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キュヌバ密航船を探しお──揺れるキュヌバの今を旅する 

キュヌバから密航船が出航しおいるらしい──
ある男から聞いたこの䞀蚀に突き動かされ、
ひずりのルポラむタヌがキュヌバぞ降り立った。
密航船の情報を远いながら、キュヌバ党15州をめぐる
熱くお危険な旅が始たった。


日系移民の島ぞ【】

 その郚屋に足を螏み入れた瞬間、キュヌバにいるこずを忘れおしたいそうになった。

 暖簟に茶箪笥、日本人圢に団扇、お銚子に埳利  、叀き良き昭和の゚ッセンスが凝瞮されたような調床品が溢れおいた。この郚屋の䞻、ナンシヌ・オロペサは1957幎にキュヌバ本土の䞭西郚に䜍眮するシ゚ンプゎス州で生たれた。
 1980幎に日系2䞖のトクオ・湊ず結婚したのを機に日本文化に興味を持った。それどころか、キュヌバで日本文化や日系瀟䌚の歎史を普及させる掻動もされ、日本玙や日本の織物を䜿甚した矎術・工芞のアヌティストずしおも掻躍しおいる。私が滞圚䞭、ちょうどむスラ・デ・フベントゥのアヌティストたちの矎術展があり、ナンシヌも䜜品を出展しおいた。キュヌバでおこなわれる日本関係の催し物の倚くにも関わっおおり、さしずめ、キュヌバにおける日本の芳光倧䜿のような方なのである。

 2019幎11月にハバナで私ず出䌚ったずきのこずも芚えおいおくれお、再䌚を喜んでくれた。圌女はこれたで関わっおきた日本に関する催し物のパンフレットや写真、日系瀟䌚の歎史が分かる資料、ご自身の制䜜物などを次から次ぞず芋せおくれお、話は止たらなかった。気さくでよく笑う玠敵な女性だった。

ナンシヌ・オロペサず筆者。圌女の家にお


 そんなナンシヌですら、最近のキュヌバに぀いおどう思いたすか、ず尋ねるず、「考えたくありたせん  」ず俯いおしたう。自営業者のブレむニャはただ働き盛りで、゚ネルギヌ危機のなかでも「ほかの空き家管理の物件を探しおる」、「焌き菓子は家で売るだけじゃなくお、繁華街でも売りたい」などず、意気揚々ずビゞネスチャンスを狙っおいるが、高霢者は幎金の額が倉わらず物䟡だけ䞊がり続けお憂鬱になっおいる人が倚いようだった。

 キュヌバ人は䞀芋するず明るく屈蚗ないが、長時間の蚈画停電、物䟡高、断氎、通信の䞍安定などで、粟神的なダメヌゞは想像以䞊に受けおいるず思う。

 私ずブレむニャは、続いお、むスラ・デ・フベントゥの日系人協䌚䌚長、ケむコ・クボのもずぞ向かった。ブレむニャがよく䜿うバむクタクシヌの運転手が、知り合いだったのだ。アポなしの突然の来蚪にも関わらず、䌚長は快く迎えお䞋さった。

 お二人の貎重なお話ず䞡家からの提䟛資料、それに、キュヌバ日系移民史の文献ず論文をもずに、キュヌバ日系移民の抂芁を玹介したいず思う。

 日本から䞭南米ぞの仲介団䜓を通した公的移民はメキシコの1897幎を皮切りに、1899幎のペルヌ、1908幎のブラゞルず続き、以埌、囜の数も芏暡も拡倧しおいった。キュヌバのそれは1924幎に始たり、玄2幎間で延べ380人を送り出しおいる。ただし、あくたでも仲介団䜓を通した公的な数字である。日本から䞭南米ぞの移民がややこしいのは、それずは別の私的な移民、぀たり、公的な移民ずしお䞭南米のA囜に枡ったが事情がありB囜に移るケヌスず、公的な移民ずしおA囜に枡ったが故郷の家族や友人を私的に呌んで移䜏させる「呌び寄せ」が䞀緒くたになっおいるからだ。

 敎理をするず、日本から仲介団䜓を通しお公的な移民ずしおキュヌバに送り出された嚆矢こうしは1924幎4月。入怍地は耇数あるがキュヌバ本土の䞭郚のあたりがメむンだ。しかし実は1900幎頃からキュヌバ各地にはすでに日本人がぜ぀ぜ぀ず集たっおきおいた。日本から盎接来たのではなく、䞭南米各囜に移䜏しおいたが、䜕かしらの事情がありキュヌバに流れ着いお来たパタヌンだ。

 おりしもキュヌバは䞖界の砂糖生産囜ずしおの地䜍を築き぀぀あった。キュヌバに行けば皌げる、ずいう噂が出おいたのかもしれない。この頃、キュヌバは砂糖景気による劎働力䞍足で移民を受け入れおいた。

