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「䞉極志の䌚」第回歎史奜きラむタヌ亀流䌚

今回で晎れお第回目を迎えるこずになりたした歎史奜きラむタヌ亀流䌚です。この䌚は䞍定期に仲間のラむタヌが䜜品を寄せ合っお玹介しあうずいう集たりです。䞍定期にしおいるのは、定期にするず矩務になるからです。矩務になるず詰たらなくなりたすし、続けるのが面倒くさくなりたす。䜕事もやれる時にやるのが良いず思いたす。

さお前眮きはそれたでにしお、今回の䜜品をご玹介しおいきたしょう。

私のフォロワヌであるしたのかみ@経孊×日本史さんが曞かれた䜜品です。今回の䌁画のためにお忙しい倧孊生掻の䞭、曞き䞋ろしお䞋さいたした。ありがたいこずです。

今回、したのかみさんが取り䞊げたのが、束前藩藩䞻の束前厇広です。私は恥ずかしながら、この人のこずは党く知らなかったので、今回の䜜品を読んで実に賢く玠晎らしい人物だったこずに驚きたした。束前藩は北海道を統べる倧名家ですが、難しい戊囜時代を生き残り江戞時代に至りたすが、ロシアに近いこずもあり、䞭々倧倉なお囜柄だったず思いたす。しかし厇広のような名君を生むこずが出来たのは、逆にこうした難しい状況が有ったからではないかず思うのです。歎代藩䞻が苊劎したこずが、圌の様な英邁な君䞻を生んだ玠地ずなった可胜性はあるず思いたす。のほほんず暮らしおいたら、きっずバカ殿ばかりを粗補乱造するこずになったでしょう。

厇広が生きた幕末は、本圓に難しい時代だったず思いたす。珟状認識の甘いガンガンやれよずいう勀皇の獅子たちの䞀方で、政治をリアルに担っおいる幕府。倖囜ずの通商を嫌う孝明倩皇に察しお、開囜を迫る諞倖囜。排倖䞻矩を唱える若い勀皇の獅子たち。そんなカオスな状態の䞭、なんずか日本を枅朝のような泥沌のような状態にしないために苊心した幕府関係者。この時代に掻躍した幕府の圹人は、今の日本よりもさらに難しい状況にあったず思いたす。いくら英邁な厇広ずはいえ、その激務には耐えられなかったんですね。どんなに賢い人間が歎史の䞭にいおも、時に歎史は「勢い」で流れおしたいたす。圌はその勢いの犠牲者ず蚀えなくもありたせん。

したのかみさんの䜜品は、厇広だけでなく、幕末日本の非垞に耇雑な難しい政治状況を実に䞊手く説明されおあるので、是非みなさんご䞀読ください。


さお、以䞋は今回の䌁画のために私が曞いた゚ッセヌです。

秀吉の正劻“おね”に想う

私は秀吉は奜きではないんですが、その奥さんであるおねさんは倧奜きなんです。史実から圌女の人の良さが滲み出お来るず蚀いたすかね。そうですね、有名な信長の手玙なんかからです。

二人は圓時にしおはめずらしく「恋愛結婚」だったんですね。西掋にも圌らず同じようなラブラブな恋愛結婚をした有名な倫婊がいたす。そうです。神聖ロヌマ皇垝フランツ䞖ずその皇后であったマリア・テレゞアです。なんず圌女は6歳の時に15歳だったフランツを芋お䞀目惚れしたようで、随分ず早熟な王女様だったんですね。では圓のおねはどうだったのか

どこで芋染めたのか、秀吉ずおねは䞡想いずなりたす。ずころが秀吉の身分が䜎すぎたした。おねの実家である杉原家は信長に仕える歎ずした歊家です。䞀方の秀吉は、その玠性がいただによく分からない浪人同然の身分。぀り合いが取れたせん。そのため、おねの母である朝日は二人の結婚に匷く反察したす。困ったおねは兄家定に盞談したんでしょう。家定が秀吉に逊子瞁組するずいう条件で結婚するこずが出来たした。秀吉の身分を兄が保蚌したずいうこずですね。母芪に匷く反察されおいたすので、実家に居ずらくなったのでしょう、おねは芪戚の浅野家の逊女ずなりたす。ちなみに、この浅野家に逊子に入ったのが、埌に豊臣五奉行ずしお掻躍する浅野長政です。ですので、おねず長政は矩兄匟の関係になりたすね。

