政治における合理性とは何か~若槻礼次郎に関する素人雑感~
若槻礼次郎について、暇なとき、折に触れて読んだり考えたりなんだりしているんである。
●そもそも、若槻礼次郎って誰??
若槻礼次郎(1866-1949)は、現在の島根県、松江藩出身で、明治から昭和にかけての官僚・政治家。下級武士の生まれながら、江戸幕府の崩壊後、急速に近代化する日本において学問と才覚で二度までも総理大臣になった、ある意味、立志伝中の人物だ。
若いときは貧困も味わい、苦学こそしたが、その足跡はブリリアントとすら言える。
帝国大学法科(現、東大法学部)を100点満点の98.5点という驚異的な成績で主席卒業し、大蔵省へ。大蔵省では主税局長、次官を務め、桂太郎や西園寺公望の知遇を得る。その後桂内閣、第二次大隈内閣で相次いで大蔵大臣に。桂亡き後、桂の新党構想を事実上継承した加藤高明らの憲政会設立に参画して副総裁を務め、政党政治家へ。
加藤高明内閣で内務大臣を務めたが、加藤の在任中の死を受けて、加藤から憲政会総裁を継ぎ、大命を受け組閣する。その後、台湾銀行の不良債権問題の処理で枢密院と対立して退陣。対立党である政友会の田中義一政権を経て、憲政会改め民政党の濱口雄幸内閣では、入閣こそしなかったものの、全権としてロンドン軍縮条約をまとめ上げた。
ところが、濱口首相が襲撃されて重傷を負い、その傷がもとで死去すると、民政党総裁に推され、再度の大命降下。第二次内閣を率いる。1931年、関東軍の暴走による満州事変とその拡大に対し、後手に回りつつなんとか収拾を図るも、閣内の安達内相の造反とその行動を止められず、内閣総辞職に。
以後、政界の一線からは退いて実権を手放し、総理大臣経験者の重臣として総理大臣の選定の諮問などに関与しつつ、対中国および対米国への戦争にひた走る日本の現状に憂悶を抱きながら、敗戦後まで生き、大往生を遂げる。
明治期に少年時代を過ごし、立身出世し、国政における最高の地位を経験したにも関わらず、満州事変や、安達内相の造反、そして軍部の台頭による対米戦争への道を止められなかった優柔不断な政治家。そう描かれがちな若槻礼次郎なんである。
●若槻にとっての地位と権力。合理性の延長かつかりそめ
若槻礼次郎は、次官、大臣、総理大臣と権力者の座を駆け上がるわけだが、そこに権力を狙う意図や行動がほとんど見られず、ほぼほぼ受け身であるのは、面白くあり、特徴的でもある。
それは、同時代の政治家たちの中でも、異色である。
桂太郎は、特に晩年、元々は自分の庇護者であった元老・山県有朋による掣肘に苦しみ、陰に山県と争うとともに、ついには自ら政党の組織を決意した。地位や権力に恬淡として見える西園寺公望も、自ら率いる政友会において、原敬による党勢拡大を邪魔することなく利用するとともに、晩年は元老としての自分の威厳や影響力が傷つかぬよう、細心の注意を払っていた。
政敵である原敬は、政友会の党勢拡大と反対党の牽制に心血を注ぎ、そのためには、政党政治に批判的な元老・山県の歓心を得ることにきめ細かく神経を使い、山県および山県の軍部と官界の派閥からの暗黙の支持を維持した。
党派を同じくする加藤高明は、義実家である三菱財閥の財力と大隈重信の国民的支持を背景に、元老たちの権力に果敢に挑戦し、結果的には奏功しなかったものの、その影響力減殺を試みた。やはり濱口雄幸も、ロンドン条約の批准などで枢密院と争い、その権力闘争に勝利した。
若槻の政治的キャリアには、このような、地位や権力を獲得維持するための闘争がほぼほぼ出てこない。第一次内閣では、枢密院との亀裂が修復不可能と見るや、対決や妥協を避けて総辞職を選んだ。第二次内閣でも、閣内の安達謙蔵内相の造反に手を焼き、なす術無く総辞職を選んだ。そこに、自己を賭けての権力闘争は無かった。
そもそも、二度の総理大臣就任も、それぞれ加藤の死と濱口の遭難に基づく偶然かつ事実上の禅譲であり、若槻自身が強く望んで就任したものでは無かった。
それ以前も、西園寺に使われ、桂に使われ、大隈に使われ、加藤に起用され、都度都度の課題解決で有能さを示すことで、それに相応しい地位を授けられることになった。若槻の場合は、それが次官や大臣という高官だったに過ぎない。
若槻にとっては、権力闘争というより、大蔵省や内務省などの目の前に山積する仕事を制度に従いつつ目的を達成べく、合理的にこなしていたら、いつの間にか地位が上がっていった、的な感じだろう。そのような成功体験を持つ若槻だからこそ、地位や権力は、自分自身で得たものでは無い、どこかかりそめのようなものだったのではなかろうか。
