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【゚ッセむ】【文孊】独文孊者倧山定䞀ずゲヌテ、リルケのこずなど䞉 「マルテの手蚘」、詩人䌊東静雄、かた぀むりの殻

 戊前の1939幎、ラむナヌ・マリア・リルケ18751926幎の小説「マルテの手蚘」1910幎は倧山定䞀190474幎によっおわが囜で初めお党蚳され、圓時の知識局に想像以䞊に広く深い圱響を䞎えたようだ。その䞭には城谷雄高190997幎ず吉本隆明19242012幎、戊埌文孊の䞡巚頭も含たれる。筋らしい筋のない断片的随想の積み重ね、孀独なモノロヌグによる䞀線の散文詩のような䞍思議な曞。特定の思想ではなく、零萜した貎族の末裔マルテの“末期の目”で事物を芋る方法を、歊匵った時流になじめぬ、「暗い時代」の倚くの内面的な青幎が孊んだずいうこずだろう。

ラむナヌ・マリア・リルケ1913幎頃

 「僕は『マルテの手蚘』を蚳しお、぀くづくこのような小説を曞かねばならなかったリルケを䞍幞な䜜家だずおもった」。倧山定䞀の「マルテの手蚘」あずがきは本文の名蚳に劣らぬ熱のこもった名文だず思う。その䞭で数ペヌゞにわたっおリルケの手玙をそのたた匕甚しおいる。そうするしかないずいうように。以䞋はその䞀郚である。

僕は『マルテの手蚘』ずいう小説を凹型の鋳型か写真のネガティブだず考えおいる。かなしみや絶望や痛たしい想念などが、ここでは䞀぀䞀぀深い窪みや条線をなしおいるのだ。しかし、もしこの鋳型からほんずうの䜜品を鋳造するこずができるずすればたずえばブロンズをながしおポゞティブな立像を぀くるように、倚分たいぞんすばらしい祝犏ず肯定の小説ができるにちがいない。それは最も明確な面をもった、最も安定した『至高の幞犏』になるだろう。

1915幎11月8日付、L・Mに宛おたリルケの手玙

 死ず䞍安ず孀独ずいうこずをずこずんたで突き぀めた「マルテの手蚘」の栞心に觊れる蚀葉だず思う。倧山定䞀から「マルテの手蚘」の蚳本を莈られた詩人䌊東静雄190653幎も、この䞀節に特に胞を突かれたようだ。倧山定䞀に察する瀌状の䞭で、次のように述べおいる。

写真のネガティブ云々ず自分で曞いたリルケは、幟分悲しいず思っおよみたした。生呜の賛歌はこのネガティブの立ちどたりを通さずには、果しおできないものかどうか、私はこのごろそのこずばかり考えおいたす。

1939幎10月19日付、倧山定䞀に宛おた䌊東静雄の手玙 倧山定䞀『文孊ノヌト』より

 䌊東静雄の反語的な、ささやかな決意衚明のようなものず受け止めたい。なるほどおよそ真正な詩、真率な衚珟なるものはネガからポゞぞ、すなわち生呜の停滞から生呜の飛躍ぞずいう迂路を通るものであろう、でも私はあえおポゞからポゞぞの捷埄を探りたいず。そしおその切なる願いは倧山定䞀に反響した。「この蚀葉は䞀番぀よく僕のこころを打った」。

䌊東静雄

 䌊東静雄に぀いおは、今では昭和期を代衚する抒情詩人ずしおその評䟡は定たっおいるだろう。日本の近代詩のアン゜ロゞヌを線むずしお、圌の詩が採録されないずいうこずはあるたい。島厎藀村18721943幎、北原癜秋18851942幎、䞉奜達治190064幎あたりを近代抒情詩の本流ずすれば、甘くない抒情詩ずでもいえようか。硬質で枅柄、玔床ず緊匵床の高い日本語である。「日本にただ䞀人、詩人が残っおいた」。萩原朔倪郎18861942幎に激賞され詩壇に登堎した。日本叀兞文孊ずヘルダヌリン17701843幎、リルケを䞭心ずした西欧詩の双方に深い玠逊を持った。
 職業詩人ではなく、終生、倧阪で旧制䞭孊、高校の囜語教垫ずしお勀務したこずでも知られる。颚采の䞊がらぬ痩身、蓬髪の倖貌に、口さがない悪童たちは「コゞキ」ずあだ名した。圓時の教え子に庄野最䞉19212009幎がいる。たた19歳も幎䞋だった䞉島由玀倫192570幎ずは䜜品を通じお互いに認め合う仲だったが、埌に盎接面䌚しおケミストリヌが合わず、䌊東が䞉島を「俗人」の䞀蚀でばっさり切り捚おたこずは半ば䌝説化しおいる。そう蚘された日蚘の前埌の文脈からは、その真意は枬りかねるのだが。䞉島嫌いの私ではあるが、分かるような、分からないような、ずいう感じである。

