マリアージュ 03 | ニース風サラダ
世田谷・用賀のビストロで、著者は「写ルンです」を手にする若者たちの姿から、現代における「エモい」の正体を考察する。
デジタルネイティブであるZ世代が、あえて不便なアナログカメラや「ダムスマホ」を支持するのは、単なる懐古趣味ではない。それは、あらゆる摩擦が消去され、タイパと標準化が極限まで進んだ現代社会に対する、知的で切実な生存戦略である。即座に結果が出ない「待つ時間」や、加工できない「不完全なノイズ」の中に、彼らは情報の洪水から切り離された人間的な情緒と、今この瞬間に集中するマインドフルネスを見出しているのだ。
この「標準化への反動」という構図は、料理や建築の歴史にも通じる。エスコフィエがフランス料理を型に嵌めたからこそ、現代のナチュラルワインの自由さが輝くように、強固な利便性のインフラがあるからこそ、あえて選ぶ「不便さ」が究極の贅沢として機能する。
著者は、若者たちがシステムの土台を享受しつつ、そこから「型を外す」遊びを楽しむ姿に、近代合理主義への敬意を孕んだ現代的な知性を見る。不自由さの中にこそ真の自由があることを、彼らは直感的に選び取っているのである。
エモい、の輪郭
飾らない日常
初夏の柔らかな光が、世田谷区・用賀中町通りの街路樹を鮮やかな新緑に染め上げている。
お気に入りのビストロのテラス席に腰を下ろし、通りを行き交う人々を眺めるのが、私のささやかな休日のルーティンだ。テーブルの上には、ガラスの器に盛られた色彩豊かなニース風サラダと、結露したグラスが置かれている。
ふと視線を上げると、小洒落た古着を身にまとった二十代とおぼしき若い二人組が、私のテラス席の前で足を止めた。一人がポケットから取り出したのは、スマートフォンではない。緑と白の懐かしいプラスチックの塊――富士フイルムの「写ルンです シンプルエース」だった。
カチカチ、カチカチ。
静かな通りに、ダイヤルを巻き上げる小気味よいプラスチックの音が響く。
彼はファインダーを覗き込み、ポーズを決めるわけでもない友人の、ただ歩いているだけの横顔に向けてシャッターを切った。バシャリという軽いプラスチックの駆動音。そこには、SNS用に計算された完璧な笑顔も、不自然な美肌加工もない。ただの、飾らない日常が切り取られた。
彼らはこうした瞬間を「エモい」と表現する。
生まれた時から高画質なデジタル画像に囲まれてきた彼らにとって、加工も修正もできない、剥き出しの不完全な日常のひとコマこそが、今や最も手に入りにくい、特別に輝く宝石なのだ。
見えない時間が育む
現代のスマートフォンカメラは優秀だ。
シャッターを押したその一瞬で結果が画面に表示され、気に入らなければその場でゴミ箱へ捨て、何度でもやり直すことができる。しかし、彼らの手にあるアナログカメラには液晶画面などない。暗箱の中に閉じ込められた光の記憶は、レンズを通したその瞬間のまま固定され、現像という物理的なプロセスを経るまで、人間が関与することを許さない。
この「すぐ確認できない不便さ」にこそ、実は現代の若者たちが惹かれる愛おしさの正体がある。撮った写真を見るためには、三軒茶屋や渋谷のカメラ店へわざわざ足を運び、現像代を払い、仕上がりを待たなければならない。光漏れで全滅しているかもしれないというリスクすら、そこには内包されている。
すべての物事が即座に結果を求め、効率を競い合う現代社会において、この「結果が宙ぶらりんのまま待たされる時間」は、若者たちにとって一種の救いとして機能しているのではないだろうか。
不完全であること、思い通りにならないこと。私たちがかつて必死に脱却し、過去のものとして葬ろうとしたあの「不便さ」の中に、デジタルネイティブの彼らは、機械には代替できない人間的なロマンと情緒を見出しているのだ。
ファインダーの向こうに
これは単なる過去への懐古趣味(ノスタルジー)ではない。
彼らにとってのアナログな不便さは、「今、ここ」に自分の意識を集中させるための、極めて現代的なマインドフルネスの手段なのだ。