その高い実務能力で常に地位と権力を振るえる地位と仕事を与えられてきた若槻にとって、権力を獲得し維持するという、政治家ならある意味当然の行動は、頭ではわかっていても、目の前の仕事の合理性の埒外にあり、必ずしも腑に落ちるものでは無かったのではないかと思われる。
そのような地位や権力に対する姿勢が、原敬や加藤高明や濱口雄幸に比べ、政治家としての感情や情念の不足、あるいは優柔不断のように見られている背景にあるような気がするのである。
●昭和における軍部の台頭。非合理な権力意思・暴力との対峙
目の前の仕事を合理的に捌くことで成功してきた若槻礼次郎にとって、昭和における軍部の台頭への直面は、とてもとても不本意な事態だったろう。
それは、裸の暴力による威嚇とその行使という、政治における権力闘争をはるかに超えて、憲法はじめ法秩序を無視した、非合理な世界に他ならなかった。
事実確認と調整に手間取り、責任追及が曖昧かつ限定的なまま幕引きされた張作霖爆殺事件を皮切りに、満州事変、5.15事件、2.26事件など相次ぐ軍部の法秩序無視。法秩序だけでなく、ときには大元帥である天皇の意向にすら明白に逆らった軍部の実力行使と既成事実作り、そして広田内閣時の陸海軍大臣現役武官制を橋頭保にした軍部の政治権力の行使は、日本を、日中戦争と太平洋戦争に追いやって行く。
さらにしんどいことに、そのような非合理な法秩序無視の背景には、若槻自らがその旗頭でもある、スキャンダルや経済失政など、政党政治に対する国民の鬱々たる不満と幻滅が存在し、軍部の非合理を民意で後押しすらしていた。
若槻は、そんな軍部の台頭が国政で表面化した満州事変に対し、総理大臣として局に当たることになる。結論から言えば、若槻礼次郎は、軍部の台頭に対し、当局者として有効な手立てを打てなかった。
満州事変において、9か国条約などの国際条約違反の疑いがあることから、若槻内閣は早々に不拡大方針を定めた。しかし、板垣征四郎と石原莞爾に動かされた現地関東軍は政府のいうことを聞かずに占領地を広げていく。あまつさえ、林朝鮮総督が、天皇の命令も無しに軍を満州に移動させてしまう。
そこにあるのは、大日本帝国の、天皇の軍隊ではなく、もはや賊軍だ。
しかし南陸軍大臣も金谷参謀総長も、それを止めることができない。それどころか、現地軍への補給を継続させるために、参謀総長は、若槻に対し、閣議決定により臨時の政府支出を求めたのである。
若槻は、一部閣僚たちの反対を押し切り、政府支出を追認した。回顧録では、その理由につき、「出兵した後にその経費を出さなければ、兵は一日も存在できない」「満州軍が・・・(中略)・・・絶滅されるようなことになるかもしれん」「日本の居留民たちまで、ひどい目に遭うにちがいない」など、述べている。
満州軍の存続や居留民への配慮等、理由は、確かに理にかなっている。しかし、その根底に、国内外の法秩序に反した軍の行動という、非合理極まる事態が発生していた。若槻は、その非合理に目をつぶり、目先の合理性を選んだ。結果、国内法と国際法に違反する疑いが濃厚な関東軍による満州占領は既成事実となり、日本において軍隊が法と政府を無視する成功体験となるのである。
当時の若槻の対応については、後世からの批判も多い。若槻が、テロによる我が身の危険を恐れたためという批判もある。若槻が満州事変において暴走する関東軍にいわばお墨付きを与えたのは事実だろう。そこは、国政の責任者として批判は免れまい。ただ、若槻がどこまで軍に抵抗できたかは、個人的には微妙に思うのである。
法秩序に則り、合理的に仕事を進めることで、国内の政治権力闘争を意識することなく権力を握る立場になった若槻には、おそらく、軍部という暴力による非合理な権力奪取が、イメージできてなかったのではないか。つまり、満州事変での軍部への譲歩が、目前の関東軍対応を意味するだけでなく、以後、国内外の法秩序が暴力と既成事実で掘り崩されることへの、絶望的な鈍感さがあったのではないかとは思う。
また、実際に若槻が政府支出を止めようとし、そのような判断をしたとしても、その意思がどこまで貫徹されたかも、微妙に思う。
山県のような軍・官界への派閥網や、原敬のような軍へのパイプも無く、ある程度カネを動かせる加藤や濱口のような自党員からの支持も無く、選挙による民意も望み薄な若槻にとって、権力の源泉は法秩序に基づく己の地位しか無かった。しかし、法秩序をハナから無視する軍隊という相手に、地位だけで権力を行使することは、不可能だっただろう。
