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武田家終焉の郷へ

7月、念願叶って、景徳院に行ってまいりました。最寄駅は甲斐大和駅です。ホームに降りると、「武田家終焉の郷」という、寂しい文言が出迎えてくれます。この駅前に武田勝頼公の像があるので、まずは挨拶に向かいます。

この甲斐大和駅は無人駅でして、改札らしい改札もありません。若干戸惑いつつも切符を所定の箱に入れ、駅の外へ。が、勝頼公のお姿はありません。設置された近隣マップで確認したところ、道路を渡ったところにある模様。陽射し強めで体力奪われそうでしたが、根性振り絞って道路を渡りました。すると……。

武田勝頼公之像

勇ましいお姿が目に飛びこんできました。が、駅からやや離れているのと、人通りもほとんどないためか、もの寂しさを禁じ得ません。お父上の信玄公、祖父の信虎公は、甲府駅前(南口と北口に建っているというのが親子関係を暗示しているように思えます)の賑やかな立地にいらっしゃいますからね…。心の中で手を合わせ、いざ景徳院!!と思ったのですが。

バスがない!! 平日はバスが3便しかなく、9:50のバスは行ってしまった後でした。次は14:50、5時間後です。しかたなく、タクシー会社に電話をして配車を頼んだところ、「出払ってしまっていて、どんなに早くても1時間は待ってもらうことになる」との答え。やむなく、予定を変更して、湯村温泉・常磐ホテルに向かうことにしました。

甲斐大和駅の「乗車駅証明書発行機」

甲府駅に到着した時、11時を過ぎていたので、セレオ甲府で軽く食事することにしました。どの店も美味しそうなのですが、信玄公のお名前には抗えず、「郷土料理・信玄」へ。

ワイン豚自家製コロッケ
甲州名物 鳥モツ煮

コロッケ、2023年に来た時は、【富士桜ポークのコロッケ】という名称でした。富士桜ポークという響きが好きなので少し残念ではありますが、美味しかったのでOK。ほうとうも食べたかったのですが、旅館の朝食が質・量ともに素晴らしすぎて、胃袋に余力がありませんでした。ハイボールを一杯、さくっとひっかけまして、北口からタクシーに乗りました。

2日目と3日目は『湯村温泉・常磐ホテル』連泊です。フロントに荷物を預け、ホテルを出ると、道路の向こう側にカフェらしき建物が。行ってみると、そこは「金精軒」のカフェでした。「金精軒カフェ」といえば【水信玄餅】、平日で空いていたので、早速入店しました。甘い物は別腹とはよく言ったものです。

初・水信玄餅

名前のとおり、口に含むと水のように溶けてしまう、夏にふさわしい爽やかな味わいです。信玄公も、食したのが水信玄餅であれば、喉に詰まることも窒息死することもなく、歴史は変わっていたのではないでしょうか。

他にも美味しそうなメニューがたくさん!

「金精軒カフェ」を出て、再び甲府駅へ。14:50のバスに間に合うよう、甲斐大和駅をめざします。無事バスに乗車、15時少し前に景徳院入口に到着しました。

勝頼公廟所の碑

景徳院については色々な噂があり、しょっちゅうリサーチしていたのですが、実際に訪れてみると、想像よりもはるかに淋しげな場所でした。ましてや、当時はもっと荒れ果てていたにちがいありません。このような山の中に追い詰められ自害されたのかと、やるせない思いを胸に抱き、境内へ続く階段を登りました。スズメバチの巣がいくつか落ちていて、緊張しました。

景徳院

境内は鬱蒼としていましたが、心地良い風が吹いてきて、「ここに立ち入ることをお許しいただけたんだな」と勝手に自信を持ちました。心霊スポットとの噂もある場所だったので、いささか不安もあったのですが、勝頼公とそのご家族、勝頼公に殉じた家臣の皆々様に深い哀悼の情を抱く者を、方々が怖がらせるはずがないのです。とは言ったものの、勝頼公・北条夫人・信勝君の墓石、彼らが自害した場所である【生害石】、頭のないお地蔵さまが並ぶ【没頭地蔵】、どうしても写真を撮る気にはなれませんでした。静かに手を合わせ、別の世で末長く幸せに暮らしてほしい、そう願うにとどめました。それにしても、こんな山の奥深くで自害することになった勝頼公の無念たるや、察するに余りあります。