私たちは日常的に、スマホのスクリーンタイムに支配されている。数分おきに通知が鳴り響き、意識はインターネットの向こう側にあるタイムラインへと常に誘拐され続けている。そんな脳の過覚醒状態から抜け出すために、彼らはあえて不便なガジェットを手に取る。
「写ルンです」の小さなファインダーを覗くとき、彼らはデジタルの喧騒から物理的に切り離される。
ピントが合っているかも分からない、やり直しのきかない一発勝負。だからこそ、その瞬間の友人の髪の揺れ、用賀の街を流れる風の匂い、肌に当たる日差しの強さに、全神経を傾けることになる。
ダイヤルを親指で巻き上げる時の、あの確かな指先の抵抗感。それは、バーチャルな情報の洪水の中で、自分の存在がどこか希薄になっていく不安を覚えがちな彼らが、物質世界と自らの身体性をしっかりと繋ぎ止めるための、静かな瞑想の時間なのだ。
利便フレーション
摩擦のない世界が退屈だ
ビストロの店員が、きりりと冷えたロゼワインをグラスに注いでくれた。
美しいサーモンピンクの透き通った液体を揺らすと、ベリー系の爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。
グラスに口をつけ、心地よい酸味を楽しんだ後、再び用賀の街に目をやる。歩行者の多くが、片手にスマホを持ち、画面をスクロールしながら歩いている。
現代は、あらゆる「摩擦」がテクノロジーによって消し去られた世界だ。移動、買い物、コミュニケーション。すべてがスムーズで、最適化されている。映画は倍速で消化され、音楽はサビだけが聴かれ、検索すれば一秒で「正解」のテキストがディスプレイに踊る。タイムパフォーマンスを極限まで追い求めた私たちは、確かにかつてない便利さを手に入れた。
しかし、その摩擦のない世界の先に待っていたのは、満ち足りた幸福感ではなく、ひどく平坦で味気ない退屈と、どこか拠り所のない慢性的な不安だった。失敗のない選択、ストレスのない人間関係。すべてがオートマチックに流れ去っていくからこそ、私たちは「自分が今、ここで選択し、生きている」という手応えを、少しずつ摩耗させてしまっているのかもしれない。便利さのインフレは、皮肉にも私たちの世界の彩りを奪いつつある。
ピンボケ?
だからこそ、Z世代の若者たちは、デジタルの世界が切り捨てた「エラー」や「ノイズ」を愛好し始めた。
彼らが好むオールドコンデジやフィルムの写真には、現代のAIカメラなら「失敗」と判定するような要素が溢れている。
キヤノンの古い「IXY Digital」でフラッシュを焚いて撮った写真の、背景が真っ暗になり被写体だけが不自然に白飛びした質感。あるいは、フィルム特有の、ざらざらとした粒子感や強烈な手ブレ。
しかし、彼らはその「失敗」を「味」として肯定する。Instagramに溢れる、計算し尽くされた美しさや、完璧に補正された世界というプレッシャーから、ピンボケの写真が彼らを優しく解放してくれるのだ。間違えてもいい、思い通りにならなくてもそれはそれで美しい。
その寛容さは、常に他者からの評価に晒され、張り詰めた生活を送る彼らにとって、どれほどの救いになっているだろう。サラダのみずみずしいトマトをフォークで刺しながら、私は若者たちのクリエイティビティの根底にある、脆くも切実な自己防衛の優しさを思わずにはいられなかった。
現像を待つ、というサスペンス
利便性のインフレが私たちから奪った最たるものは、「待つ」という行為に伴う純粋なエンターテインメント性だ。メッセージを送ればすぐに既読がつき、返信が遅れるだけで焦燥感を覚える現代。そのスピード感に疲弊した若者たちは、あえて結果を焦らすサスペンスを、自らの日常にアトラクションのように組み込んでいる。
フィルムを現像所に預け、ポケットに引換券をしまい、数日間を過ごす。その間、彼らの脳内では「あの時の光は綺麗に写っているだろうか」「現像に失敗して、真っ黒な一コマになっていないだろうか」というポジティブな想像力が、静かに、しかしドラマチックに膨らみ続けている。
