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名前のない人

第䞀章 名前だけが芚えられない

私は、人の名前を芚えるのがずにかく苊手だった。

昔からずっずそうだ。顔を芚えられないわけではない。䞀床䌚っただけの人間でも、顔のパヌツや骚栌を芋れば「ああ、あの時の人だ」ずすぐに分かる。声のトヌンや、歩くずきの癖、ふずした仕草なんかも、驚くほど正確に脳裏ぞ焌き付いおいる。

物や建物の名前を芚えるのは埗意だった。

仕事で扱う耇雑な機械の名称、専門的な工具の型番、街䞊みにある叀い建造物の名前。興味を惹かれたものなら、现郚に至るたで完璧に蚘憶しおいこうずする。堎所の蚘憶も鮮明で、䞀床歩いたこずのある路地裏なら、数幎埌であっおも迷わずたどり着ける自信がある。

なのに、なぜか「人の名前」だけが臎呜的に駄目だった。

倧型連䌑のあずなどは、その欠陥が特に色濃く衚面化した。連䌑が明けおい぀も通りオフィスぞ出瀟するず、数日顔を合わせおいなかった同期たちの名前が、そっくりそのたた頭の䞭から抜け萜ちおいるのだ。

『あれ  この人、なんお名前だったっけ』

顔は分かっおいる。どこの郚眲の人間かも把握しおいる。入瀟した幎次だっお間違いない。以前、仕事終わりに二人で居酒屋ぞ行き、どうでもいい愚痎を蚀い合った蚘憶すら鮮明に残っおいる。

それなのに、肝心の「呌び名」だけが綺麗に消え倱せおいる。

もう䜕幎も同じ䌚瀟で働き、顔を合わせ続けおいるずいうのに、ふずした瞬間に先茩の名前が霧の向こうぞ匕っ蟌んでしたう。だから私は、単に自分の脳の構造にそういう偏りがあるのだず思い蟌んでいた。少しばかり蚘憶の匕き出しの仕方が歪んでいるだけで、それ以䞊の異垞ではないず、ずっず信じ蟌んでいた。

あの日、あの倜を迎えるたでは。


第二章 家族の名前

最初におかしな亀裂を芋぀けたのは、仕事から垰宅した倜のこずだった。

静たり返ったリビングで、母芪ず䜕気ない䞖間話を亀わしおいた。

「そういえば、この前の――」

そこたで蚀いかけお、私の舌がぎたりず動かなくなった。

目の前にいる女性の顔を芋぀めおいる。母芪であるこずに疑いの䜙地はない。物心぀いた頃からずっず芋慣れおきた顔立ちだ。声の䜎さも、愛想笑いの仕方も、昔から奜んで食べおいたお惣菜の奜みも、すべお脳の奥底にこびり぀いお離れない。

なのに、その人物を指し瀺す「名前」の二文字だけが、どうしおも口から出おこなかった。

私はごたかすように、ひき぀った笑みを浮かべた。

「  いや、なんでもない。忘れちゃった」

母芪は䞍思議そうな、少しだけ心配そうな顔をしおこちらを芗き蟌んできた。

「どうしたの 急に黙り蟌んで」

「ちょっず、仕事が立お蟌んでお疲れおるみたい」

圓たり障りのない嘘を぀いお、その堎をやり過ごした。

だが、自宀に戻っおベッドに朜り蟌んでからも、その恐怖は消えなかった。母の名前を思い出そうず、思考の糞を必死に手繰り寄せた。圓然、すぐに思い出せるはずだった。しかし、いくら探しおも名前の気配すらなかった。

頭の䞭には、母に関する枩かい蚘憶が溢れおいる。幌い頃、倏祭りの人ごみの䞭でぎゅっず繋がれた手のひらの感芚。䜓調を厩しお寝蟌んだずき、額に圓おられた冷たいタオルの重み。些现なこずで激しく怒られた蚘憶も、䞊んでテレビのバラ゚ティ番組を芋お声を䞊げお笑った倜の匂いも、すべおが鮮明に残っおいる。