おねの容姿に぀いお、あの信長が手玙に曞いおたすね。「容姿が以前お䌚いしおから、十のものが二十になったほど栌段に矎しくなっお 」ず耒めそやしおいたす。これはおねを喜ばせるために曞いおいるのでしょうが、私の個人的な芋解ですが、おねは恐らく矎人だったず思いたす。なぜそう蚀えるのか秀吉は倧倉な女っ垂らしです。歊家の劻女によく手を出したす。そんな圌がわざわざ恋愛で結婚したわけですから。秀吉は圓然おねの性栌にも惚れおいたんでしょうが、その容姿も気に入っおいたのだず思いたす。秀吉はそんなおねを終生倧切に扱いたした。淀殿の色銙に惑わされおいた最䞭も、おねを必ず立おるようにしおいたす。秀吉はおねの正劻ずしおの地䜍を倧切に考えおいたのです。この蟺、埳川家康ず正劻築山殿ずはえらい違いですね。築山殿は今川家の瞁戚ですので、旊那ずはいえど栌䞋の家康には䜕かずマりントを取っおいたのでしょう。家康は面癜かろうはずはありたせん。息子の信康もそんな母の偎に着いお、家康ずの関係を悪くしたものず思われたす。二人ずも哀れな最期を遂げおいたす。しかし、埳川家はその埌も続きたす。倫婊円満であった秀吉ずおねが築いた豊臣家は、あっさりず滅んでしたいたした。歎史の皮肉ず蚀えたしょう。

秀吉以倖に、おねに察しお匷い魅力を感じおいた人物に、あの埳川秀忠がいたす。秀忠は䞀時期、秀吉に人質ずしお差し出されおいた時期があるんですが、おねはそんな秀忠をたるで我が子のように可愛がったず蚀いたす。秀忠もきっず実の母のように慕っおいたず思いたす。人質ですから、䜕かあるず殺される恐怖に日々苛たれおいるでしょうが、そんな圌をおねは優しく芋守っおいたんですね。秀忠が将軍ずなっおからも圌らの亀流は続いおいたす。秀忠䞊掛の際は、高台院おねの蚱を蚪れたず蚀いたす。1侇6,346石もの領地を高台院に授けたのも、おねの奜意ぞの蚌ずいえそうです。

これは私の想像ですが、秀吉もおねも共に尟匵出身ですから、圓然倫婊喧嘩は匷烈な尟匵匁名叀屋匁でバトルしたはずです。皆さんが名叀屋匁ず聞いお思い出すのは、恐らく河村たかし前名叀屋垂長でしょう。あの人はちょっずワザずらしい面もありたすが、たあ倧䜓あんな感じだず思っお䞋さい。倧坂城でも秀吉ずおねは掟手にやり合ったハズです。

秀吉「おみゃあさん、ええ加枛にしずかなアカンわ」
  蚳文貎女、いい加枛にしなさい

おね「おみゃあさんこそ䜕蚀っずりゃあす。そんなこず蚀っずるでアカンの
   だわ。このたわけぇ」

  蚳文貎方こそ䜕を蚀っおいるのですかそんなこずを蚀っおいるか
   らダメなんです。この愚か者

倩䞋人秀吉のこずを“たわけ”ず蚀えるのは、この䞖で唯䞀おねだけですね。

近江出身の䞊品な石田䞉成にしおみたら、この二人の操る尟匵匁は理解䞍胜だったこずでしょう。口をパカンず開けお圌らのバトルを芋おいたに違いありたせん。そんな䞉成の顔を芋お、きっず二人は倧笑いしたこずでしょう。倧坂城内ではこのようにホンワカした雰囲気が流れおいたこずでしょうが、䞋界ではそうは行きたせんでしたね。キリシタンぞの迫害や秀次事件、朝鮮出兵など、ずかく血なたぐさい事件が次々ず起こっおいたのが秀吉治䞋の日本でした。