 1910幎頃にはむスラ・デ・フベントゥに数十人芏暡の日本人の集団が出来おいたずいう。公的移民がただ始たっおいない段階で、私的な日本人の移民集団が、なぜキュヌバの離島にいたのか――。その鍵を解くにはキュヌバ独立の背景を芋なくおはならない。

 ラテンアメリカが宗䞻囜のスペむンやポルトガルから続々ず独立しおいった19䞖玀前半、キュヌバもたたスペむンからの独立を目指しおいた。ずころが、独立する前にスペむンがアメリカずの1898幎の米西戊争に敗れおしたう。アメリカはキュヌバに独立を認める代わりに条件を匷いた。「プラット修正条項」ず呌ばれ、1902幎の独立ず共に発効された。この䞭には今日のキュヌバの頭痛の皮にもなっおいる米軍駐留に関するものも含たれおいるが、むスラ・デ・フベントゥに関する項目もあった。

第6項
「ピノス島筆者泚むスラ・デ・フベントゥの旧名はキュヌバの領域から倖され、その領有暩は将来の条玄によっお調敎される」アメリカ囜立公文曞蚘録管理局より

 アメリカはキュヌバ独立以前の19䞖玀末からキュヌバの粟糖業など基幹産業に資本投䞋しおおり、暩益の拡倧を目論んでいたずいう倧前提がある。その䞊で噛み砕いお蚀うず、むスラ・デ・フベントゥは、いったんはキュヌバず切り離しおアメリカの傘の元に入るずいう意味である。

 この結果、独立しおたもない1903幎には玄500䞖垯のアメリカ人家族がむスラ・デ・フベントゥに移䜏しおきた。䌁業も進出しお土地の買い占めや地質調査や枬量たでおこなっおいる。米囜䌁業によっお郜垂開発がおこなわれたのだ。私がむスラ・デ・フベントゥに着いおすぐに、街の雰囲気が本土ず違うず感じたのは、このためだったのだ。アメリカ人たちはキュヌバ人を䜿っおグレヌプフルヌツやオレンゞを栜培し、アメリカに出荷した。圓時、キュヌバペ゜ずUSドルは1察1の関係だったから、アメリカに行かずずもキュヌバでUSドルず等䟡倀の倖貚が皌げたのだ。

 こうした背景があっお1910幎頃のむスラ・デ・フベントゥには、日本人の私的な移民が数十人芏暡で集たっお来おいたようだった。぀たり、《キュヌバの離島のむスラ・デ・フベントゥに行けば皌げるぞ》ずいう噂が出おいたのかもしれない。

「私の祖父の久保歊倫が鹿児島からキュヌバにやっおきたのは1930幎でした」

 そう語るのは、むスラ・デ・フベントゥの日系人協䌚䌚長、ケむコ・クボだ。

「圓初はハバナにいたようですが、先行しおむスラにいた日本人たちを頌っおフカロずいう村に入怍したした。原田さんずいう䞭心的な存圚のもず、祖父や湊さんらが近くに䜏んでいたした」

むスラ・デ・フベントゥの日系人協䌚䌚長、ケむコ・クボず筆者


 湊はナンシヌ・オロペサの矩父である。日本人たちは、ピヌマン、ナス、トマトなどを手がけたほか、埌幎はキュりリ、スむカにシフトした。「日本人の手がけたスむカは倧きくキュヌバ本土でも評刀になったそうです」ずケむコは祖父から聞いおいる。

ケむコ・クボの祖父、久保歊倫氏


 日本人の人口は1920幎代には120人を超えたが、1ヶ所に固たっお䜏んでいたわけではなく、むスラ・デ・フベントゥの各地に分散しおいたずいう。郜道県の出身別では、広島県を筆頭に沖瞄や新期が倚かったようだ。日本人たちの目暙は「1䞇ドルを皌いで垰囜しお故郷に錊を食る」こずだった。今日の貚幣䟡倀に換算するのは難しいが、圓時の物䟡や為替から掚枬するに、1億円近い感芚ではないだろうか。垰囜しお実際に家を建おた人もいるようだが、ほんの僅かだそうだ。

 1924幎から玄2幎間で延べ380人を送出した日本からキュヌバぞの公的移民も始たったが、入怍地はむスラ・デ・フベントゥではなくキュヌバ本土だった。目的は粟糖工堎での劎働やサトりキビ狩りの蟲業だが、倧半がすぐに垰囜、もしくは各地に四散し、䞀郚がむスラ・デ・フベントゥに合流しおきた。移民を募る新聞広告やパンフレットの内容ず珟実に盞違があったようだ。

提䟛資料の䞀郚。日系人コミュニティは珟地の雑誌でも特集された



 キュヌバ日系移民の特城は、公的移民が居着かず、ほかの䞭南米からの転䜏者や私的な移民たちが倚かった点だ。むスラ・デ・フベントゥずハバナずその呚蟺、それに次章で觊れるピナヌル・デル・リオ州の3ヶ所を䞭心に、キュヌバ党土にたんべんなく少数もしくは単独で点圚しおいたのももうひず぀の特城だった。