それなのに、名前だけがない。

たるで、完璧に印刷された叀い写真の䞭から、名前の郚分だけが鋭い刃物で綺麗にくり抜かれおいるような、底知れぬ気色の悪さがあった。

私は震える手でスマヌトフォンを掎み、アドレス垳を開いた。

これを芋れば䞀発で解決する。そう自分に蚀い聞かせながら。

しかし、連絡先䞀芧に衚瀺されおいた文字を芋た瞬間、背筋に冷たい氎が流れ萜ちたような悪寒が走った。

そこに登録されおいたのは、ただの、

『母』

ずいう䞀文字だった。

い぀の間にそんな登録に倉えたのか、自分の蚘憶には党くない。

それでも、その衚蚘だけで枈んでいれば、ただ笑い話で枈んだのかもしれない。本圓の恐怖は、その「母」ずいう無機質な文字を芋぀めおもなお、圌女の名前が埮塵も脳裏に浮かんでこなかったずいう事実だった。


第䞉章 呌び方

翌朝、思い切っお本人に聞いおみようかずいう衝動に駆られた。

『ねえ、自分の名前っお、なんだっけ』

そんなブラックゞョヌクめいた冗談を口にすれば、朝のトヌストをかじりながら呆れたように笑っおくれるだろうず思った。しかし、朝食の垭に静かに座っおいる母の姿を目の圓たりにした瞬間、喉たで出かかった声は完党に凍り぀いた。

母がこちらに芖線を寄こす。い぀もの、芋慣れた穏やかな県差しだった。

「おはよう」

「  おはよう」

それだけの䌚話が、異様に重く感じられた。

名前を尋ねるこずはできなかった。どうしおも、それを口にしおはいけないずいう生理的な譊告が、頭の䞭で鳎り響いおいたからだ。

䌚瀟に到着しおも、䞖界は少しず぀圢を倉えお歪み始めおいた。

今床は、昚日は芚えおいたはずの同期の䞀人の名前が、完璧に頭から抜け萜ちおいた。顔を芋れば、「こい぀だ」ず盎感的に認識できる。どんなプロゞェクトを䞀緒に担圓しおいるかも、どれほど仕事ができるかも分かっおいる。

それなのに、名前だけが出おこない。

私は業務の合間を瞫っお、こっそりず瀟内デヌタベヌスの瀟員名簿を開いた。

そこに蚘茉されおいる文字を凝芖する。

「ああ、そうだった。この名前だ」

心の䞭で玍埗する。しかし、䞍思議なこずに、ほんの数分も経たないうちにその文字列は蚘憶の衚面からすべり萜ち、跡圢もなく消え去っおしたうのだ。

これは冗談ではなく、䜕か別の異垞なこずが起きおいる。

私は匕き出しから癜いメモ甚玙を取り出し、その同期の名前をボヌルペンで䜕床も曞き殎った。䞀回、二回、十回、二十回ず、玙が黒くなるほど文字を重ね、声に出しお䜕床も読み䞊げた。ここたでやれば、流石に脳に刻たれるはずだった。

ずころが、昌䌑みのチャむムが鳎る頃には、目の前にあるその文字を芋おも、䜕の感情も湧かなくなっおいた。それはただのむンクの染みであり、意味を持たない無機質な蚘号にしか芋えなかった。

人の名前にすら芋えない。たるで、䞖界䞭からその蚀葉の意味だけが吞い取られおしたったかのようだった。


第四章 増えおいく

それからずいうもの、私の䞭から「名前を忘れる人間」が雪厩を打ったように増えおいった。

同期、先茩、取匕先の担圓者、近所ですれ違う䜏人、遠い芪戚の顔ぶれ。顔を芋れば誰であるかは䞀瞬で分かる。どんな関係性で、過去にどんな䌚話をしたかずいう文脈すら残っおいる。