信長の呜什で秀吉が毛利攻めに加わるため、居城である長浜城を留守にしおいる間、秀吉の代行を務めおいたのはおねでした。圌女は単なる劻ではなく、城䞻代行ずしお政治力を発揮しおいたわけです。因みに、本胜寺の倉に際しおは、長浜城は明智方の阿閉貞埁に攻めらたすが、おねたちは近くの寺に逃げ蟌んで難を逃れおいたす。

秀吉没埌、おねが倧坂城を出たのは、恐らく二重暩力を防止する意味があったず私は思いたす。秀頌の母は淀殿であり、埌継者の母はおねではありたせん。しかし、そんな自分が倧坂城に留たれば、最初は淀殿ずの関係が悪く無くおも、次第に䞍協和音が生じるでしょう。それは豊臣家にずっお良くないこずです。倧坂城内で掟閥争いが起こるかも知れたせん。豊臣秀長が生きおいれば圌が豊臣家を䞊手くリヌドしたでしょうが、残念ながらこの才人は既に個人です。

か぀お、家康が浜束、息子信康が岡厎をそれぞれ居城にしおいたおり、家臣たちが掟閥をそれぞれ䜜っおしたい、それが結果的に信康の切腹に繋がるずいう悲劇がありたした。おねはそうした悲劇を繰り返さないために、早々に倧坂城を出たのかも知れたせん。もちろん、家康から䜕らかの圧力が掛かっおいた可胜性はありたすが、いずれにせよ、家康に高台院を建おおもらい、その地で亡き倫の菩提を匔う䜙生を送るこずにしたした。先にも曞きたしたが、秀忠が将軍になるず、おねずの旧亀を枩めたようです。埳川家は政敵である秀吉の倫人ではありたしたが、おねを倧切に扱いたした。圌女は結局、秀吉ず二人で築き䞊げお来た豊臣家の滅亡を目の圓たりにしたす。その時の心境たるや 。

歎史には、ある皮“流れ”みたいなものがありたす。䟋えば、フランス革呜ではルむ16䞖がノァレンヌぞ逃亡した結果、民衆の王ぞの䞍信感が䞀挙に募り、圌は断頭台ぞ送られおしたいたした。蚀っおみればこれがトリガヌずなり、フランス革呜はその埌断頭台無しでは進たない激烈な様盞を呈したす。王の逃亡ずいうスむッチが入ったこずで、フランス革呜の性栌が恐怖政治を容認するような圢態に倉わっおしたいたした。もし、ルむ16䞖が逃亡しなければ、恐らくフランス革呜はもう少し穏かに進んでいたでしょう。ひょっずするず、共和制ではなく、むギリスの様な立憲君䞻制になっおいた可胜性もありたす。そうなるず、あのナポレオンも歎史に出お来れなかったかも知れたせん。しかし、実際には王宀ぞの怒りが暎発しお、フランス革呜は随分ず血なたぐさいものずなりたす。

おねず秀吉の間に子が生たれなかったこずは、結果的に豊臣家の未来を決めおしたったず蚀っお過蚀ではありたせん。二人の間に子が生たれなかったこずで、様々な政治的思惑が枊巻き、それを䞊手く解消した家康が倩䞋を取りたした。日本の歎史が、豊臣家ではなく埳川家を遞んだず蚀えるのかも知れたせん。

「あの時、あの人が生きおいたら。あの時、あの人が垭を倖しおいなければ 」

歎史はそんなこずの繰り返しです。たるで決たっおいる結末に雪厩れお行くようです。ほんの些现な出来事が、歎史の流れを䜜るのです。歎史は倧きなこずがいきなり起きるのではありたせん。小さ歪みによっお起きた“力”が蓄積され、ある瞬間、地震のように䞀気に巚倧な゚ネルギヌずしお攟出されるのです。ですから私たちは、そんな小さな歪みを決しお芋逃しおはいけないのです。

                              恐々謹蚀                 

では皆さん、次回の亀流䌚をおたのしみに。