京都・東本願寺のスマホ賽銭箱のパネルを見て、どうしても割り切れず心がモヤモヤしてしまうのでした
あれはコロナ禍の最中のことでした。
全国の観光地から人影が消えました。
京都でも、ホテルや飲食店、お土産屋さんはもちろんのこと、神社やお寺も影響を受けました。
お賽銭やお守り、お札などの収入が激減したのです。
そこで、考えられたのが、スマホを利用しての「デジタル賽銭」です。
メリットは多方面からいろいろありました。
まず、衛生面の観点から、小銭を手にしたくない人にはもってこい。
お寺や神社にお参りしたいけれど、感染が不安な人には、出掛けなくてもスマホの画面で参拝してお賽銭を入れられる。
また、参拝する際に、小銭入れを取り出して、「あっ」と思うことがしばしばあります。10円、50円玉がなくて100円と500円玉しかない。となると、真剣に「どうしよう」と悩んでしまいます。
神様、仏様の前で、そんなケチなことで悩んでいてはいけないのでしょうが・・・。
そんな時も、スマホでお賽銭を入れられたら問題は解決します。
なにより、現金を持ち歩かない人が増えていることも、普及を進めている要因でしょう。
お寺や神社にとっても、大きなメリットがあるそうです。
賽銭箱から取り出して、いくら入っているか数える手間がはぶける。
賽銭泥棒に遭うリスクはなくなり、銀行に預金するのもネット上での作業のみで済みます。
賽銭を納める人にとっても、受け取る神社やお寺にとっても、効率・能率の観点からして、良いこと尽くめなのです。
でも、でも、どうしてもモヤモヤするのです。
なぜ、神社やお寺にお参りに行くのか、というと信仰心によるものです。
信仰心というと聞こえはいいのですが、とどのつまりは、神様・仏様にお願い事をきいてもらいに行く訳です。
そこで、お賽銭。
10円入れようかな、それとも50円?
いやいや、ちょっと待てよ。
自分と同じように、大学受験する学生は誰もが願掛けに行くに違いない。
すると、10円では聞き届けてもらえないかも。
50円では、第二志望の大学しか受からないかもしれない。
よし! ここはいっちょう奮発して、100円入れよう!
なんてことを考える時、そこには論理的・科学的な根拠は何もないのです。
つまり、お賽銭とは、効率・能率とは遥か遠いところにある「ご利益」を求める「信仰心」からするものだと思うのです。
そして、それにはやっぱり、「現物のお金」を手にすることが大切な気がするのです。
それでも、「デジタル賽銭」を設けるお寺や神社が増えているということは、デジタルでも、「信仰心」が損なわれることなく神様、仏様に「願いを聞いてもらえる」と信じている人が多いということでしょう。
つまり、私が古い考えに縛られているだけなのかもしれません。
そうそう、拙著「京都祇園もも吉庵のあまから帖」シリーズの第4巻では、こんなシーンがありました。
もし、世の中すべてのお賽銭がデジタルになったら、こんなこともできなくなってしまいます。
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「その長老の寺でな、朝早うに、なんや本堂の方でガチャガチャいう音が聞こえたそうや。行ってみたら、見すぼらしい格好の男が賽銭箱の鍵を壊そうとしてる。『何してるんや!』言うて駆け寄ったら……普通は逃げるわなぁ。ところが、その男はカバンから拳大の石取り出して、カンカンッと鍵に叩きつけた。長老は思ったそうや。これは妙や、見つかったら逃げるはずやて。これはわざと罪を犯して捕まって、刑務所に入ろうと企んでるんやないかてな」
美都子が驚いたように言う。
「そ、そないな人おるん?」
もも吉が、隠源の代わりに答える。
「世の中、いろいろ事情抱えたお人がおるんや」
「それでな、長老は庫裏へ案内してなぁ。ちょうど炊けたばかりのご飯で、おにぎり握ってやったそうや。それだけやない。『もうこないなことしたらあかんで。困ったことがあったら、いつでもうちへ相談に来なはれ』言うて、少しばかりのお金包んで渡してやったそうなんや」
「立派なお方やねぇ」
「京都祇園もも吉庵のあまから帖」シリーズ(PHP研究所)
第4巻より抜粋

