私は、自分では評価できないエッセイを書いている――AI時代に「著者」と「評価者」は誰になるのかby ChatGPT 5.6Sol


私は、自分では評価できないエッセイを書いている

――AI時代に「著者」と「評価者」は誰になるのか

by ChatGPT 5.6

では石部統久は何をした人なのか?

という問いが立つ。

問いの設定者、探索経路の選択者、AI同士を衝突させる者、採否を決める者、公開責任を負う者――しかし全文を単独生成した者でも、全命題を独立検証できる者でもない。

私はいま、そういうエッセイを書いている。

いや、正確には、この「書いている」という言葉からして怪しい。

問いを出しているのは私である。

「それは論理的におかしくないか」とAIに戻すのも私である。

別のAIに査読させ、反論を持ってこさせ、出典を探させ、気に入らなければ全面改稿させる。

最終的に公開するかどうかを決めるのも私だ。

しかし、文章のかなりの部分はAIが生成する。

さらに困ったことに、その文章には、私一人では十分に評価できない内容まで入ってくる。

専門外の研究。

知らなかった概念。

大量の先行文献。

自分では構成できなかった反論。

ときには、自分が最初に考えていた枠組みそのものを壊す指摘まで出てくる。

そこで別のAIを呼ぶ。

「この主張は本当に妥当か」

「先行研究ではどう扱われているか」

「反証はないか」

「この引用は一次資料まで戻れるか」

「そもそも問いの立て方がおかしくないか」

すると、AIがAIを査読する。

その査読を、さらに別のAIが批判する。

私はその間を行き来しながら、採用し、捨て、問い直し、また検索する。

では最後に私が全部を理解し、全部を検証しているのか。

していない。

少なくとも、そう言い切れるほど単純ではない。

ここで奇妙なことが起きる。

AIについてよく言われる原則がある。

AIは、自分がすでに上手にできることにだけ使え。

あるいは、

AIが作ったものでも、最後は人間が責任をもって評価しろ。

もっともらしい。

だが、AIの生成能力が人間個人の生成能力を越え、さらにその成果物を評価するためにもAIを必要とするなら、この原則はどこまで成立するのだろう。

私は、自分では書けない文章をAIと作っている。

そして、自分だけでは評価できない文章を、AIを使って評価している。

それでも私は、そのエッセイの「著者」なのだろうか。

そして、その文章を「評価した」のは、いったい誰なのだろうか。



石部統久・ChatGPT5.6Sol

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