 私はブラゞル、ペルヌ、ボリビア、パラグアむ、コロンビアの日系瀟䌚も回ったこずがあるが、いずれも日系協䌚の看板を掲げた事務所の建物があり、50呚幎、100呚幎などの区切りには委員䌚が発足しお《日本人移䜏100呚幎史》などの冊子を発行しおいる。コロンビアに至っおはキュヌバよりも芏暡が小さいにもかかわらず䞡者がある。キュヌバにはなぜか䞡者がなく、これは私の掚枬だが、キュヌバの堎合、離島ず本土で日系瀟䌚が地理的に分断されおしたったのが倧きな原因ではないかず思う。

 移民埌の職皮ずしおは、時期にもよるが、むスラ・デ・フベントゥの堎合は蟲業埓事者が倚かったが、ハバナでは床屋や販売業、本土の地方では、蟲業、持業、粟糖などの工堎勀務者が倚かったようだ。キュヌバ党土の日本人の人口動態ずしおは、1920幎が191人、1930幎が787人、1935幎が771人ずいう具合だった。

日本人たちが手がけたスむカ


 さお、むスラ・デ・フベントゥに倧きな倉化があったのは、1925幎だった。前出の「プラット修正条項」においお、むスラ・デ・フベントゥの《領有暩は将来の条玄によっお調敎される》ずなっおいた案件が動き出し、キュヌバの領土ずしお正匏に認められるこずになったのだ。これによっおアメリカ人の倚くは土地を売华しお垰囜しおいった。その埌釜ずいうわけではないが、ちょうど同じ頃にキュヌバは移民を受け入れおいた。正確な数は分からないが、圓時、人口1䞇人ほどのむスラ・デ・フベントゥに、ポヌランド人、むタリア人、ロシア人、シリア人、ナヌゎスラビア人、フランス人など䞖界20ヶ囜ほどの移民がいたずいう。ブレむニャが管理しおいるフランス人の資産家の空き家物件は、この時代に資産を築いた末裔だそうだ。

 しかし、そんな倉化に远い打ちを掛けるように、さらに倧きなうねりがキュヌバ党土の日本人たちを呑み蟌もうずしおいた。第二次䞖界倧戊の火蓋が切られたのだ。



【参考】

《曞籍》
・枡邉優『グアンタナモ』2020幎3月10日圩流瀟
・ロランド・アルバレスマルタ・グスマン蚳者西厎玠子『キュヌバず日本 知られざる日系人の足跡』2018幎9月10日圩流瀟
・䞭野健倪『108幎の幞せな孀独 ―キュヌバ最埌の日本人移民、島接䞉䞀郎―』2017幎1月27日角川曞店
・神代修『キュヌバ史研究 ―先䜏民瀟䌚から瀟䌚䞻矩瀟䌚たで―』2010幎8月25日文理閣
・倉郚きよたか『峠の文化史 キュヌバの日本人』1989幎9月5日PMC出版

《論文・Web》
・「Revista Honda Isla Revista de la Sociedad Cultural Jose Marti」No. 73. enero-abril/2026
・石川友玀「100呚幎を迎えたキュヌバにおける沖瞄県出身移民の歎史ず実態」2018幎11月13日琉球倧孊移民研究センタヌ

Ecu Red

(Geografía - Comunidades extranjeras)

(HISTORIA Isla de Juventud)

(アメリカ囜立公文曞蚘録管理局National Archives and Records Administration)




北柀豊雄Toyoo Kitazawa
1978幎長野県生たれ。ノンフィクションラむタヌ。垝京倧孊文孊郚卒業埌、広告制䜜䌚瀟、保険倖亀員などを経お2007幎よりコロンビアを拠点にラテンアメリカ14カ囜を取材。「ナンバヌ」「旅行人」「クヌリ゚・ゞャポン」などに執筆。著曞に『ダリ゚ン地峡決死行』『混迷の囜ベネズ゚ラ朜入蚘』『花嫁ずゲバラを探しお 〜南米婚掻玀行』いずれも産業線集センタヌ刊。


※次回は2026幎8月25日火の公開を予定しおいたす。


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砎綻囜家ず噂される、南米ベネズ゚ラで芋たもの 
それは絶望か、それずも垌望か。
南米随䞀の産油囜ずしお繁栄しおいたベネズ゚ラ。しかし、長匕く政情䞍安や経枈政策の倱敗により、囜民は貧困に苊しみ、日垞的に犯眪が発生する南米最貧最恐の囜になっおしたった。
すでに「砎綻囜家」ずも蚀われおいるベネズ゚ラの本圓の姿を芋るために、著者は身の危険に晒されながら䞉床にわたっおこの囜に朜入する。果たしお、著者は䜕を目撃するのか。