歴史から消された女性天皇 男系男子・万世一系は「後付け設定」だった
国民の8割が支持している愛子天皇待望論に対して、『男系男子の万世一系という皇紀2600年の日本古来からある伝統を変えてはいけない』などという声がありますが、よく歴史を調べていくと1889年(明治22年)に後付けで作ったルールであり、まったく古来の伝統ではなく、たかが130年前に出来たこじつけであり矛盾が多すぎるという史実を解説していきます。
男系男子・万世一系の後付設定により、歴史から消滅させられた女性天皇
まずはこちらの天皇系図を御覧いただきたい。

今日まで、天皇の継承は戦乱の時代においても1年~3年以内には行われていたにもかかわらず、14代から15代にかけて70年もの空白期間があることが確認いただけたでしょうか。
神功皇后
実質的に政治・軍事を執り行ったとされる神功皇后は長らく第15代として数えられていた時期がある。 つまりは天皇に準ずる立場として「15代 200〜269年 在位69年」と記されていた。
明治時代には日本初の紙幣に描かれるほど、当時の日本人なら知らない人がいないほどの存在だった。
しかし、1889年(明治22年)に「万世一系」という概念が初めて大日本帝国憲法に登場。
37年後の1926年(大正15年)に皇統譜令で「天皇ではない」とみなされて歴代天皇から除外。
まるで一貫してないこの流れから「当時、万世一系の設定なんて無かった」ということが分かる。 日本にはすごい女性天皇がいたと、明治初期には持ち上げておいて、急遽後付けで万世一系の設定をつくったもんだから、辻褄合わせのために大正時代にこそっと抹消されてしまった問題。
中国正史における神功皇后の記載
日本国内の歴史は大正時代に書き換えられてしまったので、中国正史の記載を紹介する。
『新唐書』東夷伝(日本条)
日本の歴代の王を列挙する箇所に「神功為王」と記載。神功皇后を倭国の王として明記している。
『宋史』外国伝(日本国条)
歴代天皇のリストの中に「神功天皇(息長足姫天皇)」と記載。息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)は日本書紀における神功皇后の本名で、これと並記した上で「天皇」の号を用いている。
どちらも日本側が伝えた系譜情報を、中国の史官がそのまま正史に転記したもので、今日まで修正されることなく残っている。
ちなみに、魏志倭人伝での卑弥呼の邪馬台国時代は189〜248年だが、神功皇后の時代と近いため記紀編纂時(720年)に「卑弥呼=神功皇后」として習合・処理された。 その後、政府による「神功皇后は天皇ではない」という改変により、 結果として二人の女性統治者の実績が日本史から抹消された。
繰り返すが、男系男子原則を後付で作った連中にとって都合が悪いからと神功皇后を抹消したせいで、そのせいで「200年から270年の間、皇統が断絶している」という歴史になってしまっている。 支離滅裂すぎるだろう。
つまり、結局どちらを選んでも、『男系男子の万世一系が一度も途切れず続いてきた』はウソになるということ。
私はここで訴えたい。「愛子天皇待望論を、かつて神功皇后と卑弥呼の歴史を抹消したように、また消すつもりか?」と。
さらに矛盾を指摘していく。
当時、推古天皇の在位期間が一番長かった

男系男子原則が当時あったならば本来は息子に継がせるはずだが、なぜか兄弟間で短い期間の継承を繰り返しており、男性天皇が 安閑4年・宣化3年・欽明32年間・敏達13年・用明2年・崇峻5年と続いてきた中で、女性天皇である推古が36年間と一番長い。
数多くの男性候補がいたのになぜ推古天皇が誕生したのか?
欽明天皇の娘
敏達天皇の后
甥の聖徳太子・叔父の蘇我馬子と統治
有力な男性皇族は当時10人以上いた
36年間即位していて「中継ぎ」と言い張るのは無理筋
聖徳太子や蘇我馬子という優秀な男性皇族がいる中、女性の推古天皇が36年間即位。 男系男子原則であれば絶対にありえない継承がおこなわれている。これを「中継ぎ」呼ばわりするのは無理がある。
女性天皇なんて中継ぎ説「これが元ネタ」
皇極天皇(35代・642〜645年)
舒明天皇の后
夫の死後即位
斉明天皇(37代・655〜661年)
皇極天皇と同一人物(重祚)
孝徳天皇死後に再び即位
皇極天皇と斉明天皇は同一人物。 合計9年間即位。 当然他にも男性皇族はいるが、后が継承、弟の死後に姉がまた即位している。
持統天皇(41代・686〜697年)は、夫(天武天皇)が亡くなった後、本来即位するはずだった息子の草壁皇子まで急死してしまうという危機に直面しました。 そこで彼女は、息子の遺児(自分の孫)が15歳で一人前になるまで自ら天皇として即位し、孫が成長したタイミングでバトンを渡した(第42代 文武天皇)という歴史があります。
これがいわゆる「女性天皇なんて所詮は中継ぎだからw」説の元ネタですが、それは史実の一部を切り取った極論に過ぎず、その他の史実との間に矛盾が生じており、辻褄が合いません。
明治時代より以前は15代天皇として数えられていた神功皇后(天皇)を歴史から抹消した問題
元明天皇(母)から元正天皇(娘)へ「女性から女性」へ継承された史実をどう説明するのか?
推古天皇が「36年間」もトップに君臨し続けた事実を「一時的な中継ぎ」と呼べるのか?
なぜ当時、万世一系を守れという議論が一切なされないまま女性天皇が誕生してきたのか?