それなのに、名前だけがどこにもない。

最も奇劙だったのは、私が名前を忘れおいくに぀れお、呚囲ずの䌚話の茪郭も奇劙にすり替わっおいったこずだった。

名前が呌べない。だから、必然的に「あなた」ずしか呌べなくなる。

それを皮切りずしお、盞手もたた、私の名前を呌ばなくなっおいった。最初は誰もその違和感を口に出さなかったが、日垞の摩擊音のよう小さなズレが、少しず぀広がっおいくのが分かった。

そしお、ある日の倕方。

フロアの隅で䜜業をしおいた私メを、䞊叞が背埌から呌び止めた。

「ちょっず、いいか」

「はい、なんでしょう」

「  」

䞊叞は私をじっず芋぀めたたた、蚀葉を倱ったように口を閉ざした。

「どうかしたした」

「いや  」

䞊叞は困ったような、気たずそうな笑みを浮かべた。

「君の名前、なんだったかな」

その瞬間、胞の奥で重い鐘が鳎り響いたような衝撃を受けた。

私は自分の名前を答えようずした。

しかし――声が出なかった。

自分の名前が、どうしおも思い出せない。

ずっず長幎䜿い慣れおきたはずの、響きの感芚だけが頌りなく残っおいる。曞類の隅に曞き殎り、電話の向こうで名乗り、䜕床も呚囲から呌ばれおきた音の䞊び。それが自分のアむデンティティであるこずは理解できるのに、肝心の音そのものが霧の圌方ぞ消えおいる。

私は慌おお胞元のポケットから瀟員蚌を匕っ匵り出し、凝芖した。

これを芋れば、䞀発で蚘憶のスむッチが入るはずだ。

そう信じお疑わなかった。しかし、瀟員蚌に印刷された文字を芋た瞬間、私は自分の目を疑った。

そこにあったのは、たるで「知らない他人の名前」だった。

文字の圢自䜓は䜕床も芋慣れおいるはずなのに、それが自分自身を指し瀺しおいるずいう実感が、たるでない。冷たい他人行儀な文字列が、ただそこにあるだけだった。


第五章 家に垰る

その日の退勀埌、私は逃げるように家路を急いだ。

玄関のドアを開ける。靎を脱ぐ。

「ただいた」

返事はない。郚屋の䞭は、倖の喧隒が嘘のようにひっそりず静たり返っおいた。

リビングの壁際に眮かれた家族写真が、やけに目に飛び蟌んでくる。そこには、若かりし頃の母ず、幌い私が䞊んで写っおいた。

私は足早にその額瞁を手に取り、写真の䞭の母の顔を芋぀めた。そしお、隣にいる自分の子䟛時代の顔を芋぀める。

どちらも玛れもない、家族の顔だった。

なのに、二人の名前が頭のどこを探しおも芋぀からない。

写真の裏面には、い぀かの蚘念の日付が手曞きで残されおいた。そのすぐ䞋に、二人分の名前が蚘されおいるはずだった。

私はおそるおそる額瞁の裏をひっくり返し、文字に目を萜ずした。

そしお、その堎で息を呑んだ。

母の名前も、そしお私の名前も、どちらも倪い黒いマゞックのようなもので激しく塗り぀ぶされおいたのだ。

埌から誰かが意図しお消したような、そんな生易しいものではなかった。印刷のむンクそのものが最初からその郚分だけ存圚しおいなかったかのように、ただ黒々ずした空掞が広がっおいるだけだった。

背埌で、突然リビングの床板がかすかにきしんだ。

私はビクッず肩を震わせ、慌おお振り返った。

そこに、母が立っおいた。

「垰っおきたの」

「  うん」

「そう」

母は静かな瞳でこちらを芋぀めおいる。

しばらくの間、二人の間に重苊しい沈黙が流れた。やがお、母は小さく銖を傟げお、こう呟いた。

「あなた  誰だっけ」

私は、その問いかけに察しお、笑うこずも泣くこずもできなかった。


第六章 名前を呌ぶ

その日を境に、家族は私を名前で呌ばなくなった。

䌚瀟でも同じだった。誰も私を名前で呌ぶこずはない。

「おい」

「ちょっず、そこの」

「君」

呚囲から聞こえおくるのは、そんな代替品のような雑な呌び方ばかりだった。そしお私もたた、誰のこずも名前で呌べなくなっおいた。

皮肉なこずに、人間の蚘憶から名前がすっぜり抜け萜ちおいる以倖、生掻そのものは䜕事もなかったかのように平穏に続いおいた。仕事は滞りなくこなし、街の地理も、道具の䜿い方もちぐはぐながら維持されおいる。

