『モモ』と『はてしない物語』ふたつの時間の物語。
また、手帳をめくる手が止まった。
今月も、もう終わりだ。
不思議だった。
派遣社員となり、
かつてのような忙しさは、もうない。
にもかかわらず、
時間の速さは、何も変わっていないようだ。
思い出すのは、
ミヒャエル・エンデ『モモ』と『はてしない物語』。
「時間泥棒とは、私自身のことか」
ふと、そう思った。
📖
*他者ではない、灰色の男たち*
『モモ』には、「時間貯蓄銀行」を名乗る
灰色の男たちが登場する。
彼らは人々に近づき、
「時間を無駄にしている」と説く。
節約した時間を銀行に預ければ、
利子付きで戻ってくる。
そう持ちかけられた人々は、
次々と時間を「節約」し始める。
物語の中の床屋は、
おしゃべりをやめ、友人と会う回数を減らし、
すべてを効率化していく。
彼は前よりも忙しくなり、怒りっぽくなった。
💣
だからと言って、
灰色の男たちを責めることはできない。
彼らは、ただ、ビジネスをしただけなのだから。
利用したのは、もともと人々の中にあった
「もっとうまくやれるはずだ」という焦り。
時間の節約を選択したのは、人々自身。
時間泥棒は、外から押し入ってきたのではない。
空いていた心の隙間に、
するりと入り込んできただけなのだ。
♡
何だか身に覚えがあり過ぎる、、、(´;ω;`)ウッ…
*行き来する時間*
さて、『はてしない物語』について。
主人公の少年バスチアンは、
古本屋で一冊の本を盗み出し、
その本の中の世界
「ファンタージエン」に入り込んでいく。
物語の中で、
彼は現実世界とファンタージエンを行き来する。
読んでいるだけのはずが、
いつしか物語の登場人物として、
その世界そのものを生きることになる。
現実とファンタージエン、
ふたつの世界を往復する構造そのものが、
この物語の核になっている。
しかも何と!
この物語はエンドレスリピートできるのだ!!
子どもの頃、
まさにこの「行き来する感覚」が好きだった。
本を読んでいる間だけ、
自分がどこにいるのか曖昧になる。
それを何度も繰り返す。
新宿でくさくさするより、
よっぽどアナーキーなのだよ。
勘違いしないで、新宿は大好きだから。
🍺
無駄であることそのものに、価値がある。
誰かに邪魔をされることもない、
秩序や権威から逸脱した、自由。
酔いが回って、テンション上がってきた。
*ふたつの時間の物語が、教えてくれること*
ミヒャエル・エンデが描いた、
ふたつの時間の物語。
やっぱ、童話って偉大だね。
『モモ』が描くのは、
時間を効率化しようとする心が、
結果的に時間そのものを失わせていく構造。
『はてしない物語』が描くのは、
ふたつの世界を行き来する時間にこそ、
自己が宿るということだ。。。
❓
少なくとも私はそう思いたい。
自己喪失&自己発見という見解もあります。
読み方は人それぞれです。
気になるのは、
自己とは失ったり、見つけられたりするものなのか?
ってこと。
*ゆらぎ続ける勇気*
大人になるにつれて、
誰もが心のどこかに時間泥棒を飼うことになる。
それは、社会が悪いわけでも、
誰かのせいでもない。
ましてや、あなた自身のせいでもない。
効率化を求めることは、この困難な世の中で、
必要不可欠なものなのだから。
ただ、その心とどう付き合うかは、
選べる気がしている。
ひとつの場所に縛られず、行き来する時間を、
自分の中に持っておくこと。
ゆらぎ続けることは、
意外と重要なことではないだろうか。
🌳
子どもの頃、図書室で『はてしない物語』を読んでいたあの時間は、
今でも、私の中にちゃんと残っている。
📖
シラフで文章を書けるようになりたいものです。