すべてがオンデマンドで即座に手に入る時代だからこそ、あえてアクセスを制限し、手に入るまでの時間を引き延ばす。結果がすぐに出ないからこそ、そのプロセスそのものに意識が集中し、日常に心地よい起伏が生まれる。
待つことそのものを贅沢なエンタメとして楽しむ心の余白を、Z世代はアナログなガジェットを通じて、自らの手で鮮やかに再発明しているのだ。
飽和から生まれる螺旋階段
「選べる不便」
ここで私たちが明確に認識しておくべきなのは、彼らのアナログ回帰が、決して「文明を捨てて不便な過去の時代に逆戻りしたい」という極端な思想ではないという点だ。
彼らは平日の大学や職場では、MacBookを使いこなし、ChatGPTにレポートの構成を相談し、Uber Eatsで効率的に食事を済ませる。音楽のディグにはSpotifyのアルゴリズムをフル活用している。
つまり、彼らは「便利さ」という現代社会の強固なインフラをベースとして100%享受しているからこそ、週末の趣味やエンタメとして「不便さ」をプレミアムな価値として贅沢に消費できるのだ。これは、歴史上最も進化した、究極の贅沢と言えるだろう。
もし、本当にスマホもPCもない、情報へのアクセスが物理的に遮断された不便な時代に強制的に戻されたなら、それはただの生活苦であり、不自由という名のストレスでしかない。
いつでもデジタルの安全地帯に逃げ込めるという確信があるからこそ、アナログの不便さは、心地よいエンタメとして輝く。文化というものは、利便性が完全に飽和し、行き着くところまで行った後に、あえてそのアンチテーゼとして逆方向へと螺旋階段を登るように進化を始めるものなのだ。
枠組みが照らす、枠外の光
この「徹底的な標準化(グローバリズム)から、愛おしい多様性(ローカリズム)への回帰」というダイナミズムは、人間の文化の歴史において、何度も繰り返されてきた普遍的なパターンである。
世界中のあらゆる都市が、同じ建築、同じチェーン店、同じマニュアルで均一に塗りつぶされたとき、私たちは初めて、そこからこぼれ落ちてしまった「その土地ならではの歪み」や「地域固有の不完全な美しさ」の価値に気づく。
厳格な枠組みやルールが存在するからこそ、私たちはそこから自由になること、あるいはその枠の外に出ることの、強烈な解放感とエロティシズムを知るのだ。もし最初から枠組みが存在せず、誰もがバラバラに自由だったなら、現代の「ローカル」や「アナログ」は、単なるあか抜けない、洗練されていない雑音として埋もれていただろう。
完璧に整備された世界基準という、美しくも冷徹な巨大な壁がそびえ立っているからこそ、その壁の隙間から漏れ出す小さな光、ルールに縛られない個人の匂いが、これほどまでに新鮮で、価値あるものとして現代人の目に映るのである。
ルールブレーカー
テラス席を行き交う若者たちを眺めていると、彼らが非常に知的な「ルールブレーカー(型破り)」であることに気づかされる。
彼らは、古い世代が血の滲むような努力と合理性によって作り上げてきた「正解のシステム」を、ただ盲信するわけでも、あるいは浅はかに全否定するわけでもない。その完成された強固な土台をちゃっかりと利用しながら、「あえて型を外す」という大人の粋な遊びを、ごく自然に、カジュアルに実践しているのだ。
彼らの紡ぎ出す創造的なユースカルチャーは、近代が築き上げた合理主義やシステムに対する、最大のリスペクトとユーモアを含んだアンチテーゼなのである。
壊すべき、あるいはハックすべき美しいルールが目の前に存在すること。それ自体が、現代の若者たちに与えられた、大いなる文化的な特権なのかもしれない。
彼らは、ルールがあるからこそ、それを破るスリルをデザインできる。そのスマートな反逆の姿勢に、私は深い感銘を覚えざるを得ない。
エスコフィエからの解放
ジャガイモ論争
視線をテーブルの上の皿に戻す。
私が今、用賀のビストロで食べているニース風サラダを観察すると、トマト、黒オリーブ、ゆで卵、アンチョビ。そしてそこには、丁寧に角切りにされ、絶妙な硬さに茹で上げられたジャガイモと、鮮やかな緑色のインゲンが入っている。