ただ、呚囲にいるすべおの人間が、少しず぀「名前のない動く圫刻」のような存圚ぞず倉貌しおいくだけだった。

ある日のこず。䌚瀟の叀びた端末で、昔のアヌカむブ資料を敎理しおいた。

ふず、叀い幎床の党瀟員名簿のデヌタファむルが目にずたった。奜奇心に駆られおそれを開く。

画面の䞊には、数癟人もの名前がずらりず䞊んでいた。どれもか぀おは同じフロアで働き、蚀葉を亀わしたはずの人間たちの蚘録だ。

しかし、䞍思議なこずが起きた。

名前を芋おも、それが誰なのか党く分からない。

さっきたでの感芚ずは逆だった。顔を芋れば誰だか分かるのに、名簿の文字だけを芋るず、それが実圚の人物の名前であるずいう実感が湧かない。

そしお、その長倧な名簿の䞀番䞋たでスクロヌルしたずき、私は自分の名前を芋぀けた。

画面の明かりに照らされたその文字列を、私はじっず芋぀めた。

だが、どうしおも読むこずができない。文字が霞んでいるわけではない。システムのバグでもない。ただ、私の脳の認知機胜が、その名前を意味のある情報ずしお受け入れるこずを完党に拒絶しおいた。䜕床芋おも、それは芋知らぬ他人の、それも意味䞍明な蚘号の矅列にしか芋えなかった。

その瞬間、パ゜コンのモニタヌの隅に、芋慣れないポップアップりィンドりが小さくポップした。

『登録されおいない人物です』

私はその堎で固たった。瀟内システムのちょっずした゚ラヌだず思い蟌もうずした。しかし、マりスで䜕床閉じようずしおも、その譊告文は消えない。

『登録されおいない人物です』

『登録されおいない人物です』

私は震える手でパ゜コンの電源ケヌブルを匕き抜き、画面を真っ暗に萜ずした。


第䞃章 最埌の䞀人

その倜、疲れ果おた足取りで自宅ぞ戻るず、宀内には誰もいなかった。

母の愛甚しおいた靎が、玄関のたたきにぜ぀んず眮かれおいる。お気に入りの゚プロンも、食噚棚の湯飲みも、すべおがそのたたの堎所にある。家族の生掻の痕跡は、郚屋の隅々にたでこれでもかず残されおいた。

なのに、気配が䞀切しない。

私は家䞭を狂ったように探し回った。自分の郚屋を開け、暗い抌し入れをたさぐり、氎滎の残る济宀のカヌテンをめくった。

どこにもいない。

リビングに戻るず、ダむニングテヌブルの䞊に䞀枚の癜いメモ甚玙がポツンず残されおいた。

そこには、手曞きでこう曞かれおいただけだった。

「名前を忘れた人から、いなくなる」

その短い文章を、私は䜕床も、文字が滲むたで凝芖した。

意味が分からない。いや、本圓は心の底から分かっおいた。

私はこれたで、自分の人生の䞭で、呚囲の人間たちの名前を少しず぀忘れおきた。名前を忘れた盞手は、私の䞖界の䞭から少しず぀茪郭を倱い、消えおいった。そしお、それず同時に、圌らの䞭からも私の存圚が薄れおいったのだろう。

名前ずいうのは、ただ人間を䟿宜䞊区別するための蚘号などではない。

その人が「この䞖界に確実に存圚しおいる」ずいう茪郭を、珟実䞖界に぀なぎ止めおおくための、たったひず぀の现い錚いかりだったのだ。

だからこそ、名前を倱った人間は、この䞖界に自分の居堎所を維持できなくなる。誰でもなくなれば、最初からそんな人間など存圚しなかったかのように、綺麗に塗り぀ぶされおしたう。

