明日からの記憶
歳をとると物忘れが増えると言うが、30代半ばにして実感している。
人の名前が出てこない。
何をしようとしていたか思い出せない。
今朝も駅の階段を降りながら何かを思い出そうとしていたのだけれど、ホームに着いた時にはもう何を思い出そうとしていたのかも思い出せない。
やって来た電車の窓に映る自分はまだ腰も曲がってやしないのに。片足体重のワイシャツ姿を見て、大人になったなと思う。昨日終業後に送ったメールが多分返ってきてるからまた書かなきゃ、来月法事だから新幹線取らなきゃ、マイナンバーの電子なんとか更新しろとか来てたな、帰り納豆買わなきゃ。
頭の中には様々なタスクやら何やらが列を守らず順不同に巡っては消えていく。
忘れる数が増えたのは、覚える数が増えたからではないか。1人前ずつ流れてくる素麺は掴めても、濁流のように流されては桶に落ちていくばかりである。
それでも、こうしてエッセイを書くようになって数ヶ月、昔のことを思い出すことが増えた。
座らずにビデを押してしまったことや、ファミレスでなるべく安めのハンバーグを頼んでいたこと、自分の体毛にどう向き合ってきたかなど、エッセイに手を出さなければ到底思い出すことのなかったであろう記憶たちを、良くも悪くも引っ張り出してしまっている。
妻は日記を書く。だからか、覚えていることが多い。殊更、感情についての記憶が優れているのはやはり日記のおかげだろう。対して私は日記を書かない。夏休みの宿題で出た日記だって、8月30日と31日以外に書いたことなどない。単に物事を続けられないということもあるし、特に出来事に対して何も感じてこなかったからというのも大きいと思う。感情の起伏が非常に小さい。妻が渋谷だとするなら、私は北海道の平原である。
渋谷といえば「坂が多い」という印象が強い。疲弊したという体の感情が刻まれている。
渋谷の映画館『UPLINK』には不祥事があってからなんとなく足が遠のいていたけれど、またいつか東京に行ったら訪れたい場所のひとつだ。と思って調べてみたが、もう5年も前に閉館していた。昨日、京都のUPLINKで観た『温泉シャーク2 九州大決戦』は最高だった。
坂といえば、実家の近くにある公園の家から遠い方の道にだけ坂道があった。自転車で帰る時はわざわざ少しだけ遠回りをして、坂道を上って帰ることが小学生の私の密かな楽しみだった。
先日実家に帰った時に祖母にそのことを言われるまで、すっかり忘れていた。
ある時からその道は自転車で通りたい道ではなく、車で通るには狭いから避けたい道になっていた。そして地元を離れると、すっかりその道のことなど記憶から抜け落ちていた。
代わりに大人になった私の脳に入ってきたのがNISAの情報なのか、映画の記憶なのか、妻の思い出話なのかは分からない。抜け落ちていたその道の記憶に尊い価値があるかどうかも分からない。きっとそのほかにもたくさん知らない間に葬られてきた記憶たちがあるはずである。それは寂しさではなく、仮に人生を脳の刺激の多寡で測ろうとするならば、たくさんの記憶が出入りする方が良いのかもしれない。
『ピカチュウ カイリュー ヤドラン ピジョン……』
の流れで、パウワウ周辺の名前や並びがうまく思い出せないのだって、新しく生まれた甥の名前を覚えるために失われたのであれば、それもまた一興である。