若槻が政府支出を拒めば、おそらく、陸軍大臣が反対して閣内不統一で総辞職を余儀なくされるか、陸軍大臣が辞任したとしても、後任の陸軍大臣選定で難航し、いずれにせよ、若槻内閣の総辞職は免れなかったと思われる。
ともかく、満州事変での政府支出の後付けを認めた若槻内閣は、その後、他党との連合内閣を模索する安達内相の造反に対しても有効な手を打てず、閣内不統一で総辞職。若槻は、政治の一線から退き、以後は総理経験者である重臣として、天皇およびその周辺の諮問にあずかることになる。
日米開戦前やその間も、日本の国力と戦争遂行能力の限界に関する若槻の見通しは、憎らしいくらい合理的で、ときおりの意見交換等の場で、戦争指導に腐心する東条英機首相を悩ませたが、もはや当局に無い若槻ができることはほとんどなかったと言ってよいだろう。
法秩序による合理性が暴力による既成事実に敗れたと言っても過言ではない、若槻の満州事変対応。若槻による有能さゆえの誠意と合理性が、軍部の文字通りの暴走である満州事変を追認し、軍部による日本政治のコントロールに一歩近づけてしまったのは、やはり否めないのである。
●若槻礼次郎と現代の憲法秩序
若槻礼次郎ほどの知性や見識や合理性を持つ政治家は、当時、そうはいなかっただろう。しかし、若槻には満州事変を止めることができなかった。
若槻は、おそらく、己の力の限り誠実かつ合理的に動いたが、それは、法秩序の中における閉じた合理性の枠を出るものでは無かった。国民の熱狂を背景にした軍部による外からの無自覚な法秩序の破壊に対し、新しい秩序を示し、それを国民に訴求し対抗することは、若槻のみならず、当時の日本の政治家が誰も為しえなかった。
若槻礼次郎の栄達と挫折は、政治が、おそらく知性や見識や合理性だけのものではないことを、なんとなく教えてくれる。では、他の要素は、いったいなんなんだろう。
法秩序によって構成される政治に合理性は不可欠に違いない。しかし、政治の根底に人々の有象無象の不満やその裏返しの権力意思があり、しかもそれが組織的かつ非合理な暴力行使と結びついた場合、合理性をどうやって守るのか。プリミティヴな場面で、法秩序が裸の暴力に打ち負かされそうなとき、合理性は、どのようにそこに立ちはだかるべきか。
そこには、既存の法秩序の合理性を超えた、別次元での合理性が必要なのかもしれない。それは、一般的な意味としては、非合理にも見えるだろう。しかし、合理性を守るためにも、ある非合理と戦う別の非合理が必要になるときがあるのではなかろうか。それを支えるのは、政治指導者個人の信念であり、情念であり、感情なのではなかろうか。
とっぴだが、昭和戦前の日本には、己の情念でもって、法や制度そのものをひっくり返したり新たに作ったりするような指導者、例えば、西郷や大久保、伊藤や山県などのような存在が、いなかったと言えるのかもしれない。
さて、最後の元老・西園寺公望が憂いた昭和日本は、政党政治の崩壊と軍部による国政壟断を通じ、大日本帝国憲法の空白による国政の機能不全を余すところなく露呈させ、対米戦争での敗北を余儀なくされた。明治以降からの細々と生き残った立憲政治や民主政治運営の伝統だけでは足りず、占領軍の力を借りて作られた戦後日本。
敗戦後の日本は、太平洋戦争での敗北から学び、無秩序な非合理や暴力を、できるだけ法秩序の合理性の中に取り込もうと、紆余曲折を経つつ、80年以上営為を続けてきているように見える。
現在の憲法改正や、集団的自衛権行使などの安全保障論議もその一環だろう。危機時における軍事力という、いわば裸の暴力を、いかに憲法秩序の枠内に収めるか。そのためには、国は何のために、どのような軍事力をどの程度保有し、それがどんな場面で利用されるのか、合理的にして、緻密かつ繊細な議論が必要になろう。それこそ、知性や見識が必要だ。
若槻の合理性に裏打ちされた知性や見識は、大日本帝国憲法ではなく、むしろ、そう簡単には揺るがない実績を持つ日本国憲法を軸とした法秩序の中でこそ、生きたのではないだろうかとすら、思わないでもない。
若槻礼次郎の回顧録『明治·大正·昭和政界秘史: 古風庵回顧錄』を読んだり、同時代の歴史を読んだりなんだりしていると、折々、そのような、政治における合理性をつらつら考えさせられてしまうのである。
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