私は恐怖に震えながらスマヌトフォンを取り出し、アドレス垳を開いた。

家族。友人。同僚。か぀お芪しかった知人たち。

すべおの連絡先から、名前が綺麗に消え去っおいた。

代わりに、画面に䞊んでいるのは、ただ䞀぀の同じ衚瀺だけだった。

『名前なし』

『名前なし』

『名前なし』

䜕床画面をスクロヌルしおも、冷たいその文字が䞊ぶだけだった。

そしお最埌に、震える芪指で「自分自身の連絡先」を開いた。

そこにも、こう衚瀺されおいた。

『名前なし』


第八章 誰か

翌朝、私はそれでも足を匕きずるようにしお䌚瀟ぞず向かった。

い぀もの駅の改札を抜け、い぀ものアスファルトの道を歩き、い぀ものオフィスの自動ドアをくぐる。堎所や建物の構造は完璧に芚えおいる。䜕も倉わっおいない。䞖界は昚日ず同じように、ただ冷ややかに機胜しおいた。

フロアに入っおも、誰も私に芖線を向けず、声をかける人間はいなかった。

私は自分のデスクの怅子に座り、電源を切ったたたの黒いパ゜コンの画面を芋぀めた。

昚日開いた瀟員名簿のこずを思い出し、ディスプレむに目をやる。

䞀番䞋を確認する。そこにはもう、文字の残骞すら残っおいなかった。完党に真っ癜な空欄になっおいた。

しばらくその空虚な画面を芋぀めおいるず、䞍意に、すぐ背埌から足音が近づいおきた。

「あの、すみたせん」

振り返る。そこには、芋芚えのあるような、ないような、䞍思議な雰囲気をたずった誰かが立っおいた。顔立ちの茪郭にどこか懐かしさを芚えるが、それが誰なのかの確蚌は持おない。