つまり「中継ぎ論」とは、都合の悪い史実を抹消し、または過小評価させ、都合のいい事例だけを拡大させ根拠にした「後付けの屁理屈」に過ぎません。
さらに続きます。
男系男子万世一系 原則なんて無かった証拠
元明天皇(43代・707〜715年)【女性】
天智天皇の娘
文武天皇の母
息子が早世したため即位
元正天皇(44代・715〜724年)【女性】
元明天皇の娘
文武天皇の姉
母から娘への継承
この時点で首皇子(後の聖武天皇)は存在していた。
過去においても、ここでも、男性皇族が大勢いるのに 母→娘と二代続けて女性が継いだことに 異議を申し立てる記録が一切存在していない。 万世一系なのであれば当時から議論がなされるべき、その記録が一切ない事こそが、「男系男子 万世一系 原則なんてそもそも無かった」という証拠である。
46代と48代に在位した女性天皇
まずはこちらの経歴をご覧ください
孝謙天皇(46代・749〜758年)【女性】
聖武天皇の娘
独身・子なし
称徳天皇(48代・764〜770年)【女性】
孝謙天皇と同一人物(重祚)
後継指名せず崩御
なぜ孝謙天皇は結婚も出産もしなかったのか?
ここに藤原氏の利害が絡んできます。 孝謙天皇の母は藤原不比等と橘三千代の娘であり皇族以外(臣下出身)で初めて皇后となったのが光明皇后でした。 藤原氏は「藤原一族の娘を天皇の后にする」という外戚戦略で権力を握る策略を企てていましたが、もし孝謙天皇が結婚して子を産めば、その配偶者の血筋が次の皇統に食い込むことになります。これは藤原氏にとって新たな外部勢力の台頭を意味し、既存の「藤原氏の娘を天皇に嫁がせて外戚になる」という権力構造そのものを脅かすリスクになります。 つまり、藤原氏の権力と圧力により阻まれていたという見方が強い。
女系になると外国の血が入るから反対説の矛盾
愛子天皇反対論のひとつに「女系になると外国の血が入る可能性がある」という主張がある。 だが天皇の系譜にはすでに外国の王族の血が入っています。
桓武天皇(50代・781〜806年)
光仁天皇の息子
母は百済系渡来人の子孫
母・高野新笠(たかののにいがさ)は——
和氏(やまとのうじ)という氏族の出身
和氏は百済の王族・武寧王の子孫と記録されている
そして明仁天皇(現上皇)が会見にて
『桓武天皇の生母が 百済の武寧王の子孫と続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています』
と発言をして大きな話題に。 このように天皇御自身が公式に認めている。
女系的権力継承が230年続いた時期
55代目以降、同じ継承パターンが連続している
必ず藤原氏の娘が后になる
生まれた子が天皇になる
天皇の外祖父として藤原氏が権力を握る
実質的な継承決定者が藤原氏になるため、「誰が天皇になるか」は藤原氏との姻戚関係で決まる 母方の血縁=藤原氏との関係が最重要要素になった時期。
55代「文徳天皇」から70代「後冷泉天皇」までの約230年、15代にわたって藤原北家が后を独占、つまり実態は藤原王朝への転換。 これは「男系のみ正統」という原理と真っ向から矛盾する、女系的権力継承が230年続いた時期。
南北朝分裂(14世紀)
後醍醐天皇(南朝)と、足利幕府が擁立した北朝に分裂し、56年間にわたって二人の天皇(二つの朝廷)が並立。
現在の皇室は「北朝」の系統であり、現在の皇室養子案というのは、この600年以上前に分派して一般人となった南朝の家系を養子にするという案になっている。だが‥
いま目の前で国民に寄り添い、天皇陛下のお近くで育たれた愛子さま(最も近い血筋)を「女性だから」という理由で排除。
600年前に分家した系統の末裔(一般人)を、急きょ「男系男子だから」と連れてきて天皇家の血筋に割り込ませる。
「600年前の遠い親戚」か「目の前にいらっしゃる直系のご長女」か。どちらが国民にとって自然で、どちらが無理のあるすり替えなのかは、火を見るより明らかでしょう。
江戸時代(17〜18世紀)の女性天皇
明正天皇(109代・1629〜1643年)【女性】
父が後水尾天皇
徳川秀忠の孫
後桜町天皇(117代・1762〜1771年)【女性】
江戸時代最後の女性天皇
前例がないはずの女性天皇が18世紀にも存在した
そして当然ながら、「女性を天皇にするなんて言語道断」だの「男系男子万世一系原則ガー」などの議論がされた記録は一切存在していない。
法律的解釈について
「万世一系」という言葉は、古事記や日本書紀では一切出てきておらず、1889年(明治22年)に、
『大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス』
と大日本帝国憲法で明記されて初めてこの概念が誕生した。 それまではこんなルールは無かった。
現在の日本国憲法は、
『天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く』
となっている。つまり憲法において「万世一系」という言葉が出てきたのは大日本帝国憲法だけ。
現在は皇室典範で
『皇位は、皇統に属する男系の男子たる皇族が、これを継承する』
と明記されているに留まる。
明治時代に大日本帝国憲法で加えられた独自解釈が、現在は皇室典範という法律文に明記されてる程度に過ぎないので憲法改正ですらなく、普通の皇室典範改正で愛子天皇が実現することが可能ということ。
総括
全体を通して見えること:歴史上「男系男子」が一貫した原則だった痕跡がない。
それを突然「男系男子のみ」と単一原理に強制収束させたのが明治時代にできた皇室典範だった、というのが歴史的実態。
男系男子万世一系という設定はたかが130年前に急きょ導入したものであり「日本古来の伝統でもなんでもない」というこの事実をどうか知っていただきたい。