実はこれこそが、19世紀末から20世紀初頭にかけてフランス料理の近代化を推し進めた巨匠、オーギュスト・エスコフィエが著書『ル・ギード・キュリネール(料理の手引き)』の中で厳格に定義したレシピの様式美なのだ。当時、このエスコフィエの定義に対し、本場南仏ニースの地元民は激怒した。「伝統を汚された!」「生の地場野菜の瑞々しい水分とオリーブオイルの調和を楽しむのが我が町の誇りなのに、なぜ茹でたジャガイモなどという重い澱粉質を入れるのだ!」と。
しかし、エスコフィエは厨房のオペレーションを効率化し、世界中のどの高級ホテルでも同じクオリティのフランス料理を提供するための「国際基準のマニュアル」を作るために、あえてこの加熱した野菜をレシピに組み込んだ。
この厳格な定義と標準化があったからこそ、ニース風サラダの名はフランスの一地方料理を超え、世界中で愛される定番メニューとして世に知らしめられたのである。
二つのロゼ、二つの流儀
そして、このエスコフィエ流のサラダに合わされている私のグラス。
ここにも面白いドラマがある。
もしこれが完璧なクラシック・フレンチの様式美を貫くならば、合わせるべきはAOC(原産地呼称統制)制度の厳格な規定をクリアした、最高峰のプロヴァンス・ロゼだろう。例えば「ドメーヌ・オット」の「シャトー・ド・セゼル」。完璧に温度管理され、雑味を一切削ぎ落とした、クリーンでスタイリッシュな王道の味わいだ。それはヴィネグレットソースの酸味やジャガイモの澱粉質と完璧に同調し、洗練された宮廷の調和を見せる。
しかし、今日私がこのビストロで選んだのは、あえてAOCの格付けを捨て、「ヴァン・ド・フランス(テーブルワイン)」としてリリースされた、ルーション地方の野生酵母によるナチュラルワイン、ドメーヌ・マタッサのロゼだ。少し濁りのあるチェリーピンクの液体からは、イチゴのような果実味と共に、出汁のような深い旨味と野生ハーブの香りが立ち上る。
昨今の地産地消・伝統回帰の流れを汲む、生のパプリカやアーティチョークを使った「オーセンティックなニース風サラダ」には、この野生味溢れる自然派ロゼの生命力が驚くほど寄り添う。新旧二つのマリアージュは、どちらが優れているかという議論ではない。
エスコフィエの標準化という大いなる歴史のうねりがあったからこそ、その反動としてのナチュラルワインという現代の自由が、より深く、美味しく感じられるという、地続きのストーリーなのだ。
麦汁とコンクリート
こうした「標準化と反動」のシンクロニシティは、料理の歴史だけにとどまらない。建築の世界において、ル・コルビュジエが「住宅は住むための機械である」と宣言し、鉄とガラスとコンクリートによる機能主義建築(モダニズム)で世界中の都市を四角い箱で塗りつぶしたからこそ、現代の私たちは、隈研吾氏が手がけるような、その土地の木材や土壁を使った「地産地消の建築」に強烈な癒やしと美を見出すようになった。サヴォア邸の完璧な水平連続窓という世界基準があったからこそ、ローカルな素材の温かみが際立つのだ。
また、ビールにおける1516年のバイエルン公国による「ビール純粋令」も同様だ。
「麦芽、ホップ、水、酵母以外を使ってはならない」というあまりにもストイックな規制が、ドイツビールを世界一クリーンなブランドに育て上げた。しかし、その完璧すぎるラガービールの均一さに飽きた現代のクリエイターたちが、地元のフルーツやスパイス、野生酵母をぶち込む「クラフトビール・ムーブメント」を起こし、世界を再び多様な色彩で満たしている。
すべてはエスコフィエのサラダと同じ構造なのだ。偉大なる先人たちが一度、世界をカチッと標準化し、底上げしてくれたからこそ、私たちは今、その安全な土台の上で、自由な反動という名の果実を、知的に楽しむことができるのである。
今、最もピュアなライフスタイル
境界線を取り戻す
用賀の街並みを、涼やかな夕暮れの風が吹き抜けていく。テラス席から見える若者たちの楽しげな表情を観察しながら、私は先ほどのナチュラルワインの造り手たちの姿をそこに重ね合わせていた。
