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阿頼耶識とデミウルゴス

藤村龍至さんがキュレーションした東京藝術大学陳列館での2つの展覧会、「Architecture as Ecopolitics――地政学的リアリズムに基づく設計思想の再編」及び「未来都市の後で――阿頼耶識とデミウルゴス」を見てきた。

会期が短いため実際に見に行ける人は少ないだろうけど、本稿では展示内容よりも「阿頼耶識??」についての話なので、未見でも読めると思う。

陳列館は1929年竣工とのこと。世界恐慌の年だ

建築展

1階は建築展で、ホルムズ海峡の危機によって建築現場に突きつけられている過度な石油資源への依存や地政学的リスクを踏まえ、エネルギー負荷が少なく地域資源(土や木)を建築過程に積極的に取り入れている事例を紹介し、素材をめぐる建築的政治を「Ecopolitics」と再定義するもの。

藤村さんの自邸(!)計画以外はだいたい知っているプロジェクトや活動だった。木材の持続的な流通問題や、その土地のマテリアルの利用・再利用、脱炭素、そしてそこから立ち上がる設計手法や構法、素材の表現や循環の表現といった建築家の実践が、設計思想として展示されている。

とても分かりやすい展示だ。しかし「Ecopolitics」と再定義されるほどの危機感や切実さはない。接着剤や塗料や断熱材が入手できないことによる現場の切迫感や、ナフサのために国際的な駆け引きが報道されるような政治性もない。展覧会が「ポリティクス」として見えるには、あるいは再定義されるには、サーキュラー・システムマップやマテリアルパスポートなど、個人や組織を横断するシステムやムーブメントの展示があると良かったのでは、と感じた。なぜかというと、「本展覧会では、素材をめぐる建築の政治を「Ecopolitics」と再定義し、現代建築を成立させてきた「2つの阿頼耶識|情報と物質|を縦断し、「超都市」時代の地政学的リアリズムに基づく設計思想を再編する」とあるからには、仏教思想でいうところの因果や空を期待したからだ。阿頼耶識っていうからには。それに「2つの」阿頼耶識??このあたりから混乱しながら2階へ。

美術展

2階は13組の作家による展示となっている。建築展に比べて美術らしく作品にもバリケーションがあり楽しい。百頭たけしさんの『無題』という美しい5枚の風景写真や、布施琳太郎さん『いたいから/Because Itai』の不気味な存在が印象的だった。

妻側の壁一面が梅沢和木さんの作品

しかしこのあたりから、もしかして集団的無意識とか都市を成立させてる見えないバックグラウンドとか、大規模なデータとかを阿頼耶識メタファーにしてる?のか?と違和感の正体が分かってきた。というか、「阿頼耶識とデミウルゴス」というタイトルを見たときから、少しだけ引っ掛かるものがあったからだ。というのも僕はここ数年、仏教思想、特に「空(くう)」や「唯識(ゆいしき)」に関心を持ってきたこともあり、これは見なければな、と思って足を運んだから。

仏教思想

さて、僕の理解では、仏教思想においてまず重要なのは「縁起」であり、これは世界が独立したモノによって構成されているのではなく、様々な条件や関係によって成立しているという考え方。

その考え方を徹底していくと、事物には固定された本質や実体は存在しないという「空」の理解へとつながっていく。しかし「関係以外の本質がない」となると、「なぜ私たちはこんなにもリアルに世界を感じるのか?」ということがうまく説明できない。そこで、私たちが経験している世界は認識作用から切り離せないよね、となり「唯識」というコンセプトがでてくる。

唯識は認識の問題を扱う思想として位置付けなのだが、阿頼耶識はその文脈のなかで、人間の認識や経験の深層に蓄積される潜在的な基盤として説明されることが多い。

空海が最澄の阿頼耶識を感じるシーン(おかざき真里『阿・吽』第4巻)

もちろん僕の理解が正確かどうかは分からないし、めっちゃ粗い整理かもしれないのだが、しかし少なくともそのように理解している立場からすると、都市や文明や歴史の記憶の集積体として阿頼耶識を用いることにはかなり違和感がある。

なぜなら、それは阿頼耶識というよりも、むしろ集合的無意識や文化的記憶、あるいは現代的に言えば情報環境やデータベースに近いもののように思えるから。藤村さんがロールモデルとしている磯崎(を解釈した)阿頼耶識は、阿頼耶識→集合的無意識→情報圏→インターネット、というかなり「大胆な」(というか無理な)翻訳が行われているといえる。仏教思想の阿頼耶識はあくまで「個人」の認識に関するものだし「OS」に近いんだけど、磯崎的阿頼耶識はクラウドストレージに近い。

詳しくは阿頼耶識で検索!

もちろん、展覧会のタイトルに対して「用語の使い方が違う」と言いたいわけではなくて、建築やアートにおいて思想や哲学の概念が拡張的に用いられること自体は珍しいことではないし、むしろそのような飛躍によって新しい視点が生まれることもある。が、建築は哲学用語の都合の良い誤用を歴史的にしがちなので、「これがそれか笑!」という気持ちで書いている。

デミウルゴス

別の視点で僕が気になったのが、「阿頼耶識とデミウルゴス」という対立図式そのものが、どこか近代的な主体と客体の構造を引きずっているようにも見えること。つまり一方には蓄積された都市の記憶や無意識があり、もう一方にはそれを読み取りながら世界を構築する創造者がいる。しかし仏教思想のなかでも、とくに僕が関心を持っている「空」の考え方からすると、そのような対立自体が少し現代的ではなく感じられる。

なぜなら、そこでは主体も客体も固定された実体ではなく、関係のなかで成立するものとして理解されるからである。つまり、都市は関係の結節によってその都度立ち現れるもの、と(仏教思想的には)再定義され得る。これは僕の関心からくる仮説だけど、こういう前提を持っていたので、「阿頼耶識と〜」にモヤモヤするわけである。

そう考えていくと、今回の展覧会で扱われていたテーマに対して、もう少し異なるアプローチもあり得たのではないかとも思った。

例えば近年のサーキュラーデザインやマテリアルパスポートのような取り組みは、建築を完成されたオブジェクトとしてではなく、流通や再利用や解体までを含んだシステムとして捉えているし、また建築家やアーティストも世界を創造する主体というより、多様な主体や制度や物質の関係を調停する存在として位置付けられつつある。

そうした実践は、一見すると地味で未来都市のイメージからは遠いように見えるが、実は「都市とは何か」「創造とは何か」という問いに対して、システム的な更新を提案する俯瞰的視点も付与できたように思う。

塚本師。先生の事物連関は「縁起」だな。入口付近ではなく、建築展の最後にあったほうが良かったと思う。

展覧会を見終わったあとに残ったのは、「未来都市とはどのような姿をしているのか」という問いではなく、むしろ「私たちは都市を誰かが設計し、誰かが創造するものとして考えすぎているのではないか」という問いだった。そして、その問いはおそらく、阿頼耶識という言葉そのものよりも、「阿頼耶識とデミウルゴス」というタイトルの置き方や、「都市」という磯崎的=藤村的な前提から受け取ったものだったように思う。

とはいえここは東京藝術大学。世界に秩序を与える制作主体の表現をたくさん見ることができて面白かったし、僕の阿頼耶識の一部となったはず。

ところで、InstagramもAIもなかった2011年の磯崎の「超都市」は、もうないのではないか。あるとすればこのnoteを書いている手の中のデバイスの中にあり、違った形での(分断された)群島としてあるように思う。


仏教思想については、松波龍源さんの『ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考』や、横山紘一さんの『唯識の思想』あたりがおすすめです。

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