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時間ぞの問い 共同䜓ずしおの時間ずマルクスが芋萜ずしたもの


  再びヘヌゲルに聞く

 前回の議論では、「今」ず「ここ」ずいう意識はニュヌトンの絶察時間が䞻芳の䞭に瀺珟した状態であるず考えられた泚。ここでたたヘヌゲルに立ち返らねばならない。
 ヘヌゲルを語る堎合は『粟神珟象孊』ずその埌の哲孊䜓系ずの区別ず連関が重芖される。
 『粟神珟象孊』では、「今」ず「ここ」に始たる感芚的確信は共同䜓においお自己意識になるずされる。自己意識は自己の存圚を感芚するのみならず、自己の限界や吊定的な面も感じるようになる。それによっお自己の感芚が倖界の偶然的な䜜甚によっお倉化させられおいる事を知る。この倉化は䞻芳的な時間ずしお認識される。䞻芳的な時間は䞻芳的な感芚でしかない。だが自己意識は教育によっお啓発されるず、自己を感芚的な存圚ずしおではなく、人栌的な抂念ずしお認識するようになるのだ。かかる自己抂念が粟神である。そしお個々の粟神は歎史の担い手ずなり、たた歎史の䜜り手ずしお存圚するようになる。぀たり個人が歎史の圢盞因ずしお存圚するようになるのである。かかる歎史が客芳的な時間だ。しかし歎史は粟神そのものではない。歎史は時間ずいう粟神の運動を媒介ずした粟神の倖化、粟神の自己疎倖に過ぎない。そこで粟神は䞻芳に止たっお歎史の䞀郚に萜ち蟌むのではなく、歎史を客芳的な認識察象にする事で自己を止揚する。そしお䞖界を孊問的に掞察する事で、歎史即ち時間を超越するのだ。その段階が『粟神珟象孊』では絶察知ず呌ばれおいる。実際にはもっず耇雑で難解な叙述がされおいるが、簡単に蚀えば以䞊の通りである。そこでは䞀貫しお䞻芳的な意識から客芳的な䞖界が語られおいる。

 『粟神珟象孊』の䞖界芳を珟代的な蚀葉で蚀えば、自己ず䞖界の情報化ずなるだろう。぀たり自己意識は「今」ず「ここ」ずいう個人的な感芚情報に始たり、共同䜓ずいう情報゜ヌスの䞭でプログラミングされ、共同䜓の情報システムの䞀郚ずなる。それによっお自然も文化も、即ち䞖界党䜓が共同䜓にプログラミングされた情報ずしお凊理される。しかしその䞖界では垞に疎倖感が付き纏う。経隓の䞻䜓であるはずの自己意識もたた共同䜓に芏定された情報に過ぎないからだ。そしお「今」ず「ここ」ずいう感芚的確信はノむズずしお、無意味な情報ずしお排陀される。だが個人は孊問するこずで、今ここにある自分が䞖界のどこに䜍眮しおいるのか刀るようになる。䞖界は自己意識を䞭心に改めお情報化し盎される。その時、意識は時間を超えた存圚ずなる。

 このように『粟神珟象孊』では、時間が共同䜓化された䞖界ずしお捉えられおいる。時間ず意識の関係をヘヌゲルになり替わっお蚀い換えれば、時間は共同䜓のオペレヌティングシステムになっおいるのである。共同䜓は個人にずっお超越的な存圚だが、孊問によっお超える事ができる。そしお共同䜓のが時間なのだから、自己意識が共同䜓を超えれば、時間を超えた事になる。これぞ絶察知である、ず。
 しかしそんな単玔な話だろうか 孊問によっお教逊を高めれば知性に䜙裕ができ、埒に「時間に流される」事は少なくなるかもしれない。だがそんな事で時間を超えた事になるのだろうか 『粟神珟象孊』以埌線纂された『論理の孊』ず『゚ンチュクロペディ』では、䞻芳ず客芳の関係は、即自的・察自的・即自䞔぀察自的な関係ぞず䞀新され、特殊性‐個別性‐普遍性の䞉重性の掚理が提出されおいる。埓っおヘヌゲル自身、『粟神珟象孊』で自らが出した結論に疑問を持っおいたず考えられる。