彼らが実践している一見アナログで非効率な行動の数々は、決して後ろ向きの退行ではない。デジタルテクノロジーによって世界のすべての境界線が溶け合い、地球規模で均一化し、24時間いつでもどこでも他者と繋がりすぎてしまった現代において、自らの手で「心地よい境界線」をもう一度引き直すための、非常に前向きで知的なステップなのだ。
インターネットという広大すぎるグローバルな海で迷子にならないために、あえてフィルムカメラという不自由な道具を使い、自分の目の前にある「半径数メートル以内の現実」に世界のサイズを縮小する。
それは、自分自身の精神の主権と領土を守るための、現代の若者なりの賢明な生存戦略なのだ。その姿は、私にとって非常にピュアで、かつ健気なものとして映る。
ポケットの中の、つながらない自由
その象徴とも言えるのが、欧米のZ世代の間でも急速に支持を広げているという、機能を最低限に制限した「ダムスマホ(ミニマルフォン)」への乗り換えムーブメントだ。「Punkt.(プンクト)」や「Light Phone」といった、通話と最低限のテキストメッセージしか送れないモノクロ画面の端末。
アルゴリズムが秒単位で私たちの注意力を奪い、広告と他人の幸福なタイムラインで埋め尽くされたスマートフォンの奴隷になることから、彼らは自らの意志で脱却しようとしている。ポケットの中に「つながらない自由」を忍ばせることで、彼らはようやく、目の前の友人の顔を真っ直ぐに見つめ、用賀の街を流れる雲の動きを、なんのフィルターも通さずに(unfiltered)五感で味わうことができるようになる。
いつでも繋がれる便利さを一度手放し、あえて一時的な孤立という不便さを選択する。その不自由さの闇の中にこそ、誰にも侵されることのない本当の自由と静寂の光があることを、デジタルに疲れ切った若者たちは直感的に、そして誰よりも深く嗅ぎ取っているのである。
用賀のテラスで、世界の呼吸を聴く
サラダの底に残った最後の黒オリーブをフォークですくい、口に運ぶ。オリーブ特有の心地よい苦味と塩気が、マタッサのロゼワインの持つ滋味深い旨味と溶け合い、口の中で完璧なフィナーレを迎えた。
用賀のビストロのテラス席という、世田谷の日常の片隅で、通りを歩く若者たちの「写ルンです」の巻き上げ音に耳を傾け、歴史に思いを馳せたこの瑞々しい昼下がり。若者たちがフィルムカメラに求める「不完全なエモさ」も、私が今楽しんでいるナチュラルワインの「型破りな美味さ」も、そしてエスコフィエがかつて激論を巻き起こしながら定着させた「ジャガイモ入りのレシピ」も、すべては文化の進化という一枚の大きなタペストリーを織り成す、地続きの糸だった。
規制があるからこそ、私たちはそれを壊す快感を知る。標準があるからこそ、私たちはそこから外れる個性の温かさに涙する。若者たちがアナログな不便さに求めている癒やしとマインドフルネスの根底には、人類が何百年もかけて築き上げてきた「便利さという名の偉大なルール」への、無意識の信頼とリスペクトがあるのだ。
エスコフィエが料理を定義してくれたからこそ、今の私は、この自由で不完全なローカルの美しさを、誰よりも深く噛み締めることができる。私は満たされた気持ちでグラスを傾け、この豊かで、そして愛おしくも不便な現代の世界に、静かに感謝の杯を捧げた。
Ingredients
・にんじん: 1本
・トマト:1個
・きゅうり:1本
・卵: 2個
・アンチョビ: 4切れ
・酢: 3tsp
・オリーブオイル: 2tsp
・フレンチマスタード: 1tsp
・ニンニクのみじん切り:適量
・ケイパー: 適量
・黒胡椒: 適量
・パセリ:適量
Instructions
1. 酢、オリーブオイル、ニンニクのみじん切り、ケイパー、黒胡椒を混ぜ、ドレッシングにする
2. 茹で卵は半熟に茹でて、8等分にきる
3. にんじんは皮を剥き、千切りにして、ドレッシングとボールであえる
4. トマト、きゅうりを切り、にんじんのボールで一緒にあえ、馴染ませる
5. 器にもり、パセリとアンチョビを添えて、食べる
