「わかったつもり」を越える――『石橋湛山全集』を逐語的に読むゼミ
2年次のゼミでは、今、『石橋湛山全集』を読んでいる。
前期最後の授業では、第12巻に収録された論説のなかから、三つのグループにそれぞれ一本を選んでもらい、その内容を報告してもらった。
率直にいえば、出来はいまひとつであった。
2年生には少し難しかったのかもしれない。しかし、湛山の思想が難しいというだけではない。そもそも文章を「逐語的に読む」ということに、まだ慣れていないように感じた。
文章を読むとき、私たちはつい、そこに何が書かれているのかを大づかみに理解しようとする。
「この論説は小日本主義について書かれている」
「湛山は政府の政策を批判している」
「結局、こういうことを主張している」
もちろん、全体の趣旨をつかむことは必要である。しかし、それだけでは歴史資料を読んだことにはならない。
逐語的に読むとは、一つひとつの言葉に立ち止まることである。
なぜ湛山は、この言葉を選んだのか。
「しかし」「ゆえに」「そもそも」といった接続詞によって、議論はどのように展開しているのか。
この「彼ら」とは誰を指すのか。
ここで批判されているのは政策そのものなのか、それとも政策を支える考え方なのか。
断定しているのか、留保しているのか。事実を説明しているのか、自分の意見を述べているのか。
そうしたことを一つずつ確かめながら、文章の筋道をたどっていく。
これは、ずいぶん面倒な作業である。
とくに石橋湛山の論説は、新聞・雑誌に掲載することを前提として書かれている。目の前の政治や経済の動きに反応し、当時の政策担当者や読者に向かって議論を投げかけている。当然ながら、執筆当時には説明するまでもなかった人物や制度、事件が次々に登場する。
現代の学生が読むためには、その背景を調べなければならない。
しかも、歴史的背景を調べただけで、湛山の議論が理解できるわけではない。時代背景について集めた情報と、実際に本文に書かれていることとを区別する必要がある。
いまは、文章を検索すれば要約が見つかる。生成AIに尋ねれば、もっともらしい解説も返ってくる。
だが、要約はあくまで、誰かが重要だと判断した部分を抜き出して組み直したものである。要約だけを読んでいると、原文にあった限定や留保、微妙な言い回しが消えてしまうことがある。
そして、その消えてしまった部分にこそ、書き手の思考が表れる。
逐語的に読む訓練の目的は、湛山についての知識を増やすことだけではない。
自分の理解が、本当に本文に基づいているのかを確かめること。書かれていることと、そこから自分が推測したことを区別すること。相手の議論を、自分に都合のよい形に単純化しないこと。
これは歴史研究の基礎であると同時に、他者の言葉と向き合うための基礎でもある。
学生の報告を聞いていると、結論らしきものはつかめていても、湛山がなぜその結論に到達したのか、その論理を十分に追えていないことがある。
けれども、2年生の段階でうまく読めないのは、ある意味で当然である。
大切なのは、わかったつもりのまま先へ進まないことだ。
読んでわからなければ、もう一度読む。それでもわからなければ、言葉を調べ、時代背景を確かめ、前後の文章に戻る。そして、自分の解釈を本文の言葉によって説明できるかを考える。
時間はかかる。
しかし、速く要約する技術よりも、立ち止まって正確に読む力のほうが、これからの時代にはむしろ重要になるのではないか。
まだ2年生である。先は長い。
『石橋湛山全集』を読み終えること自体が目的ではない。湛山の文章を手がかりに、「読む」とはどういうことなのかを身につけてもらう。
焦らず、じっくりやっていこうと思う。
