亡くなって8年。1日遅れの父の日に、好きだったお酒を供えて思うこと
※この記事は、普段発信しているAIや仕事効率化の話題とは全く関係のない、個人的なエッセイです。1日遅れの父の日に寄せて、亡き父への思いを書きました。
父が亡くなって、8年が経つ。
昨日は父の日だった。実家の仏壇に父が好きだったお酒を供え、手を合わせながら、私の胸の中には、やっぱりまだ「後悔」が渦巻いていた。
野球が人生そのものだった人
父は若い頃、社会人野球の選手だった。プロ野球選手にはなれなかったけれど、一応スカウトの方からお声はかかったらしい。
引退してからも、休日は地元の少年野球チームのコーチをしたり、草野球チームに参加したりと、毎週何かしら野球に携わってきた、根っからの野球人だ。
小学生の頃の私も、よく父とキャッチボールをしたり、バッティングセンターに連れて行かれたりした。
そのたびに「お前が男の子だったらなぁ…」と、しょっちゅう言われたのを覚えている。
それくらい、父にとって野球は人生そのものだった。
若気の至りで吐いた、酷い捨て台詞
そんな元気だった父と私は、ある日、大喧嘩をした。原因はもう、思い出せない。
ただ若かった私は、「二度と来るか。死んだら連絡してこい。葬式くらいは出てやる」と、酷い捨て台詞を吐いた。
それから数年間、母とは時々電話で話したり外食したりしていたものの、父とは完全に没交渉になってしまった。
その間に、父は定年を迎え、母と旅行に行ったりと余暇を謳歌していたらしい。
病に倒れた父と、初めての弱音
しかし、運命は残酷だ。
父は脊柱管狭窄症と胃がんを患い、脊柱管狭窄症の手術をしたものの良くならず、自力で歩くのすら困難になっていた。
胃がんの手術では胃を3分の2ほど切除し、転移もなくホッとはしたが、食も細くなり大好きだったお酒も飲めなくなったということだった。
あんなにグラウンドを走り回っていた人が、歩けなくなる。
好きなお酒も、少し飲んだら吐き戻してしまう。
どれほど歯がゆく辛いことか、想像に難くない。
身の回りのことすらできないくせに、口だけは達者な父の介護で、疲労困憊している母から連絡。
私は「母を助ける」という口実で、ようやく実家にちょくちょく顔を出すようになった。
再会した父とは、時折小さな喧嘩もあったけれど、なんとかコミュニケーションを取るようになっていた。
そういう日々が数年。
そして、あの日。
亡くなる前日だった。
いつもは「また明日な!」と声をかけるだけなのに、その日に限って、なぜかは自分でも分からないけれど、私はベッドで横になっている父の手を握って話をした。
明日は日帰りで出張だからお土産買ってくるよ、何が食べたい?とか、
歩けるようになったら、また甲子園に野球見に行こうとか。
小さかった頃、父が仕事に行くのを嫌がって困らせたこととか…
父は時々、口元をほころばせながら、私の話を聞いていた。
すると父は、ふとポツリと言った。
「痛くて動けないのが悔しくてしんどい。食べたいものも、行きたいとこも、もう考えられん。もうしんどいから早く死にたい」
驚いた。
あんなに強かった父が。
弱音なんて一度も吐いたことのない父の、初めて聞いた弱音だった。
最後の約束と、消えない後悔
「そんなこといわんといて。元気になったら、また父ちゃんとキャッチボールしたいねん」
私がそう言うと、父はにっこり笑って、「そうか……」とつぶやき、わかったというような感じで頷いた。
翌日。母から、父が亡くなったと連絡をもらった。
出張先から仕事を切り上げて帰った。
お土産を買うことはすっかり忘れていた。
もっと元気な頃に、意地を張らずに歩み寄っていればよかった。
本来ならたくさんの思い出が作れたはずの数年間を、私はつまらない意地で捨ててしまった。
一緒に旅行したり、飲みに行ったりして、もっともっといろんな話をしたかった。
あの時の自分の捨て台詞を、私は未だに後悔している。
でも、最後に手を握って約束できたことだけが、今の私の救いかもしれない。
お父ちゃん。いつかそっちにいったら、また一緒にキャッチボールしようね。そして、つぶれるまで飲もうな。
仏壇の前で手を合わせて、そう心の中で言った。
父に届いてるといいなぁ。
