制経済」「帝国主義」「新自由主義」といった言葉を使う。いずれも歴史や経済を分析するために必要な概念である。

しかし、これらを現在の政治や経済について語る際に持ち出せば、途端に別の働きを始める。たとえば、ある企業集団を「現代の財閥」と表現したり、政府による介入の強化を「統制経済への回帰」と呼んだり、ある国の対外政策を「帝国主義」と位置づけたりする場合である。こうした言葉には、現在の状況を過去との比較によって理解しやすくする効用がある一方で、歴史上の「財閥」「統制経済」「帝国主義」にまとわりついてきた評価を、現在の対象にまで持ち込んでしまう可能性がある。

もちろん、歴史的比較そのものを否定するつもりはない。

現在を理解するうえで、過去との比較はきわめて有効である。歴史を学ぶ意味の一つも、そこにある。

しかし、歴史的比較と歴史的レトリックは同じではない。

前者では、似ている点と異なっている点の双方を検討する。後者では、ともすれば似ている部分だけが取り出され、過去に付着した評価が現在へ移される。

その境目は案外曖昧である。

しかも、専門家が使えば、その言葉には専門知の裏づけがあるように見える。「藤原氏」という言葉を政治史家が使えば、一般の人が使う場合よりも重みがある。「帝国主義」という言葉を歴史家が使えば、単なる比喩ではなく、何らかの学問的判断であるように聞こえる。

そこに、専門家の言葉の政治性が生まれる。

専門知識が政治的判断を助けることはもちろんある。しかし、専門知識を持っていることと、政治的判断が正しいこととは別である。

そして、もっと注意しなければならないのは、専門用語を使うことによって、自分自身の政治的判断まで学問的に裏づけられているように感じてしまうことなのかもしれない。

今回の本田氏の発言を見て、私は「遺伝的要因」という言葉の危うさを感じた。

しかし、御厨氏の「藤原氏」という比喩を見ていると、問題はそれだけではないと思えてくる。

専門家は、自分の専門分野に属する言葉を、一般の人より多く持っている。その言葉は、ものごとを精密に考えるための道具であると同時に、政治的な議論の場では非常に強い言葉にもなる。

だからこそ、その言葉を使うときには慎重でありたい。

歴史によって現在を説明しているのか。それとも、現在について自分が抱いている評価を、歴史によって権威づけているのか。

他人の言葉を批判する前に、自分自身にも問い返しておきたいと思う。

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