映画評「アステロイド・シティ」(2023年/アメリカ)

映画評「アステロイド・シティ」(2023年/アメリカ)
ウェス・アンダーソン監督、脚本。いつものように、平面的でシンメトリーな画面構成と、独特の色合い。アニメを現実で見せているかのような、個性的で作家性あふれる監督である。全てが作りこまれ、ブレることのない美意識で統一されている。美意識が行きすぎたゆえに露呈している、この、観客によっては毛嫌いするような、人工的で作りこまれた部分。立体感がないから、どこか薄っぺらい。この映画では「劇中劇」のような多面的な構成にすることにより、かろうじて現実との接点を作っているのかもしれない。まあ、そんな批評はどうでもいい。切れ味鋭い映像感覚、どこか気の抜けたお遊び、この体験はこの監督でしか味わえない独特のものである。今のところ「ライフ・アクアティック」以外は全て楽しく見ることができている。広大な海とは相性が悪いのかもしれない。この映画では広大な砂漠が舞台ではあるが、場面は小さく箱庭的に限られている。基本的にはどの映画も箱庭的世界に埋没している。この映画で驚いたのは、全ての画面が絵葉書としても成立するかのような、こだわり抜いた画面構成だ。こんなに色調が統一され、構図が見事な映画を見たことがない。年々、こだわりが増してきている。とはいえ、迫力が全くないので、観客によっては退屈しそうな危うさもある。物語の構造としては、人間ドラマを取り入れている。「妻の死を子供たちに知らせる」ことだ。ここで葛藤の場面を作れそうなものだが、この映画では、後半の山場に持ってくることなく、あっさりと伝えている。非常にあっさりとしていながらも、悲しみが永遠に続くことも伝えている。涙も出さず、独特の雰囲気でホラ話のように伝えているものの、私にはリアルな響きを持った。「私たちが分かった。どんな人間たちか。致命傷を負いながら痛みの深さを見せない。イヤだから。それが私たち」ミッジがオーギーに語る。この映画でのジェイソン・シュワルツマンの演技は感情を徹底的に抑えた無表情な演技。眼差しや声の揺らぎで喪失の痛みを伝えている。劇中劇構造なので二重の役割を持ち、演技する役者と役に没入する人物を微妙に演じ分けている。正解がどこにあるのか全くわからない、かなり複雑な役をこなしている。「現実感覚が希薄な上、長引く厳しい隔離で、彼らは奇妙な感情的次元を呈し始める」と脚本家が言う。砂漠のクレーター。核実験のキノコ雲が上がる。軍事科学と書かれた車。不穏な雰囲気。何かが起きそうな展開も用意されている。不穏な空気を醸し出して、出てきたのは宇宙人。人々は隔離される。コロナ禍の閉じこめられた現実を反映させたかのように。人々を隔離し、日常を破壊する宇宙人の出現は、人間がコントロールできない理不尽な出来事の象徴だ。これは、人生に突然降りかかる予期せぬ出来事や、説明のつかない事象のメタファーである。でも、閉じこめて小さな箱庭的世界に埋没するのが得意なので、逆に作品世界が生き生きしている。ウェス・アンダーソンは生まれた時からコロナ禍なのかもしれない、相性の良さを感じた。世界はさらに混沌とし、オーギーと役者はここで一つとなる。「そこが謎だ。芝居が分からない」とオーギーを演じる役者が言う。「いいんだ。物語を進めろ」と舞台演出家が言う。私にはこの発言は「人生が分からない」と同意に聞こえた。それでも不条理な世の中を生きていかねばならない。その後、「新鮮な空気を」と役者が言い、「オッケー。答えは見つからないぞ」と演出家が言う。この映画で私が最も素晴らしいと感じたのは、ここでオーギーが外に出て妻役と会話するシーンだ。ここで、死んだ相手とリアルな会話が交わされる。悲しみにあふれた、はるか彼方の非現実的な話だ。心に迫ってくる。多面的な構成がここで生かされている。結果。もちろん、答えは見つからず、演技と人生は同一となり、死者は砂漠に埋葬されて、その後も砂漠の一歩道を進んでいく。ここで、私たちも一つになる。私たちも、もちろん、砂漠の一歩道を進んでいかなければならないのだ。