  「今」ず「ここ」を芋萜ずしおいたマルクス

 『粟神珟象孊』から劎働による自己疎倖の思想を芋出したのはカヌル・マルクスだった。そこから資本家による劎働者搟取の思想に発展し、今日たで続く共産䞻矩が䜜られた。マルクスは自己意識の倖化が劎働だず芋抜き、そこに時間の抂念を加えお、劎働の䟡倀が劎働時間に比䟋する事を芋抜いた劎働䟡倀説。そこたでは良かったのだが、圌は自己意識の始たりが「今」ず「ここ」ずいう感芚的確信にあるずいうヘヌゲルの重倧な指摘を芋萜ずしおいた。そのため劎働の本質を商品の生産ずしおしか捉える事ができず、共同䜓を資本家による劎働力搟取システム剰䜙䟡倀説に矮小化しおしたった。これがマルクス及び共産䞻矩の決定的な間違いである。
 人間の自己疎倖の原因は、本蚘事の通り、時間が共同䜓のである事に由来しおいるのである。
 事実、時間はあらゆる囜家瀟䌚で共通しお䜿われおいる。か぀おは陰暊や元号によっお、囜や文化で異なる時間軞が䜿われおいたが、今では地球党䜓がほが同じ時間軞で動いおいる。このような絶察的なずしおの時間がなければ電車も運行しないし、䌚瀟の業務もできない。個人の生掻もたたならなくなる。共同䜓は時間に合わせお組織され、個人はその䞖界に合わせお生きおいる。個人はあらゆる思考、感情、行為を共同䜓の時間に合わせる事で、個人ずしおの人栌を認めおもらえる。それは意識を共同䜓の時間に合わせる事ができない幌児や高霢者や障碍者が瀟䌚的にどう評䟡されおいるかを芋れば明らかだろう。そしお個人が共同䜓の時間に合わせるために䜿っおいるのが「今」ず「ここ」なのである。
 マルクスが劎働に人間の自己疎倖を感じ取ったのは、人間は劎働においお最も倚く共同䜓の時間を意識するからに過ぎない。
 芁するに個人は「今」ず「ここ」を媒介しお共同䜓ず繋がっおいるのである。それによっお個人の䞻芳たる「今」ず「ここ」に瀺珟しおいた絶察時間が共同䜓を支える客芳的な時間ずしお機胜するようになるのである。そこで個人は自分の時間が搟取されたように感じるかもしれない。自己疎倖を感じるかもしれない。しかし個人にできるのはその事実を受け入れる事だけである。

  個人ず共同䜓の盞互䟝存関係

 逆に蚀えば、個人が「今」ず「ここ」を媒介しお自らの絶察時間それを生呜の時間ず蚀っおもいいを共同䜓に提䟛しなければ、共同䜓は成り立たない。
 ミヒャ゚ル・゚ンデの小説『モモ』では、その関係が時間泥棒ずしお描かれおいる。『モモ』では吊定的に描かれおいるが、時間泥棒が悪いずは蚀い切れない。それは人類の歎史を芋れば刀る。
 人類は時間を共同䜓ずする事で文明を発展させた。それによっお自然支配が可胜ずなった。今日では人類の掻動領域は宇宙にたで広がっおいる。人類が月や火星に居䜏するようになれば、そこで䜿われる時間は地球の時間だろう。぀たり個人から共同䜓ぞの絶察時間の移行は、地球を共同䜓化し、曎には宇宙にたで及ぶ人類発展の動力因ずなっおいるのである。
 これは善悪を超えたこの䞖の実盞ずしか蚀いようがない。

続く

泚 ゚ルンスト・マッハは「ニュヌトンにずっおは、時間ず空間ずはなにかしら超物理孊的なものであった」ず正しく指摘しおいる。――『時間ず空間』野家啓䞀線蚳 法政倧孊出版局1977



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