【居場所と働く①】働くことが社会につながる場所になる「伊丹市雇用福祉事業団」〜「気づいたらずっとやっていた」支援のはじまり〜
■最初に
こんにちは!サイボウズのもっちーです😊
伊丹のまちで、働く場を一つひとつ育てながら、
生活のそばで人を支え続けてきた「伊丹市雇用福祉事業団」の髙木さんにお話をお聞きしました。
就労支援のお話や、制度の歴史、「就労の伊丹モデル」の話など、自治体も民間も協力して、そして継続できているのがすごいです。
全7回のシリーズです。

■「気づいたらずっとやっていた」支援のはじまり
〇企業組合伊丹市雇用福祉事業団
今回は、兵庫県・伊丹市で、長い時間をかけて地域で「生活」と「働く」ことを支えてきた、
企業組合伊丹市雇用福祉事業団(以下、事業団)の理事長、髙木哲次さんにお話しを聞きました。
髙木さんは、若い頃から不登校生を支え、
社会人になっても失業者の救済、
社会に出て働きたい人たちへの仕事づくりを担う活動を進め、
その延長で労働組合や協同組合の歴史や仕組みを学びながら、
気がつけば、伊丹で “市民を支え、働く場を生み出す受け皿”の中心となり、共に働き、共に参加する職場を担っています。
現在は、労働組合・協同組合・企業組合・NPOという複数の組織を行き来しながら、ひきこもりや生活困窮者の自立支援、失業者の就労支援、公園管理や建物管理、学校給食など、地域に根ざした活動と仕事をつくり続けています。
事務所の1階は居場所として提供し、
「社会参加したい。働きたいが訓練が必要。就活がうまくいかなくても収入を得ながら通える場所」として利用されています。
年齢や働き方、生活の状況に関わらず、心の困窮も含め、悩んでいれば誰でも参加することができます。
地域の中に、そうした市民の居場所をつくってきた方です。
事業団は、1951年に「職場の仲間の生活と仕事を守ろう」と立ち上がった市民団体です。その長い歴史の中で、働きたいけれど仕事が見つからない人、生活に困っている人、ひきこもりの状態にある人など、地域で支援が必要な人たちに向き合ってきました。
事業団の仕事は、市民の憩いの場となる公園や緑地帯など公共施設の管理、小学校の子どもたちと関わる学校給食など市民生活の近くにある仕事が多くあるなかで、社会の変化や地域の情報をいち早くキャッチできる職場でもあります。
そのなかで人手不足と言われながら、
地域で暮らす無業者の存在に着目しました。
長く家から出られなかった人、初めて働こうとする人が一歩踏み出せるよう、家庭訪問から居場所への案内、職場体験などを一緒に歩み、自立につなげます。
地域で暮らす誰もが、無理なく関われて、無理なく働け、その人らしさを活かせる場を一緒に作っていこうとしている。そんな活動です。

〇目の前にいたから、やってきただけ
髙木さんは、10代の頃から、人を支えるような関わりを続けてきたそうです。
もうあれこれやって、40年近くになるのかな?
最初から仕事としてやってきたわけじゃなくて、
昔は制度や仕組みも無かったから手探りで、仕事としてやり始めたのは実は最近です。と、髙木さんはいいます。
職場もボランティアやいろんな支援活動をしてもいい環境でしたから、
仕事の合間に自然と関わらせてもらいました。
上司の一人がやっていたことを見よう見まねで、
やりたい人が自然と行動する、みたいな空気で気づいたら、
自分や同僚も一緒に始めた、という感じです。
いつ頃からやり始めていたか不明ですが、
高校1年には不登校生の支援に動いていたそうです。
40歳の頃、当時の先生に、「今、何やっているの?」と聞かれて、
「こういう活動をやっています」と話したら、
「高校の時も不登校の支援をやっていたよ」と言われ、
自分では意識してなかったけれど、ずっとやってきたことに気付かされました。
別に、大きな理由や影響があったわけでもなく、目の前に困っている人がいたら、見過ごせなかっただけです。
たまたま周囲の環境も、そういう関わりが自然な場所だったのかもしれません。
それを見て、真似して、自分なりにやってきたことが、気づいたら続いている感じです。
不登校生のことも、何か特別なことをしていた、というより、
そのときできることを、みんなでやっていた、そんな感じだったと思います。
学生の頃から、一人では限界があると思って、「みんなでやろう、協力してほしい」、今日は君が電話する当番、明日は君、「次は先生」と順番を決めていました。
〇気づいたら別の道へ
もともとは公務員が安定していると誘われて、今の伊丹市に来ました。
その公務員試験までの間、同じ公共事業をしている職場を案内され、
今の職場に連れてこられ、面接の翌日から働きはじめて、そのまま30年以上過ごしています。
公務員を誘ってくれた人たちから、三年続けて試験の誘いがあったものの、「いや、こっちの仕事が面白い、自分には今やっているこの仕事のほうが性格に合っている」とお断りしました。
ただ、現実の職場は債務超過でした。
15年余り給与は据え置かれ、ボーナスは出ないし、残業もカット、
事業の閉鎖、法人の解散なんてことも日常でした。
この職場を立て直そうと、15年前、38歳でお金も労基法も知らない若造が職場を引き継ぎ、一緒に働く仲間の協力や工夫を重ね、ようやく軌道に乗せることができました。

〇現場で見えた自分にあった働き方
就職した当時、内心はやってみたい分野が2つあったんです。と、髙木さん。
1つは、北海道やオーストラリアで、牧草地の草刈りの仕事がしてみたい。
2つ目は、街でシッカリと稼ぎ、小さくてもいずれ従業員を雇って、社長になりたい。そんな夢を持っていました。
たまたま、今の職場で、最初にやらせてもらったのが、
河川敷の草刈りでした。
「あっ、北海道やオーストラリア行かなくても、伊丹で草刈りできる。しかも賃金が貰える」と思い、
自分の理想の職場を見つけたと楽しく働いていました。
■最後に
最後までありがとうございました。
「環境がそうだった」「見よう見まねで始めた」「気づいたら続いていた」と、必然だったかのように、積み重ねてきたことをお話されているのが印象的でした。
簡単ではないことの積み重ねを、ただそれだけと言えることのすごさ!
この人がいたから助かった人、たくさんいたんだろうなぁ、それが自然とできるお人柄を感じました。
次回は、多様な背景や制度の歴史のお話です
次回も見てもらえると嬉しいです😊