勝頼公は、当初、天目山の栖雲寺(武田家ゆかりの寺)を目指したのですが、信長は先回りをして栖雲寺に火をかけました。この寺が勝頼公にとって特別な場所であることを知った上での所業です。信長にとって、寺院焼き討ちは趣味のようなものですが、そこに信玄公への憎悪が加わり、「単に攻め滅ぼすだけではつまらない、勝頼の誇りを徹底的に打ち砕き、文字どおり野垂れ死にさせてくれるわ」とばかり、鬼の所業に及んだと思われます。もはや病気ですね。もっとも、因果応報との言葉どおり、武田家滅亡から3か月後、信長も燃え盛る炎の中で生涯を閉じます。『豊臣兄弟!』では浅井長政を含む老若男女が化けて出ていましたが、勝頼公とか北条夫人とか小山田信茂とか快川紹喜国司とかが混じっていてもおかしくないですよね。

一方、信玄公に畏怖と敬意を抱いていた徳川家康公の対応は、信長のそれとは真逆でした。武田家遺臣をひそかに匿い、勝頼公とその一族郎党の菩提を弔うべく寺を建立したのです。それが景徳院でした。天下人になるだけあって、人としての度量が違いすぎます。家康公は栖雲寺をも再建し、甲斐の領民たちから敬愛されました。命を救われた元武田家遺臣たちも、家康公への恩義を深く胸に刻み、命がけで戦ったそうですから、「情けは味方 仇は敵なり」という信玄公のお言葉は至言です。

勝頼公と北条夫人の辞世の句碑

勝頼公と北条夫人の辞世の句が刻まれた石碑もありました。

勝頼公(享年37歳):
朧なる 月のほのかに 雲かすみ 晴て行衛(ゆくえ)の 西の山の端(は)

北条夫人(享年19歳):
黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき 思に消る 露の玉の緒

信勝君(享年16歳):
あだに見よ 誰もあらしの 桜花 咲ちるほどは 春の夜の夢

信勝君の母親は勝頼公の正室・龍勝院(織田信長の姪で養女)、北条夫人と血の繋がりはないのですが、仲睦まじい家族であったと伝わっています。自分も家族の安全を祈願し、景徳院を後にしました。

姫が淵にあるレリーフ

次に向かったのは、史跡・四郎作古戦場と史跡・鳥居畑古戦場です。景徳院から徒歩圏内なので、Googleマップを頼りに、甲斐大和駅方面に向かって、道路沿いを進みます。

史跡・鳥居畑古戦場
鳥居畑古戦場の由来

阿部加賀守勝宝、小宮山内膳友晴らの名前が見えます。自分がここに来たかった理由の一つが、小宮山友晴の存在だったので、名前を見つけた時は万感胸に迫りました。歯に衣着せぬ物言いで武田家中に敵を作り、勝頼公にも疎んじられて蟄居させられていた友晴は、勝頼主従が追い詰められたのを知ると、一族郎党引き連れて、勝頼公のもとに馳せ参じます。勝頼公は涙を流して彼を迎え入れたそうですが、譜代の家臣たちですら次々離反していくなか、友晴の揺るぎない忠誠心は一筋の光となったのではないでしょうか。このエピソードは涙なしでは語れません。

史跡・四郎作古戦場

由来を探したのですが、どこにも見当たらず、がっかりしてこの写真を撮っただけになってしまったのですが…。実は、裏側に由来が刻まれていたのです! 湿気で思考が停止気味だったのか、裏側を確認しなかったことが悔やまれます。

景徳院入口にバスが来るまで1時間、雲行きが怪しくなってきたので、タクシーを使いました。本当は栖雲寺まで行きたかったのですが、それはまた次の機会に、必ず!!


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