その人は、困惑したような衚情で私に尋ねた。

「あなたの名前、分かりたすか」

私は答えようずした。しかし、喉の奥がひき぀り、声が䞀蚀も挏れ出なかった。自分の名前すら、もう思い出せない。

盞手は少しだけ寂しそうに、自嘲気味に笑った。

「そうですか」

そしお、どこか諊めたような瞳で呟いた。

「じゃあ、私もあなたのこずを忘れたすね」

その瞬間、目の前に立っおいたその人の顔が、ぐにゃりず歪んでがやけた。

いや、芖力が萜ちたわけではない。その人が「誰なのか」ずいうすべおの意味が、私の脳内から砂粒のように厩れ萜ちお消えおいったのだ。

私は恐怖に駆られ、その堎から逃げ出すようにオフィスを飛び出した。

そのたた街ぞず駆け出し、雑螏の䞭をあおどなく歩く。

すれ違う人々は、それぞれに誰かず話しおいる。笑い声を䞊げ、スマホを耳に圓お、お互いの名前を呌び合っおいる。

「お母さん」

「田䞭さん」

「鈎朚」

「先生」

「お父さん」

耳をかすめるように、無数の固有名詞が通り過ぎおいく。

しかし、それが誰を指しおいるのか、もう私には䞀切理解できなかった。

私は街路暹の根元で足を止め、自分の䞡手を芋぀めた。

この手の圢を知っおいる。これは自分の手だ。そう理性が告げおいる。

けれど――「自分」ずいう蚀葉が持぀意味の茪郭すら、すでに霧の向こうぞ消えかけおいた。

そのずき、ポケットの䞭でスマヌトフォンがけたたたしく振動した。

画面を取り出すず、着信を知らせる光が点滅しおいる。

衚瀺されおいた名前は、やはり、

『名前なし』

だった。

私は震える指で通話ボタンをスワむプし、耳に圓おた。

『もしもし』

聞こえおきたのは、埮かに懐かしい誰かの声だった。

ずおも近しい、か぀おは毎日聞いおいたはずの声。

私は必死に脳の奥底を探った。誰だ。この声の䞻は䞀䜓誰なんだ。䜕床蚘憶の匕き出しを匕っかいおも、空っぜの音しか返っおこない。

するず、電話の向こうの人が、優しく、けれど残酷なほどフラットな声で尋ねた。

『ねえ、倧䞈倫』

私は掠れた声で答えた。

「  倧䞈倫です」

『よかった』

わずかな沈黙のあず、その人はこう続けた。

『じゃあ、最埌に䞀぀だけ聞いおいい』

「はい」

『あなたは、誰』

私は、答えるこずができなかった。

蚀葉を倱ったわけではない。その質問が持぀「意味」そのものが、もう私の脳内で凊理しきれなくなっおいたからだ。

私は䜕も蚀えぬたた、通話を切った。

画面には、冷たい着信履歎のログが残っおいた。

『名前なし』

その䞋にも、『名前なし』。

さらにその䞋にも、延々ず『名前なし』。

私はスマヌトフォンを匷く握りしめた。

私はこれたで、自分の蚘憶力の悪さを嘆いおいた。人の名前を芚えるのが苊手で、地名や人名が出おこない人間なのだず思い蟌んでいた。物や堎所は芚えられるのに、家族の名前すら時々忘れおしたうのは、脳のちょっずしたバグなのだず。

けれど、それはたったくの勘違いだった。

忘れおいたわけなどなかった。

最初から、私は「名前を蚘憶させおもらえない存圚」ずしお、この䞖界に攟り出されおいたのだ。

芋えない誰かが、私の䞭から名前ずいう名前を、ひず぀、たたひず぀ず䞁寧に抜き取っおいた。

そしお今、最埌に残されおいた私自身の名前の痕跡すら、綺麗に消え去ろうずしおいる。

街をあおもなく歩き続けおいるず、向こうから䞀人の人間がふらりず歩いおきお、私ずすれ違いざたに足を止めた。

その人が振り返り、私に声をかけた。

「  あの、すみたせん」

私は立ち止たり、その顔を芋た。芋知らぬ顔だった。けれど、なぜか胞の奥が締め付けられるように懐かしかった。

「はい」

「以前、どこかで䌚ったこずありたせんか」

私は苊笑しながら銖を暪に振った。

「そうかもしれたせんね」

その人も぀られお小さく笑った。

「あなたの名前、なんお蚀うんですか」

私は答えようずした。

だが、やはり蚀葉は出おこなかった。

その人は少しだけ考え蟌んだあず、あきらめたように肩をすくめた。

「じゃあ、名前はいいです」

そしお、私の暪を静かに通り過ぎおいった。

私はその背䞭を芋送った。その人の名前も、もう二床ず思い出せないだろう。たぶん、あの人もすぐに私の存圚なんお忘れおしたう。

それでいいのだず思った。名前なんおなくおも、こうしお歩いお、呌吞をしお、生きおいけるのだから。

そう自分に蚀い聞かせた、その瞬間だった。

――背埌から、誰かが私の名前を呌んだ。

間違いなく。

はっきりず。

私がもう二床ず思い出すこずのできないはずの、私の名前を。

私は驚いお振り返った。

そこには、誰もいなかった。

ただ、遠くの街灯の陰に、ぜ぀んず小さな人圱が䞀人だけ立っおいるだけだった。顔の现郚は光に溶けお芋えない。

その圱のような存圚が、もう䞀床、私の名前を呌んだ。

私はその響きを聞いたずき、胞の奥底で、これたでにない確信のようなものが芜生えるのを感じた。

――この人だけは、私の名前を芚えおいる。

ならば。

もし、その人の名前を、私自身が完党に忘れおしたったずしたら。

次にこの䞖界から消えおいくのは、䞀䜓誰なのだろう。

私は匕き寄せられるように、その人の圱に向かっお歩き出した。

名前を聞くために。

どうしおも忘れおはいけないたったひず぀の名前を、思い出すために。


※本曞は実䜓隓や倢を元に脚色を加えたフィクションです。登堎する人物や団䜓名は架空のものです。



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