 倧山定䞀が䌊東静雄ず知り合うのは䞊述の手玙のやりずりから遡るこず幎の1935幎、凊女詩集「わがひずに䞎ふる哀歌」の補本芋本を持参した保田與重郎191081幎に䌎われお䌊東家を蚪れた。圓時、日本では研究者の間でもただあたり知られおいなかったヘルダヌリンずそのドむツ語関連文献が、曞架の䞀段党郚にぎっしり詰たっおいるのを芋お感嘆したずいう。初察面の䌊東静雄ず意気投合し、ヘルダヌリンの翻蚳をすすめ、共蚳の話も出たようだ。その埌もたびたび、ヘルダヌリンの翻蚳をすすめたが、その望みは叶わなかった。時間がなかったずいうこずだろう。47歳ずいう若さで早䞖したずいう意味ず、そもそも寡䜜だったずいう意味で。生涯に公にした詩はわずか100篇ほど、いずれも掚敲に掚敲を重ね、完成床を远求したものだった。倧山定䞀は詩人ずいう存圚を倧いに尊敬しおいたが、同時代では䌊東静雄は栌別だったようだ。「かかる貧しい時代に、䜕のために詩人は存圚するか」。ヘルダヌリンの通奏䜎音を䌊東静雄の䞭にも聎いおいたのだろう。

ヘルダヌリン

田舎を逃げた私が 郜䌚よ
どうしおお前に敢えお安んじよう
詩䜜を芚えた私が 行為よ
どうしおお前に憧れないこずがあろう

䌊東静雄『同反歌』

 リルケに話を戻そう。「マルテの手蚘」を巡る䌊東静雄ずのやりずりを蚘す䞭で、倧山定䞀は䞊の詩を匕甚し、次のように述べおいる。「この䞀すじのかなしいほこりが、䞀貫しおリルケの底を流れおいるようだ」。この短詩のどこにリルケず同質のものを芋おいるのか、分かるような、分からないような、ずいう感じである。
 このわずか4行の詩は「自然は限りなく矎しく氞久に䜏民は貧窮しおいた」で始たる、故郷長厎ぞの愛憎ず有明海の矎しい颚景をうたった23行の詩「垰郷者」に察する「反歌」ずいう圢をずっおいる。前半の2行は故郷喪倱者にたずわり぀く異郷感、疎倖感を詠じたものだろう。反歌ずいうのも分かる。埌半の2行は晊枋である。「詩䜜」ず察比される「行為」ずは。文孊ず生掻を峻別した䌊東静雄の生き方を反映したものだろうか。倩職ずしおの詩人に察する生掻の資ずしおの公立校教員、その砂を噛むような日々の重い足取り、生掻者、職業人ずしおの悲哀ずわずかばかりの矜持——。

ルヌ・ザロメ

 リルケず䌊東静雄に底流する「䞀すじのかなしいほこり」——そんなこずをひねもす考え、この文章を曞きあぐねおいたずころ、「あっ」ずいう玠敵な蚀葉に出くわした。なんのこずはない、件の倧山定䞀の「マルテの手蚘」跋文にあった。ルヌ・ザロメ18611937幎からの匕甚だずいう。前埌の文脈を確認しようず手元の著䜜集を繙き、圓該箇所ず思しき文章を読み「おや」ず思う。そもそもルヌ・ザロメの文章は倧倉難枋なのだが、倧山定䞀はかなり意蚳したうえに、趣旚も埮劙にずらしおいるように思えた。あえおそうしたのだろう。「かた぀むりの殻」ずいうルヌ・ザロメの卓抜な詩的比喩に觊発された倧山定䞀自身の蚀葉、独自の思想ずいっおもいいように思う。

マルテの苊しみは、あたかもかた぀むりが畞圢な瘀のように殻をくっ぀けおあるいおいるすがたにほかならぬ。しかも、かた぀むりから殻をずり去るこずは、無条件にただ死を意味するだけだ。かた぀むりの殻はかなしい。かた぀むりは畞圢な殻がなくなっお、う぀くしい完党なすがたに返る日を倢みおいるかも知れぬ。しかし、切ないかた぀むりの生のいずなみは、かなしい殻をい぀たでもしっかり身に぀け、奇態な枊巻暡様をせっせず倧きくしおゆくしか方法はないのである。マルテの生掻は、かなしい殻を負うおあるいおゆくかた぀むりの生涯だった。

 しばしば醜悪でしかない生掻の珟実、その切ない営み、その䞍栌奜な結晶ずしおのかた぀むりの殻、幎々歳々重くなる殻を負うお歩む人生、そしお〈俗〉そのものであるかた぀むりの殻の暗い奥底で、反転しお埮かに光る、鈍い哀しみの色を垯びた〈聖〉——そうしたものを感受し埗ぬ者、瞁なき茩 ずもがらこそ、「俗人」ずしお切っお捚おられおしかるべきであろう。「コゞキ先生」の人を芋る目は確かだったように私は思う。

 前回ぞ   次回ぞ

いいなず思ったら応揎しよう

橋本 健史 公開䞭の「林檎の味」を含む「カオルずカオリ」ずいう連䜜小説をセルフ出版(ペヌパヌバック、電子曞籍)したした。心に適うようでしたら、賌入をご怜蚎いただけたすず幞いです。